第9話 諍い

 英玲奈は座ったまま沙羅の顔を見つめておもむろに口を開いた。

「沙羅ちゃん、来年から専門学校に行くつもりで、これはその実技試験のためのレッスンなのよね?」

 沙羅の返事を聞いて英玲奈は安堵の表情を浮かべた。

「良かったわ。私は十五年前、あなたくらいの頃にお金がなくてね、学校に通えなかったの。縁があってクラブシンガーをさせてもらってるけれど、基礎が出来ていなかったから随分遠回りしたわ」


「そうだったんですね……。あの、私もお金ないです。今年一年でできるだけ貯めようと思っていて、後は奨学金でなんとかするつもりです」

 沙羅がそう応じると、英玲奈はちょっと目を細めて沙羅を見てから声を出して笑った。

「でもご実家に住んでいるのでしょう? 私は九州の田舎から上京してきて、生活するのに精一杯だったから。向こうでもホステスやりながらちょこっと歌わせてもらっていたけれど。今だってシンガー一本では生活できていないの」

 沙羅は自分の浅はかさに恥じ入りながら言葉を返せないで立っていた。生活費を母親に出してもらい、家事もろくにしていない自分を初めて恥ずかしく感じた。


「私だけじゃないわ。たとえクラブシンガーになれたとしても、他の仕事もしている人がほとんど。今のうちから軸となる仕事を決めておくのもいいかもしれないわね」

 そう言うと、英玲奈は沙羅の体を上から下まで値踏みするように眺めた。

「沙羅ちゃんスタイルいいからドレス着たら映えると思うわ。どう? うちのお店で働いてみない? 今のアルバイトより貯金できるわよ」

 貯金。学費を考えると、この一年でできるだけ貯金をしたいのが本音だ。奨学金にしてもいつかは返さなければならない。しかし、ホステスは自分とはかけ離れた世界のように感じて沙羅は返事に窮していた。


「でも、あの……私、男ウケする顔じゃないですし」

 沙羅がためらいがちにそう答えると、英玲奈は大丈夫と言って微笑した。

「顔立ちはきれいだからメイクを変えればかなりいい線いくと思うわ。今のメイクは強めだからちょっと男性が近づきがたいと思うの。髪の毛ほどいてみて。うーん、かなり強い癖っ毛なのね。それはウィッグにすれば問題ないわ」

 今のメイクを変えてウイッグにする? そんなの私じゃない。

 沙羅は英玲奈の言葉に強い抵抗を覚えたが、先のことを考えるとお金には抗いがたい魅力を感じた。


「どうしたの? 男性をあしらうのに自信がないのかしら。大丈夫よ。そんなの、やっているうちに慣れるから。むしろ男を知れて歌にも厚みが増すかもしれないわ」

 英玲奈は諭すようにそう言うと、大きな瞳で沙羅を見つめながら優しく微笑んだ。

 沙羅が返事に困っていると、ふいにドアが開き、猫とともに藤沢が入って来た。


「お邪魔するよ。何の話をしていたのかな。家に帰っても歌が聴こえないから不思議に思ってさ。沙羅ちゃん何があった? そんな顔して」

 藤沢は沙羅の表情を窺い見てから、英玲奈に向き直った。

「また仕事の斡旋したのか? 僕の仕事の邪魔をしないと約束しただろう。英玲奈に代わってもらうと、女性の生徒さんが辞めてしまうことが続いてね、不思議に思ってたんだ」

 藤沢は最後の方は沙羅に向けて説明するようにそう言うと、ため息をついた。


「ばかね。私が嫉妬でやってるとでも思ったならお門違いよ」

 英玲奈はピアノチェアに座ったまま冷笑すると、藤沢を見上げて言い放った。

「亮。あなたに業界人が聞いたらハッとするような経歴があるのは確か。有名ミュージシャンのバックバンドでベース弾いてたし、今だってバーやクラブのプロデュースに関わったり。でもね、その不安定な仕事の裏で誰が生活を支えてるのか考えて欲しいわね」

 英玲奈はスカートのポケットから煙草とライターを取り出し、口にくわえて火をつけると、藤沢の顔に向けて煙を吐き出した。


「この部屋で煙草を吸うのはやめてくれ」

 藤沢はやや慌てた声で英玲奈の行動を止めようとしたが、英玲奈は動じずに顔に微笑を浮かべて沙羅に目を向けた。

「あら。ブチはもうあなたに懐いたの。私には全然触らせてくれないのに」

 沙羅は二人の口論の間、居たたまれなくなり、しゃがみ込んでブチを撫でていた。

「ごめんなさいね。こんな痴話喧嘩みたいなの聞かせてしまって。でも、この業界で生きていくのがどういうことなのか分かってもらえて丁度良かったわ。さっきの話、悪い話じゃないと思うから、ゆっくり考えてみて」

 英玲奈は灰皿を目で探したが、見つけられずに立ち上がると、左手を振って部屋から退出した。


 取り残された二人はしばらく何も話せないでいた。

 沙羅は喉を鳴らすブチを撫でながら、自分の進もうとする道の険しさを感じていた。

「みっともないところを見せてしまったな」

 藤沢が掠れた声でそう言った時、一匹の猫が開いたドアの隙間からするりと入り、藤沢の足元に擦り寄った。

「バイ。お前も英玲奈から逃げてきたのか」

 可笑しそうにそう言うと、藤沢はしゃがみ込んでバイの頭を撫でた。

 本当だ。前に聞いた通り、同じ白黒柄だけどブチよりバイの方が白い部分が広い。

 沙羅は横たわるブチを撫でながらそう思った。バイはすっかり寛いで撫でられているブチを見ると、沙羅の方に少しだけ近づいて座り込んだ。


「驚いたな。バイがお客さんを見ても警戒しないなんて。沙羅ちゃん、猫に好かれるんだな」

「人間の男の人よりは」

 沙羅の言葉にあははと笑うと、藤沢は何かを思いついたようにしばし考えてから口を開いた。

「そんな沙羅ちゃんにお願いがある。今、新しいライブバーを作ろうとしていてさ、建物ハコはあるんだけど、リニューアルが進まないんだ。今度一緒に来て欲しい」

「私がですか⁉︎ 私なんかじゃ役に立てないと思いますけど」

「大丈夫、来れば分かる。汚いけど、楽器は全部揃っているから歌えるよ。それも楽しみにしていて」

 生演奏で歌える……そんな胸が躍るような提案をされて、沙羅は思わず二つ返事で了承していた。


 

 

 

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