第22話 教会(1)

 初めてだったのに。これくらいって……。

 まぁ、私も「付き合ったことない」って言わなかったけど。

 でも……でも……あの時の雰囲気で分からない!? なんだかんだ付き合う事になっちゃったし……嬉しいけど、心の準備が……。


「沙羅。ママの声聞こえてる? パパへのお祈り、随分長いわね。それにしても亮君、遅いわねぇ。土曜日なのに無理を言って一時間だけ教会を開けてもらったのだから、遅れたら困るのだけど」

 沙羅は長椅子の前列に座り、両手を組んで目を閉じていた。毎年、父親の命日には祈りを捧げるために母親と教会に足を運んでいる。

 

 沙羅は隣りの母親の声に我に返り、聞いていなかったのを誤魔化すように慌てて頷いた。

「沙羅、大丈夫? 最近、ボーっとしているじゃない。亮君……じゃなくて亮先生がパパの為にお祈り捧げてくれるのは嬉しいけれど、あの人が遅刻魔なの、私すっかり忘れてたわ。パパが亡くなった時にアメリカの墓地まで来てくれたけれど、それ以来会っていないんだもの」

 京子は腕時計を確認すると後ろを振り返って扉を見た。


「私、このあと英玲奈先生のレッスンだからあと少ししかいられないよ。携帯見てみたら? 亮先生からメッセージ来てるんじゃない?」

 沙羅にそう言われて携帯電話を見ると、京子は安堵のため息をついた。

「良かった。あと二十分位で着くって。それじゃ、沙羅と入れ違いね。沙羅、ライブバーの方は順調に片付けが進んでるの?」

 京子は心配そうに沙羅を見つめる。


「うん。何とか進んでるよ。田嶋さん、今、知り合いの大工さんのお手伝いをしているみたいで家の外に廃材が積んであるけれど、それを片づけたらリフォームできるんじゃないかなぁ」

「すごいじゃない。犬の方は懐いたの?」

「まだ触れないけどね。でも、今度散歩に連れて行くの。それでもう少し仲良くなれたら、すれ違う人に吠えるのが減るんじゃないかなって」

「やっぱり、あなた、動物関係のお仕事が天職なんじゃないかしら、沙羅」

 嬉しそうにそう言って、京子は沙羅の肩にそっと手を置いた。


「ママ……田嶋さんのお母さん、田嶋さんが小学校を卒業した時にフィリピンに帰っちゃったの、知ってた?」

 いつになく真剣な眼差しの娘に驚いて、京子は小さく頷いた。

「複雑なご家庭だったみたいね。私が短大生の頃、高校生だった亮君やリッキー君達が学園祭に来てくれて知り合ったのだけど、リッキー君はなんだか近づきがたくて。女の子とは距離を置いている感じだったのよ。それでお酒の席で亮君からその話を聞いて……納得したのよね」


「私、田嶋さんのお母さんがいいお母さんだったかどうかは分からない。でも、あそこで歌ったり踊ったりしてたのに、田嶋さんのお父さんからお金をほとんどもらえなかったって聞いて、びっくりした。それでね、映画の『ドリームガールズ』の『Listenリッスン』って曲が頭に浮かんだの」

「ああ、前に一緒に家で観た映画ね。Beyoncéビヨンセが歌ってた曲でしょ? あれは覚えてる。すごい迫力だったもの」

 微笑みながら京子は頷いた。


「うん。よくオーディションで歌われる曲。なんかね、1月にライブバーがオープンしたら、イベントやるんだって。亮先生の生徒はみんな歌わなきゃいけなくて。私、この歌を歌おうと思ってる」

「まぁ。すごく難しそうな曲だけど、大丈夫なの?」

 沙羅は頷いてから、眼差しに力を込めて母親を見据えた。


「今、ここで歌ってみていい? 久しぶりに教会に来たら、ゴスペル歌ってたの、思い出しちゃった」

 嬉々として何度も頷く京子を見て、沙羅は席を立ち、祭壇の前に立つと目を閉じた。

 沙羅の背後の壁には金色こんじきの十字架がきらめき、頭上からは白熱灯の煌々こうこうとした明かりが沙羅の全身を照らし出している。


 沙羅の頭に浮かぶのは、『ドリームガールズ』でディーナ役のBeyoncéビヨンセが自分をコントロールする恋人から独立を決意し、彼の前で歌うシーンだ。この架空の人物ディーナは、ダイアナロスがモデルである。彼女が所属レコード会社モータウンの創業者でありかつての恋人であったベリー・ゴーディーの支配から逃げ、移籍を決めたことがこの曲の下敷きになっている。 


 沙羅は目を開いて母親を見つめながら囁くような声で歌い始めた。

 自分らしさを失い、恋人の支配に操られたダイアナロス、そして田嶋の母親の苦しみを胸に抱きながら。次第にその声は震え、力強さを増していく。


 何度も言ったのに、あなたは分かろうとしてくれなかった。私はあなたの操り人形じゃない。

 そんな想いを込めて歌う沙羅の右手は、まっすぐに伸びて京子を指し、それからもっと先の教会の扉を指し示す。低音では重く深い声色が高音では輝きを放ちながら伸びていき、京子の胸に突き刺さる。


 私はもうかつての私じゃない。自分の人生を生きたいの。たとえ、あなたの元から去ることになったとしても。

 そんなメッセージを、沙羅は京子から目を逸らさずに歌に叩きつける。それは沙羅自身の悲痛な叫びだ。愛する人に自分らしさを否定された者の悲鳴だ。

 

 沙羅はダイアナロスや田嶋の母親、それから翔太、そして自分の苦しみを想った。

 きっとこの世には同じ葛藤を抱えた人がたくさんいる。

 その人たちの心に寄り添い、踏み出す勇気が湧くような歌が届けられたら。

 沙羅は京子から視線を外し、まっすぐ前を見据えて歌い切った。


 

 


 


 


 


 


 


 


 


 



 

 

 

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