第5話 トラットリア・パルマ(1)
沙羅はバイト先のイタリアンレストランの更衣室で制服に着替えていた。
「トラットリア・パルマ」は、自宅最寄り駅の一つ隣りの駅から歩いて五分ほどの場所にある。北イタリアのパルマにある大聖堂を思わせるような白い建物が特徴的だ。エントランス付近には背の高いオリーブの木が植えられている。
沙羅は白いワイシャツを着てから黒いスラックスに足を通した。スラックスの上からロング丈の黒いサロンエプロンを巻く。黒いキャスケットを被り、鏡を見ながら髪の毛が出ていないか確認をする。
一人しか入れない狭い更衣室で着替えをしていると、休憩室のドアが開く音がした。
「おはよございまーす」
翔太さんの声だ、と沙羅は思う。二人とも遅番なので今は17時前であるが、飲食店らしく須藤翔太はそう挨拶しながら入室した。
「今、更衣室使ってんの沙羅さんだろ。昨日、ホールのシフト確認したから」
「あ、うん。ごめん、もう着替え終わるから、ちょっと待って」
「トラットリア・パルマ」では二十代後半の料理長の提案により、アルバイトに対しては名前にさん付け、社員や主婦パートに対しては苗字にさん付けで呼び合う事になっている。
沙羅が更衣室のドアを開けると、四畳半ほどしかない休憩室でダンスの練習をしている翔太と目が合った。
「こんなとこでもやるんだ。ほんと好きだね、ダンス」
沙羅の呆れるような声をものともせず、翔太はヒップホップのステップの練習を続ける。
「更衣室、空いたから早く着替えた方がいいよ。あと十五分あるけど、他の遅番の人来ちゃうし」
「おう」
翔太はダンスをやめて、リュックから取り出したペットボトルのコーラを飲んだ。
「週末、行ったの? ボイトレ。どうだった?」
「あー、やっぱマイケルは難しかった。声の出し方とか発音とか」
「へぇ」
翔太はボトルのキャップを閉めながら横目で沙羅を見る。沙羅とちょうど同じくらいの身長だ。
「歌の事はよく分かんないけど、マイケルのダンスは神だと思うわ、俺は。体幹とキレがハンパない」
「うん。すごいよね。私も動画でいっぱい見た」
「あれだっけ。お父さんがアルミボックスに入れて残してくれたんだっけ」
沙羅から視線を外して、翔太はボソッと呟いた。
「うん。それがきっかけだけど、動画サイトでもいろいろ観た。口パクでもすごいけど、踊りながらちゃんと歌ってるのもあるんだよね。ほんとすごいと思う」
「ほんとな。マイケルのヒューマンビートボックスの動画、観たことある?」
そう言いながら、翔太は更衣室に入って行った。更衣室は休憩室の一角にあるが、ドアの上の方は空いているので、声を張り上げなくても会話はできる。
「あー、観た! 『
沙羅は少し興奮気味に答える。翔太は更衣室のドアの上に白い調理用エプロンをかけた。ホールスタッフの沙羅とは違い、キッチンスタッフの翔太は最後に白いエプロンをつける。
「そうそう。あれさ、ビートボックスのテクニック自体はそこまでじゃないらしいんだけど、ビートの取り方とかグルーヴ感がエグい」
そう言いながら、翔太はエプロンを手前に引っ張り身に着けている。
「うん、動画サイトにね、その曲を作った時の別のインタビューがあるの、知ってる?」
「いや、それは知らない。沙羅さんほどハマってないし、俺。でも気になるわ、マイケルの作曲法」
翔太は笑いながら更衣室から出る。
「あのね、曲が降りてくるらしいよ。自分では生み出してないって言ってた。それでドラムやベース、管楽器のパートを口ずさみながら、その曲をテープに吹き込むんだって」
「すげー。さすが天才だな。あのビートボックスからあの曲ができたのかと思うと感動するわ」
「うん。曲に合わせて後から歌詞をつけるらしいけど、たまにメロディつきの歌詞も浮かぶんだって。すごくきれいで惑星の言葉を聞くような感じなんだって」
「惑星の言葉か! すごい表現だな。天才しか聞こえないやつだな」
翔太は笑いながら鏡を見て、制服についた小さなゴミを粘着ローラーで取る。
沙羅は休憩用のソファーに座りながら、足をゆっくりバタバタさせた。
「先生にさ、洋楽はまだ無理だからまずは邦楽にしたらって言われちゃった。なんか、私意地になっちゃって、洋楽やりたいんですって押し切っちゃったんだよね。でも、やっぱりマイケルは今の私には実力不足だったみたい」
翔太は鏡越しに沙羅を見ながら、
「そっか。でも、どうしても沙羅さんが洋楽やりたいなら女性ボーカルにしてみたら? で、上手くなったらまたマイケルやらせてもらえばいいじゃん」
そうさらっと言った。沙羅は鏡に映る翔太の顔を見ながら頷いた。
「うん。そうだね。そうしよっかな。翔太さん、ありがと。マイケルの話とかできる人いないし、楽しかった」
ストレートに感謝されて翔太は調子が狂ったのか、いや別にと小声で言いながら鏡の中の沙羅から視線をそらした。
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