第24話 教会(3)

「分かっていたの。音楽短大に入れても卒業後はピアノ教室の先生ですら、なるのが難しいって。それでも諦められなかった。だから、高額なレッスン代の足しになるようにアルバイトもたくさんしたわ」

 京子は十字架から視線を藤沢に戻し、憂いを帯びた眼差しで力なく微笑んだ。


「京子さんがあの短大を選んだおかげで僕は京子さんに出会えた。そして、僕達と知り合えたから京子さんはルイスと出会えた。それから沙羅ちゃんにも。そうだろう?」

 藤沢の温かい声は京子の内奥に潜んだ感情をあらわにさせ、彼女は声を震わせた。

「でも、ルイスはあんなに早く……。私ね、心の底からお金が欲しいと思ったの。何度も何度も。いつもあの子に我慢させてばかりでそれが本当に辛かったのよ」


 京子は込み上げる感情を制御できずに、藤沢から視線を外して目を伏せた。深呼吸をする京子を藤沢は黙ったまま見つめている。

「音楽短大に進学することを父は許してくれたけれど、卒業したらお金のことで頼らないというのが条件だったの。だからずっと必死だった。もし、沙羅が音楽の道に進んで貧窮したとしても私、助けてあげられない。だから、何かひとつ手に職をつけて欲しいと思う。それは間違っているの、亮君」


 話の途中で顔を上げ、藤沢を食い入るように見つめる京子は、今にも崩れ落ちそうだ。

「僕は結婚をしたこともないし、子どもを育てたこともない。京子さんを尊敬するよ、心から。きっとあれだろう、音楽の道に進んだら僕みたいな女にだらしない奴がいるから不安なんだろう?」

 場の空気を和らげるかのように藤沢がそう言うと、京子もつられて表情を緩めた。


「それは……ないとは言えないわね。ルイスは女性関係は真面目だったけれど、裏方とは言え収入は不安定だったし。でも、もう沙羅も十八だし、あの子の人生だから誰を選んでもあの子の自由。それは分かっているつもり」

 ひとしきり不安を吐き出したせいか、京子の顔には諦めと受容の表情が浮かんでいる。藤沢はそれを認めると安堵したように微笑み、しばらく京子を見つめた。


「ルイスはあのライブバーでいつも一番最後まで飲んでいた。酒癖は悪くなかったが、コンサート期間中は目が据わっていたよ。本番は何があるか分からないし、音響のルイスも気を張ってるんだろうと思ってたんだ。ところがそうじゃなかった。ルイスは舞台に立ちたかったんだ。本当はベーシストになりたかったんだよ」

 目を見開く京子を見つめたまま、藤沢は頷いた。


「京子さんは遅くまで残らなかっただろ。あのライブバーは深夜にはほとんど客がいなくなる。その後はお楽しみだ。僕がギターでルイスはベース、ドラムはリッキーで三人揃えばいつもそうやってプロになりきったんだ。ルイスは僕達より八つも年上だったけど、気さくで何でも知っていて憧れだったんだよ」

 京子は藤沢の瞳の奥に彼らが演奏している姿が見えたような気がした。


「結局、そういうことなんだ。夢から目を背けても心の底に燃えさしが残っていたら、いつまた火がつくか分からない。それが若い時ならやり直しも効くが、所帯を持ったり体力が衰えてからじゃそう簡単にはいかない。ルイスには酒が必要だったんだ。その葛藤から目を背けるために」

 藤沢の苦渋に満ちた表情から深い悲しみと後悔が読み取れ、京子はルイスの墓石の前で号泣した若き藤沢を思い出した。


 ルイスの膵臓がんは発見時、既にステージ4で手の施しようがなかった。彼は故郷のサンディエゴに帰ることを望み、妻子を連れて両親の家に身を寄せ、治療と呼べるような治療は受けずに大麻で痛みを凌ぎながら最期の数カ月を過ごしたのだ。

「あの人、サンディエゴではいつもベースやギターを弾いていたわ。沙羅の記憶に残る自分が笑顔で楽しんでいる姿であって欲しいからって。私、あの人がプロになりたかったなんて知らなかった」


 記憶を手繰たぐり寄せながらぽつりぽつりと話す京子を見つめたまま藤沢は頷いた。

「何歳だっていい。夢を諦めるためには一度本気でぶつかって自分の限界を知ることが必要なんだ。それでも諦められないならその業界に他の形で関わるか趣味にしたっていい。僕はルイスの死からそう学んだんだ。僕はルイスの背中を押してやれなかったけれど、今は背中を押すのが僕の仕事だ」

 京子は藤沢の気迫に気圧けおされるように頷いた。


「沙羅ちゃんだけじゃない。京子さんだってそうだ。本当は今だってピアノをやりたいんだろう?」

 予想外の問いで言葉を失う京子に追い打ちをかけるように、藤沢は言葉を継ぐ。

「沙羅ちゃんの事が不安なのは、京子さん自身が後悔しているからだ。まだ納得していないんだよ、自分が選んだ道の結果に。だったら、趣味でも何でもいいから続けてみたらどうかな。差し出がましいかもしれないけど、僕はそう思うよ」


 真っすぐに自分を見据える藤沢と対峙し、京子は潜在意識で燻ぶっていた燃えさしの存在を自覚した。

「アパート住まいでピアノからは長く離れていたから……そんな事、考えた事もなかった。少し時間を取って考えてみる。そうだ、亮君、ここ一時間だけ開けてもらったの。駅まで送って行くわ」

 京子ははっとして立ち上がると扉の方に藤沢を促し、二人は足早に教会を後にした。

 

 

 

 

 





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