第4話 レッスン室(3)

 藤沢に促されて、沙羅は何度かミックスボイスらしき発声をしてみる。

「アー」

 声は裏返らないものの、力強い声は出せずにグラグラと不安定だ。

「うん。最初はね、そんな感じでいいよ。また来週のレッスンで続きをやろう。家でもさっき言った事を意識して発声してみて」

 

 藤沢はそう言うと、少し考え込んでからまた話し出した。

「沙羅ちゃん。あと十分なんだけどさ、ちょっと話したいからその椅子に座って」

 沙羅が丸椅子に座ると、藤沢もピアノチェアに腰かける。

「あのさ、沙羅ちゃん、気を悪くしないで聞いてほしいんだけど」

 普段の柔らかい眼差しとは違う真剣な表情を前にして、沙羅は少し身構える。

「はい」

「沙羅ちゃん、生まれも育ちも日本でしょ。学校もずっと日本の学校だし。R&Bを歌うとなったらさ、やっぱり英語の発音も鍛えないといけないよね」


 沙羅は頷く。発音のことを言われると耳が痛い。外見はどう見ても日本人には見えないが、沙羅の英語の発音はネイティブとは程遠い。小学校から高校まで公立高校に通い、日常的に英語を話す機会はなかったのだ。

 それでも小学生の頃は、教会で知り合ったアメリカ人老夫婦が営む英会話教室に通っていた。しかしそれも部活と塾が忙しくなり、いつのまにか行かなくなっていた。


「ミックスボイスはさ、邦楽でも使うから。まずは自分が普段使っている言葉で練習するのがいいと思うんだ、僕は。どうかな?」

 言葉を選びながら、藤沢は沙羅にそう提案する。

「友達とカラオケに行く時は、流行りの歌も歌うんでしょう?」

 藤沢の問いに沙羅はこくりと頷く。

「でも……。それは、私にとってみんなと楽しむための歌なんです」

 沙羅は掠れた声で、それでも藤沢の目をしっかりと見つめてそう言った。


「どういうこと? 邦楽は好きじゃないってことかな? 邦楽にもいい歌はいっぱいあるけどなぁ」

「うーん、なんていうか……。カラオケで友達と歌うために覚えた曲というか。あ、今のでも昔のでも好きな歌はあります。邦楽にも。母が聴いていて好きになった歌もあるし」

 そこまで言って一呼吸置いてから、沙羅はまた口を開いた。

「でも、邦楽より洋楽の方が自分の気持ちに合ってるんです、リズムも歌詞も。日本の歌詞ってあんまりストレートに気持ちをぶつけないものが多いし、リズムもゆっくりだし……」


 話しながら自分がやや感情的になっているのを沙羅は感じたが、止められなかった。

「亮先生、私、上手くなりたいけど、それだけが目的じゃない。生まれた時から日本だけど、時々息苦しいなって思うんです。服もなんかみんな似ている人が多いなって思うし。私みたいなぴったりしたのはあんまり流行ってないから、高校の友達と遊ぶときは浮いてたし」

 藤沢は穏やかな表情を崩さずに、真剣に話を聞いている。


「何が言いたいか上手くまとまらないし、私が上手く歌えてないのも分かるんですけど、でも自分らしい曲を歌いたいんです」

 沙羅の声は少し震えていたが、目はまっすぐに藤沢を見ていた。

「そうか。沙羅ちゃんの考えはよく分かった。じゃあ、こうしよう。洋楽メインでやるけれど、時々は邦楽もやる。それは表現力の練習のためね。それとさ、知り合いにネイティブ並みに英語が話せるドラマーがいるから今度紹介する。発音とか何かの役に立つと思うし」

 藤沢は優しく微笑みながらそう言うと、そろそろ時間かなと呟いた。


 沙羅ははっとして掛け時計を見て藤沢に礼を言うと、バタバタとレッスン室を後にした。

「そんなに焦らなくても大丈夫だよ」

 藤沢の言葉を背に玄関でスニーカーを履いていると、靴箱の下の黒いハイヒールが目に入った。

 亮先生って結婚してなかったはず。恋人? この家のどこかにいるのかな?

 沙羅の頭に色々な考えが巡った。だが、靴紐を結んでいる間に寄ってきた猫に心が奪われ、沙羅はしばらく猫と戯れていた。


「すごいな。まだ三回目のレッスンなのに、ブチはもう懐いたな。もう一匹白黒の白い部分が広いバイってのがいるんだけど、そっちは慎重派だから、リビングのどこかに隠れているんじゃないかな」

「へぇ。いつか仲良くなれたらいいなぁ。動物大好きなんですけど、うちは飼えないから、ここで触れて嬉しいです」

 紐を結び終えると沙羅は立ち上がり、振り返ってお辞儀をした。


「お疲れ様でした。京子さんによろしくね。またいつか、京子さんのピアノを聴きたいと僕が言ってたって伝えてね。それじゃ、気を付けて」

 沙羅は礼を言って玄関ドアを開け、外に出た。もう夕方だというのに、蒸しかえるような暑さが沙羅を襲う。

 ヘビースモーカーの藤沢の家はタバコの匂いがかなりきつく、沙羅はTシャツに染み込んだ匂いを気にしながら、マンションの外へ出た。





 



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