第三章

第25話 グループレッスン(1) 

 教会を後にした沙羅は、冷めやらぬ高揚感を持て余しながら藤沢宅の玄関前に辿り着き、先客に気づくと足を止めた。

 ノースリーブのロングワンピースを着たその女の子は、沙羅の気配を感じて顔をそちらに向けた。沙羅と同じ年頃だろうか、恐らくアジア人と欧米人のハーフであろうその子は、端正な顔立ちで可憐な雰囲気を漂わせている。


 「あ、もしかして沙羅ちゃんですか? 今日から一緒に練習する皆川みながわありすです。よろしくね。ありすって呼んでね」

 ありすは大きな目を見開いて沙羅をしばらく見つめた後、柔らかく微笑んだ。沙羅も挨拶を返そうと口を開けたところでドアが開き、二人は英玲奈によって中へと招き入れられた。


 レッスン室で一通りの発声練習を終えると、二人はピアノチェアに腰かけた英玲奈が口を開くのを待った。

「亮の生徒さんでR&Bをやりたいのはあなた達二人だけなの。だからイベントまではしばらく一緒に練習してもらうわ。それから、歌う曲は決まっています。『Summertimeサマータイム』か『Feeling Goodフィーリング・グッド』。二曲とも練習してもらって、それぞれどちらが合っているか私が決めるつもり」


 事も無げにそう告げる英玲奈に対し、沙羅は驚いて口を開けたまま彼女を見つめた。

「あの……私、オープンイベントで歌おうと思ってた曲があるんです。Beyoncéビヨンセ の『Listenリッスン』なんですけど、だめですか?」

「だめ。沙羅ちゃん、あなたが選ぶのってそういう声を張って歌う曲ばかりでしょ、いつも。R&Bはね、声を張り上げればいいってものじゃないのよ。『Summertimeサマータイム』はジャズのスタンダードナンバーだけど、R&Bやソウル、ポップやロック、色々なジャンルで歌われているわ。表現力について自分なりに模索して欲しいの」

 英玲奈は眉一つ動かさずに、厳しい表情で沙羅を見つめ返した。


「でも……スタンダードナンバーだからこそ難しいです、私には。ジャズって間の取り方がよく分からないんです。それに、『Feelingフィーリング・ Goodグッド』ってプロでも緊張するって言われてる曲ですよね? 私、人前でちゃんと歌うの初めてですし、自信ないです」

 沙羅は顔を左右に小刻みに振りながらそう言うと、同意を求めて横にいるありすに視線を送った。ありすは沙羅の方は見ずに英玲奈を真っ直ぐに見たまま小さく頷いた。


「分かりました。私も自信ないですけれど、良い機会ですし頑張ります」

 柔らかい表情を崩さずに毅然と答えるありすの横顔を、沙羅は言葉を失ったまま見つめた。英玲奈はありすの言葉に口元だけ綻ばせると、椅子から立ち上がった。

「そう。ありすさんはいつも前向きで偉いわねぇ。それじゃ、私、楽譜持ってくるから、ここで待ってて」

 

 英玲奈が部屋から出たとたん、ありすはため息をついた。

「嫉妬って見苦しいね。見た? 曲の話をした時のあの冷たい目」

 打って変わったように無機質な瞳でそう呟くありすに、沙羅は戸惑った。

「嫉妬?」

「そう、私たちが亮先生のお気に入りだから。沙羅ちゃんも寝たんでしょ? え、違うんだ。お気に入りになった人は辞めるか寝るかだから、そうかと思っちゃった。ごめんね」

 沙羅は人形のような顔立ちをした目の前の美少女からそれに似つかわぬ言葉を聞き、混乱しながらも何度も首を振った。


 「ごめんごめん。沙羅ちゃんの事、亮先生から聞いてたからどんな子かなって楽しみにしてたんだ。同い年だし。亮先生は事務所に紹介してもらったの。私、小さい頃からモデルやってて。でも、本当にやりたいのはシンガーだけどね」

 あどけなさと大人びた表情を交互に覗かせながら、ありすはその透き通った目で沙羅をじっと見つめた。沙羅も吸い込まれそうなその瞳を見つめ返す。

「さっき、玄関で見た時、すごい綺麗な人だなって思ったの。モデルだったんだ」

 沙羅の言葉に謙遜もせず頷くありすに思わず見惚れながら、沙羅は思い出したように言葉を付け足した。


「そうだ、私、さっきの曲二つとも難しすぎて人前で歌うなんて無理。ありす……ちゃんは大丈夫なの?」

「私だってR&Bは始めてまだ一年だし、人前で歌ったことなんてないよ。でも、多分亮先生に言っても意味ないと思う。だって英玲奈先生がライブバーの資金を半分位払ってるみたいだし。やるしかないでしょ」

 自分の知らない情報を次々に繰り出すありすに沙羅は驚きつつ、受け入れざるを得ない状況である事を認識し始めていた。


 レッスン室の扉が開き、楽譜を手に入室した英玲奈は二人の顔を交互に見比べた。

「今日は初日だから、二人とも好きに歌ってみて。まずは『Summertimeサマータイム』ね。それじゃ、ありすさんから」

 そう言うと、英玲奈は鍵盤をいくつか押さえてありすにキーの確認を取り、前奏を弾き始めた。


 ありすは深呼吸をして、目を伏せたまま歌い始めた。

 その歌声を聴いた瞬間、彼女の話し声とはまるで違うスモーキーボイスに沙羅は驚いた。それは甘くまろやかな心地よい響きとなって沙羅の耳をくすぐり、身も心も溶かすような魅惑的な歌声であった。



 

 

 





 

 

 

 


 


 




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