第18話 ロッキー(2)
沙羅は小田急線の駅から出て、歩きながらショルダーバッグの中身を確認した。
よし。ちゃんと入ってる。今日はもう少し近づけるといいなぁ。
ライブバーの敷地に数歩足を踏み入れると、ロッキーのけたたましい鳴き声が響き渡った。ロッキーの視界に沙羅が入ると鳴き止みはしたものの、背中の毛は逆立てたままだ。
「こんにちは。また来ちゃった」
沙羅はバッグから犬用の骨を取り出し、フェンスの上からロッキーに見せた。ロッキーは目を輝かせて興奮気味に尻尾を振り、吠えながらその場でぐるぐると回り始めた。
「おすわり」
これまで沙羅の言う事など聞かなかったロッキーも、この時ばかりはおすわりをしてじっと沙羅を見つめる。沙羅はフェンスの上から骨を差し出し、ロッキーはそれを咥えると地面に伏せて噛み始めた。
沙羅はフェンスの手前でしゃがみ込み、そんなロッキーを優しい眼差しで愛でながら他愛もない言葉をかけた。ロッキーは前足に挟んだ骨を噛みつつ、申し訳程度に尻尾を振る。
夢中で噛むロッキーをぼんやりと眺めているうちに、沙羅は今朝の母親とのやりとりを思い出し、思わずため息をついた。
「ロッキーはいいねぇ。人間はさ、お金がないと生活できないんだよ」
行き場のない苛立ちと悲しみが交錯した感情が沙羅を襲い、沙羅の唇から『
沙羅が小さい頃にプロテスタント教会でよく歌ったこの曲は、黒人霊歌『Oh Lord, Stand By Me』に触発されて作られたものだ。
その昔、奴隷としてアメリカ大陸に連れて来られたアフリカ人は、自分達の言語や宗教を剝奪され、農園での過酷な労働を強いられた。生き地獄に苦しんだ彼らはキリスト教に改宗し、独自のゴスペル(福音)を歌うことで魂の救済を求めたのだ。
彼らの心の叫びや不屈の精神が刻まれたゴスペルは、そのパワフルな歌い方も相まって聴く者の胸を打つ。幼少期の沙羅も高揚感に包まれながら歌うことで、仲間との連帯感を感じたものだ。
お金がなくても、たとえお金にならない夢だったとしても今は諦めたくない。
誰にも自分の夢を奪われたくない。
沙羅は今の自分の感情を『Stand By Me』に乗せながら、ロッキーに聴かせるようにソウルフルに歌い続けた。歌で自分を励ましつつも、心に巣くう不安に押しつぶされそうになる。
こんな時に誰かが側にいてくれたら。
暗い道を歩く私に寄り添ってくれたら。
目をつむり体を揺らしながら歌う沙羅の耳に、背後から低いパートを歌う男性の声が聴こえた。振り返って見上げた沙羅の目に、サビを歌いつつ近づく田嶋が映った。
沙羅は思いがけない展開に胸が躍り、立ち上がって声を張り上げた。
田嶋は沙羅にサビを任せて、叫び声をあげる。
フェイクだ!
沙羅は曲に彩りと深みを与えるフェイクを田嶋が挟み、高揚感に包まれた。
フェイクとは、あえて原曲とは違うリズムや音程で歌うアドリブのことだ。二人は親指と中指を弾いて鳴らしながら、見つめ合って『Stand By Me』を歌い上げた。
「田嶋さん、ゴスペル歌えるんですね」
「ああ。俺、インター通ってたからね。クリスマスとかよく歌ったよ」
田嶋は少しだけ微笑んで、自分に近づいてきたロッキーの頭をフェンス越しに撫でた。
「なるほど。おやつでロッキーの心を掴んだわけか。ロッキーのやつ、随分リラックスしてるな」
にやりとしながらそう言うと、沙羅の方に向き直った。
「君のおかげでもしかしたら年内には引っ越して、この建物のリフォームもできるかもしれない。助かるよ」
「ほんとですか? 私が触れるようになったらちょっと安心できますよね」
沙羅は褒められて嬉しそうにロッキーを見つめ、微笑んだ。
「触るのは難しいだろう。吠えなくなるだけで御の字だ。こいつは捨て犬でさ、2年前に海辺で拾ったんだ。ガリガリで元気がなかったくせに、エサをやったらこの通りだ。人を見たらギャンギャン吠えて俺以外には懐かない」
田嶋の視線はロッキーの上にあったが、どこか遠くを見ているようでもあった。
「しょっちゅう吠えてるから、この近所からも文句を言われちまった。だけど、本当のところ、俺にはうるさく聞こえないんだ。羨ましいくらいだ」
田嶋の言葉の真意を測りかねて、沙羅は彼の寂しそうな横顔を見つめた。
「他人なんて信じられねぇ。そんな感情を剥きだしにできたら楽になることもあるからな。でも人間はそうはいかないだろ」
乾いた笑いを浮かべると、田嶋はロッキーから手を離して沙羅を見た。
「今日も中の片付け、手伝ってもらえるか。一階は大分片付いたんだが、二階が目も当てられない。終わったらまた英会話をやろう。テキストは買ってきたんだろう? そうか、良かった。テキストがある方がこっちもやりやすいからな」
目尻をやや緩ませてそう言うと、田嶋は先に玄関に向かって歩き出した。
その大きな背中に張り付いた孤独の影は、沙羅を複雑な気持ちにさせた。沙羅はこんな時にかける言葉が見つからず、ただ田嶋の後を追いかけた。
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