第7話 女性ボーカル(1)
沙羅が藤沢の家のドアを開けると、いつもなら足元にまとわりつく猫の姿が今日は見えなかった。沙羅は訝しげに玄関のたたきから廊下の辺りを見回す。
「ごめんなさいね、ブチは私のことが嫌いだから、テレビの後ろから出てこないの」
沙羅が玄関のたたきから顔を上げると、髪の長い女性が微笑んでいた。
「こんにちは。亮の代わりの先生って私なの。亮からメッセージで連絡もらったかしら? そう、よかった。亮は新しいミュージックバーの立ち上げに関わっているからしばらくは私が担当させていただくわね。川井
英玲奈はそう言うと軽く頭を下げ、沙羅もつられてお辞儀をした。
レッスン室に入ると、英玲奈はカーテンを閉めてスタンドライトの灯りをつけた。
「亮から聞いたけれど、女性ボーカルの歌をやりたいのよね、沙羅ちゃん。洋楽なんでしょ? 誰がやりたいの?」
英玲奈はピアノチェアに腰かけて、沙羅をじっと見つめた。英玲奈の大きな瞳はどこか揺れているような感じがして、吸い込まれそうだなと沙羅は思う。
「あの、私、声が低いので、
沙羅がためらいがちにそう言うと、英玲奈は少し首を傾げてから口を開いた。
「
何かを言おうとして躊躇したのか、英玲奈は一度口をつぐんでから目を少し細めて沙羅を見つめた。
「沙羅ちゃん、彼氏はいる? そう。それじゃ、今までいたことある? そうなの。それだったら難しいかもしれない」
それを聞いて少し傷ついたような不満げな顔をした沙羅に対し、ふふふと英玲奈は笑った。
「そんな顔しないで。だって
図星を突かれて恥ずかしそうに俯く沙羅を見て、英玲奈はピアノチェアに座ったまま
その歌声を聞いた瞬間、心臓がぎゅっと掴まれたように沙羅は感じた。英玲奈の声は
サビの部分は力強くパワフルだ。女を振り回す身勝手な男性にハマって抜け出せない女性の叫びが聴き手の魂に伝わってくる。甘く囁くように愛を伝えるパートとサビのシャウトが交互に繰り返される。
沙羅は敬愛する
「ふふふ。この曲に出てくる男って誠意のかけらもないヤツでしょ? でも、こういう女性の繊細さを優しく撫でてくれて、夜は情熱的な男性ってハマるのよ。大切にはしてくれないから本気になるとこんな風に狂っちゃうけど。あ、これは忠告だけど、亮はまさにそういう男だから気をつけてね」
最後の方は秘密めかしてそう付け加えると、英玲奈は楽しそうに笑った。沙羅が何も言えずに目を見開いている様子を見て、丸椅子に座るように促してから、英玲奈は話を続ける。
「牽制とかじゃないから、そんなに身を硬くしないでいいのよ。私達、一緒に暮らしているけれど、お互い自由だから。ベースやギターを弾いたり、歌っている時の亮って魅力的でしょ。それでおかしくなっちゃう子が多いの。分かってて足を突っ込むなら、口を挟まないけれど」
やっぱり一緒に暮らしてるんだ、と沙羅は思った。その事実にも今された忠告にもなんだか複雑な気持ちになる自分自身に沙羅は戸惑っていた。
「沙羅ちゃんの歌声は少しハスキーだと亮から聞いたの。だから、歌詞を深く理解できて表現力も身に着いたら
ホイットニーという言葉を聞いて、沙羅の目は輝いた。
「大好きです。マイケルと同じくらい好きです! でも、あの、ホイットニーこそ難しくないですか?」
沙羅の弾んだ声に英玲奈は安心したように頷いた。
「そうね、もちろんハードな曲が多いし、多分どれもキーは一つ下げて歌う事になると思う。でもね、初心者がまっすぐに歌っても聴かせられる曲もあるから、丁度いいと思うの。『
「大好きです! たまに一人でカラオケ行くんですけど、その時によく歌っています」
前のめりになって興奮気味に答える沙羅を見て、英玲奈はじゃ、決まりねと言って右手の親指を立てた。
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