第26話 グループレッスン(2)

 ありすの唇からこぼれる優しく甘やかな歌声は、海面を魚が飛び跳ね、一面のコットンファームが夏の太陽に照らされている歌詞冒頭の光景を沙羅の心に浮かび上がらせた。

 沙羅はありすの歌を聴きながら、次は自分の番だという緊張感で口が乾くのを感じた。『Summertimeサマータイム』は何度か聴いたことがあるが、ジャズシンガーによって歌い方がまるで違うため、どう歌えばいいのかが分からない。


 ありすは緩慢ではなく、かといってこの曲で有名なBillie Holidayビリー・ホリデイよりはゆっくりと蕩けるような声で歌う。沙羅はその歌詞を聴きながら、この歌が子守歌であることに気づいた。

 私、この歌の背景について全然知らないし、歌い方も分からないのに突然歌うなんて無理。英玲奈先生は意地悪だ。

 ありすが淀みなく歌い上げた後も、沙羅は口を結んだまま立ち尽くしていた。


 英玲奈はそんな沙羅の表情をしばらく見つめた後、再びありすに顔を向けた。

「ありすさんはよくこの歌を聴いていたのかしら?」

「はい。中学の時の元カレがジャズきだったので、ジャズはよく聴きました」

 ありすは飄々とそう答えてから横に立っている沙羅に視線を向け、硬直している横顔を見てくすっと笑った。

「沙羅ちゃん。好きなように歌っていいんじゃない? ジャズってそういうものでしょ。ね、英玲奈先生?」


 中学の時の元カレ……亮先生とも……。ありすが発した言葉の数々から自分より明らかに経験豊富なありすの恋愛と、以前、英玲奈から恋愛経験の少なさを指摘されたことが沙羅の不安を増幅させた。

 だが、『Summertimeサマータイム』も『Feeling フィーリングGoodグッド』も歌詞は恋愛とは関係がないはずだ。どちらかというと黒人差別からの解放を願うような歌だったと記憶している。それなのに、この二つの曲を初めて聴いた時、も言われぬ妖艶さを沙羅は感じたのだ。


 「あの……すみません、『Summertimeサマータイム』は次のレッスンの時に歌わせてください。ジャズって歌い方がいろいろあって、準備しないと私には難しいんです」

 沙羅は若干声を震わせながら英玲奈にそう言うと、自信なさげに俯いた。

「そう。仕方ないわね。あのね、沙羅ちゃんが言う通り、ジャズはメロディーが固定しているポップスや歌謡曲とは違うわ。でも、基本のメロディーはあるのよ。だから、まずはそれをしっかり覚えてちょうだい。それから、いろいろなバージョンを聴いて好きな歌い方を見つけること。でも、そのまま歌ってはだめ。だって、歌いまわしとリズムの取り方こそがそのシンガーの個性であって世界観なんだから。分かった?」


 英玲奈は沙羅に優しく微笑みながらそう言うと、目に力をいれて正視した。

「でも、『Feeling Goodフィーリング・グッド』は歌ってもらうわ。あなた声が低いしこういうのは歌えるはずよ」

 微笑みながらも拒絶の隙を与えぬ英玲奈の表情を前にして、沙羅は顔を引きらせた。

「そんな顔しないで。いじめてるわけじゃないんだから。この曲はね、もともとミュージカルで歌われた曲なの。1960年代のイギリスよ。階級社会で差別を受けていた黒人が劇中のゲームで白人に勝つの。その時の黒人の気持ちを想像して歌ってみて」


 英玲奈が与えてくれたヒントは沙羅が知らないこの曲の背景であった。沙羅は驚きつつも、沙羅がかつて聴いたNina Simoneニーナ・シモンのバージョンを思い出していた。

 彼女はピアニストとして類まれな才能を持っていたが、黒人であることを理由に差別されクラシック音楽の道を閉ざされてしまう。1950年代前半のアメリカである。その後、貧困にあえぎながらも歌手の道を目指すことになる。


 沙羅はNina Simoneニーナ・シモンの過酷な人生に思いを馳せながら、低い声を響かせながら歌い始めた。

 空を飛ぶ鳥や頬を撫でる心地よい風、太陽に煌めきながら流れる川、海の中を泳ぐ魚たち、あちらこちらに咲き誇る花々、今までの私はただ眩しくそれらを眺めていた。その美しさ、ありのままの崇高な姿に憧れと称賛を抱きつつ、自分の置かれた状況を嘆きながら。


 Nina Simoneニーナ・シモンは黒人公民権運動で精力的に活動するようになる。自分だけではなく同胞の人権と自由を求めたその活動は、彼女の音楽性にも影響を及ぼし、音楽業界から干されてしまう。

 たとえ仲間が苦しんでいても自分さえよければいい。そう思えなかった彼女だからこその活動が、彼女の生活から仕事も自由も奪ってしまう。沙羅は彼女の悔しさと憤りに共感し、自由を勝ち得たときの湧き上がるような喜びと泣きたくなるような感情を歌に込めた。


 自分だって本当は街中まちなかでじろじろと不躾な視線を送られるのは嫌だ。中学の合唱部で自分は一番上手だと自負していたのだ。それなのに、一列目のセンターには立たせてもらえず、三列目の端が定位置だったのだ。パルマでどんなに頑張っても案内係にはさせてもらえない。この容姿で差別されずに中身を見てもらいたい。

 そんな沙羅の奥底に潜んでいた本心が『Feeling Goodフィーリング・グッド』の歌詞に乗って吐き出されているかのようであった。



 


 










 

 



 



 


 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る