第8話 女性ボーカル(2)
しばらく発声練習をした後で、二人はミックスボイスの練習に取りかかった。この一週間、家やカラオケで藤沢に言われた通りに声を出そうとしたが、なかなか沙羅の思い通りの声は出せなかった。
「沙羅ちゃん、ブリッジはC5かD5あたりよね? あ、ブリッジって地声から
「亮先生には地声で出せるのが
「地声はC5までか……。じゃ、この高いレの音からがブリッジね。もう一回下の音からアーって発声してみよう」
沙羅は
「沙羅ちゃん、喉をもっと開いて。ミックスボイスを出すときは声帯は閉じるけれど、喉は開かないといけないの。慣れるまで難しいけれど、これがポイントだから」
喉を開いて声帯を閉じる……。沙羅は頭の中で繰り返した。
「喉をしめて声を出すと声帯が傷ついちゃうから絶対にダメよ。一回あくびしてみて。はい、そのあくびの感覚で声帯だけ閉じて声を出してみて」
言われた通りに声を出す。さっきよりは太い声が出たが、高いミの音で声が裏返ってしまう。
「うーん、今度は喉は開いてるけれど、声帯もかなり開いちゃってるわね。声帯がいい感じで閉まっていないと、高い声出すときに声が安定しないで裏返ってしまうの」
そう言うと、英玲奈は鍵盤から右手を離して沙羅に向き直った。
「でも、亮が言った通りね。ゴスペルとコーラスをやっていたからか、腹式呼吸もバッチリで声も力強いわ。
英玲奈の大きな目でまっすぐに見つめられた後に、柔らかく微笑されそう言われると、沙羅は嬉しいだけでは言い表せない高揚感に包まれた。
魅力的な人だなと沙羅は思う。今が盛りの薔薇のような美しさと、優しさの中に時折見せる棘のような言葉に沙羅は振り回されていた。そのせいか、英玲奈に褒められると藤沢に褒められるより嬉しく感じるのだ。
「どうしたの? そんなにじっと見られると恥ずかしいわ。亮のお気に入りの生徒さんみたいだからどんな人かしらって思ってたけれど、納得したわ。とても可愛らしい人なのね。私、女の人には嫌われやすいのだけれど、沙羅ちゃんとは相性が良さそうね」
雌猫にも嫌われてるしねと言って、英玲奈はふふふと笑った。沙羅は思わずつられて笑いながらも、他人から可愛らしいと言われたのが初めてでドキドキしていた。
「それじゃ、そろそろ『
沙羅は目を閉じて深呼吸する。母親の京子の姿が
ママが泣いている。
気づかれたくないだろうと思い、沙羅はリビングに一歩足を踏み入れたものの自室に引き返したのだ。
それからしばらくして、その曲がホイットニーヒューストンの『
英玲奈は両手を鍵盤に置いて、前奏を弾き始めた。出だしから優しく甘美なメロディーで懐かしいような泣きたいような感情を誘う。それに合わせて、沙羅も囁くように歌い始める。
私が小さな頃からどんなに我儘を言って困らせても忍耐強く受け止めて時には叱ってくれたママ。思春期に入って素っ気ない態度を取るようになっても変わらずに優しく明るく接してくれた。でも、ママも一人の女性だったんだ。この歌詞の主人公のように。
外から見たらしっかりしていて強く見える女性でも、誰でも心の中に傷つきやすい少女のままの自分がいる。私だってそうだ、本当はこの外見で差別されることがすごくいやだ。
沙羅は感情を込めて歌っているうちに京子に対する思いから逸れ、自分の心情を歌にぶつけていた。
パパが生きていたら、ママと私を守ってくれただろうか。きっとそうに違いない。パパに会いたい。パパに抱きしめてもらいたい。
キーをひとつ下げたせいか、沙羅の声は裏返ることなくサビもパワフルに響き、最後は優しく切なく響いた。
英玲奈は鍵盤から手を離すと、沙羅の顔を見て驚いた。
「沙羅ちゃん、泣いている!? どうしたの? 大丈夫?」
沙羅は指で涙を拭うと恥ずかしそうに頷いた。
「歌の世界に入り込んだの? そう……。それにしてもすごい歌唱力ね。先生、びっくりしちゃった。確かにミックスボイスが課題だけれど、他のテクニックや表現力は申し分ないわ。あとはフェイクっていう技術が身に着けられたら完璧ね。これは時間がかかるから少しずつやっていきましょ」
そう言うと、英玲奈は掛け時計を確認するように見上げた。
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