第23話 教会(2)

 沙羅の歌声は小さな教会の壁と床に反響し、歌い終わった後も京子はその衝撃からか身じろぎ一つしなかった。

 沙羅は振り返って祭壇と十字架を前にし、胸の前で手を組むと目を閉じた。それから未だ言葉を発せずにいる母親に向き直った。

「もう時間だから、私、行くね」

 京子は黙って頷くと、自分の隣に置いてあった娘の鞄を沙羅に手渡した。


 扉に向かって歩いていく娘の背中を京子は目で追いかけ、掠れ声を捻り出した。

「待って。あなたがあんなに歌えるってママ、知らなかった」

 沙羅はゆっくり振り返り、二人はしばらく見つめ合った。沙羅は口元だけで微笑を作ると右手を振って前を向き、木製の扉を押して外に出た。


 自然に閉じられた扉を京子は見つめていた。長年雨風に打たれ、夏の日差しを浴びた扉は傷み、内側にも歪みが生じている。

 沙羅が生まれてしばらくして、夫のたっての願いであの扉を押し洗礼を受けた日の事が京子のまぶたに浮かんだ。流れ星のように過ぎ去った家族三人での生活。暗闇に突き落とされ、目の前のことを一つずつ必死に積み重ね、娘と二人三脚でここまで来たのだ。


 沙羅の歌に込められた痛切なまでの想いは京子の心の奥底を揺らしていた。

 ふいに扉が開き、軽やかな足取りで藤沢が入って来た。

「京子さん、ごめん、遅れてしまって」

 藤沢は額の汗を手でぬぐいながら、中央の通路を歩いて京子に近寄った。京子も慌てて立ち上がり、歩み寄る藤沢に向けてお辞儀をする。


「お忙しい中すみません。もう九月も終わりなのに外は暑くて大変だったでしょう」

 水色の木綿のワンピースに白いカーディガンを羽織った京子は、お辞儀で前にかかった髪を両手で払ってから藤沢を懐かしそうに見つめた。それから鞄から白いハンカチを取り出すと藤沢に手渡し、藤沢は礼を言ってそれを受け取ると額の汗を拭いた。

「全然変わってないね、京子さん」

 微笑みながらそう言う藤沢に、京子はやや照れながら微笑み返した。

「そんなはずないでしょ。十五年も会っていないんだもの。でも、亮君のそういうところは全然変わってないわね。いつも周りに女の子がいたもの」


 藤沢はハンカチを京子に返し、彼女の色素の薄い茶色い瞳をじっと見つめた。

「ずっと好きだった人は手に入らなかったけれどね」

 その真実味を帯びた声の調子に京子は思わず目を逸らし、曖昧に微笑した。

「あの時、ルイスがあのライブバーに来なければどうなっていただろうね、僕達は。僕の気持ちは何度も伝えていたのだから」

「……亮君」

「ごめん。久しぶりに京子さんに会ったら、一瞬であの頃の自分に戻ってしまった」

 京子の困惑した瞳と藤沢の切なそうな瞳が絡み合い、二人はしばらく見つめ合った。先に視線を外し目を伏せた京子から自分も視線を外すと、藤沢は長椅子に腰を下ろし、両手を組んで故人に祈りを捧げた。


 京子も同じ長椅子に藤沢から少し距離を開けて腰かけ、祈る藤沢を見つめる。

 藤沢は瞼を開き、京子に向き直ると口を開いた。

「さっき沙羅ちゃんとすれ違ったよ。頬が紅潮してた。何かあったのかい」

 心配そうに藤沢に尋ねられ、京子はつい今しがたの記憶が蘇り思わずため息をついた。

「沙羅の歌を聴いたの。あの子が歌いたいって言うから」

「へぇ。何の曲?」

「『Listenリッスン』」

「あぁ」

 藤沢はその曲名を聞くと合点がいったというように頷き、京子の表情を窺った。


「どうだった? 沙羅ちゃんの意志は伝わったかな」

 京子はその言葉の真意を探るように藤沢を見つめ、黙って頷いた。

「そう。亮君にも相談していたのね。……私、あの子が音楽が好きなのは嬉しいの。一生好きでいて欲しい。でも、仕事にするのは甘くない。それは亮君だって分かっていることでしょう?」

 切実に訴える京子を藤沢は穏やかな表情は崩さずに真剣な眼差しで見つめ返した。


「僕は保護者が反対すること自体は悪いとは思っていないよ。この道は金がある方が圧倒的に有利だ。才能がないと始まらない世界だが、それを伸ばすには金がかかる。それもできるなら本場に留学した方がいい。ただ、どんなに金をかけてもこの道で食っていけずに裏方に回るか全然違う職に就く奴も多い。そうだろう?」

 京子は自分の想いを代弁するかのような藤沢の言葉に安堵し、何度も頷いた。


「その資金を苦も無く用意できるような環境ならいいが、そうじゃないなら反対したっていい。それで諦めるならそれまでなんだ。この業界で食らいついてやろうっていう気概があるなら、諦められないはずだ。京子さんだって、あの音楽短大行くのに随分反対されたんじゃなかったかい」

 藤沢は京子の気持ちに寄り添いながらも彼女の古傷を抉るような鋭い問いを投げかけた。京子の顔に一瞬にして影が落ち、それを藤沢は見逃さなかった。藤沢は京子が口を開くのをただ辛抱強く待った。


「そうよ。父は市役所勤めで母はパート主婦だったから、我が家から音楽大学なんて夢のまた夢だった。兄は教育大学で小学校の先生を目指していたし、私はあの家で異端児だったの。無口で静かな子だったけれど……とても頑固だったの」

 藤沢から視線を外し、壁に掛けられた十字架をぼんやりと眺めながら京子は静かに話し始めた。

  

 

 


 

 

 

 




 



 

 

 

 

 

 

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