第19話 ロッキー(3)

 沙羅は田嶋の後を追って舞台袖の階段を上がった。元は楽屋だったその部屋に足を踏み入れ、その乱雑さと鼻を突く異臭に沙羅は思わず顔を歪めた。

「ひどいだろ。これでも今週から少しずつ手を付けてるんだ」

 田嶋は申し訳なさそうにそう言うと、空のビール缶を拾ってビニール袋に入れた。

「お酒、飲まないと眠れないんですか?」

 沙羅は畳の小上がりに敷いてある寝床とその枕元に転がっている酒瓶を見てから、田嶋に視線を移した。


 みゃあと寝床の上の黒猫が鳴いた。

「ミック、俺の酒癖の悪さをばらすなよ」

 ビニール袋の口を縛りながらミックを見て苦笑すると、田嶋は布団を畳み始めた。

「あの、私の父は私が3歳の時に亡くなったんです。お酒の飲み過ぎだったらしくて。膵臓がんであっという間に……って母から聞きました」

 布団を奪われたミックがカラーボックスの上に飛び乗るのを眺めながら、沙羅はぽつりと呟いた。田嶋は沙羅を横目で見てから畳んだ布団を部屋の隅に置いた。

「ルイスはうちの店でも浴びるように酒を飲んでいたからな。酒に強くて素面しらふみたいに態度が変わらなかったから、止める奴もいなかったんだ」

 

 田嶋はビニール紐を沙羅の方に転がすと、これで潰した段ボールを縛って欲しいと言った。

 沙羅は段ボールを束ねながら、一階のバーで父親のルイスが酒を飲んでいる姿を想像した。その隣には母親がいたのだろうか。若い頃の藤沢も。

「パパに生きててもらいたかったです。ほとんど記憶がないので。それに……。だから私、男の人と友達みたいな関係にしかなれないのかなって思ったり」

 最後の方は自分に問いかけるように沙羅は呟いた。田嶋は振り返ってしばらく沙羅を見つめてから口を開いた。


「俺が小学校に上がったばかりの頃、母親が家にいなくてここに探しに来たことがあった。夜はここで踊っていたが、夕方はいつも家にいたからな。一階のドアを開けた時にアレの最中の声がかすかに聞こえたんだ。俺はそれがなんだか分からなくて、階段を上がっちまった。そこのドアの隙間から母親とバンドのメンバーが寝てるのを見ちまった。だから、この部屋にいると気分が悪くなって酒を飲んじまう」

 沙羅は想像だにしない告白に、愕然とした表情で田嶋を見つめた。


「母親は十八で俺を産んだが、親父は三十も年上だった。初めから金目当てで親父に近づいて、親父もそれを分かっていたから贅沢はさせなかった。毎日ステージに立たせたくせに、自由になる金はほとんど渡さなかったんだ」

 そこまで言って田嶋はふうと息を吐いた。


「俺には君の苦労は想像することしかできない。だけど、両親揃ってて金があれば幸せかって言うと、そうじゃないって言うのはこの俺を見りゃ分かるだろう」

 田嶋の瞳は暗かったが、沙羅はその中に優しさを見い出し、泣きたいような感情に襲われた。それは田嶋少年への憐憫れんぴんの情なのか、自分ばかりが不幸のように感じていた心に慰めを感じたのか、沙羅自身にも分からなかった。


 頭に翔太の顔が浮かぶ。

 どうしてあの時、翔太さんの事情を聞いてあげなかったんだろう。

 沙羅は唇を噛んだ。

 田嶋の背後の壁には、一階の壁にあったのと同じ写真が画鋲で張り付けられていた。


「何て言っていいか分からなくて……ごめんなさい。でも、あの、その写真の人が田嶋さんにとって大切な人だったんですね。きっと。家族みたいに」

 沙羅は言葉を絞り出すようにそう言った。

「年頃の女の子に聞かせる話じゃなかったな。すまない。そう、こいつが俺の全てだった。人間不信だった俺の心の隙間に入り込んできた奴だ。だけど、日本の暮らしが奴には合わなくて、次第に俺にストレスをぶつけるようになっていったんだ。朝、起きたらいなくなっていた。それ以来、音信不通だ」


 田嶋は画鋲を外して写真を取ると、しばらく眺めてからぐしゃりと握りつぶした。

 沙羅はあっと声に出した。何も言葉をかけられない自分がもどかしかった。

「あの、私、苦しい時にいつも歌う歌があるんです。歌っていいですか」

 そう言うと、田嶋の返事も待たずに沙羅はAndra Dayアンドラ・デイの『Rise Upライズ・アップ』をアカペラで歌い始めた。


 自分より辛い経験をして立ち直れないでいる相手に、かける言葉なんてあるだろうか。だけど、歌なら。そこに相手を想う気持ちを乗せることはできる。

 沙羅はそんな想いを胸に、田嶋の痛みに寄り添うように、そして乗り越えられるように祈りながら歌った。


 田嶋の目から一粒の涙が零れ、写真を握りしめた拳の上に落ちた。

 つられて沙羅も涙ぐみ、歌声も震えてしまう。沙羅は両手の人差し指で涙を拭いながら、サビに向けて胸を広げて声を響かせながら歌った。


 人生は意地悪だ。困難から立ち上がったと思ったらまた次の困難が襲う。前だって乗り越えたんだから今度だって大丈夫。そうやって繰り返すうちにいつの間にか心が壊れてしまうことがある。

 でも、あなたは一人じゃない。あなたが立ち上がれるように私がそばにいるから。

 そんなメッセージを込めながら沙羅は歌い切った。


 田嶋は低い声でありがとうと言うと、写真をゴミ箱に入れ、枕元の酒瓶を片づけ始めた。しばらくの間、二人は黙って作業を続けた。

 

 



 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 



  

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