第3話 レッスン室(2)
沙羅につられて藤沢も掛け時計を見た。
「あと三十分か。まずは僕が歌ってみるから、聴いて。これは僕のベストのキーじゃないけれど、沙羅ちゃんに合わせてこのキーで歌うから」
そう言うと、藤沢はギターのボディを叩き、ドラム代わりにビートを打ち始めた。
ギターを弾きながら藤沢は柔らかい声で歌い始める。冒頭は囁くような歌声だ。歌の主人公がダンスフロアで絶世の美女に出会うシーンがリアルに伝わってくる。沙羅は一目見ただけで恍惚とするような妖艶な美女を想像した。
囁くようだが切ない歌声。まるでマイケルみたいに。沙羅は藤沢の表現力に惹き込まれ、歌の世界に没入し、若い青年になりきって
サビに入ると、高揚感を高めるように声量が増していく。藤沢もよく訓練された力強い声だが、マイケルは力強い上に切なさも保持しているという独特な歌い方だ。沙羅の頭には聴き馴染んだマイケルの声も同時に聴こえる。
サビのピークではシャウト気味に、でも甘く切ない印象はしっかりと与える。まるで映画を観ているように場面が目に浮かび、主人公が陥った危機的な状況に自分の身を重ねてしまう。
普段は気怠い雰囲気を漂わせている藤沢が、腹の底から悲痛な気持ちをシャウトする。沙羅はその気迫に圧倒された。
『ビリージーン』でもそうだが、洋楽ではダンスという単語をセックスの意味で使うことがある。沙羅は中学生の頃まではそれが分からず、歌詞が理解できなくて困惑したものだ。今は分かるからこそ、美女がつけていたであろう
「どうだった? どんな声を出せばいいかは分かった?」
藤沢は歌うのとギターを弾く手を止めて、沙羅を見上げる。余韻に浸っていた沙羅は、はっとして頷いた。
「はい。亮先生のサビは高音ですけど、ファルセットじゃなくて力強かったです」
「うん。あれがミックスボイス。ミドルボイスとも言うけれどね。ちなみに地声みたいな声でチェストボイスっていうのもある。声帯は閉じたまま、喉を開いてしっかり胸に響かせて歌うんだ。これは沙羅ちゃんはできているね。やっぱりゴスペルをやっていたからかなぁ」
「多分、そうだと思います。ゴスペルやってた時、チェストボイスって聞いたことあるから。体を楽器にして歌いなさいっていつもリーダーに言われてたんで」
沙羅の答えに藤沢はクスっと笑った。
「いいね。その表現。ゴスペルはプッシュっていう歌い方も使うよね。吸った息を思いきり吐き出しながら歌うやつ。あれができるとR&Bでも迫力が出るんだ。その辺のは沙羅ちゃんはできそうだね」
藤沢は褒め上手だ。沙羅はミックスボイスが出来ない不安が少しだけ溶けたような気がした。
「じゃあ、いよいよミックスボイスやろうか。ミックスボイスはね、歌いながら出せるようになるものじゃないんだよね」
そう言うと、藤沢は丸椅子から立ち上がり、沙羅の横に立った。藤沢の身長は沙羅より10センチほど高く、沙羅は少し見上げる形になる。
「地声と
藤沢の押すキーボードに合わせて沙羅はもう一度発声をするが、高くなるにつれ段々と苦しくなる。
「うーん。やっぱり
そう言うと、藤沢は口を開いて
その様子を見て、藤沢は首を傾げた。
「喉周りの筋肉と口頭の筋肉が固いのかなぁ。こんな風にあくびをしながら胸を叩いてごらん」
藤沢の真似をして、沙羅はあくびをしながら胸を叩く。男性と接近して口を開けたりあくびをするのが、沙羅には少しだけ恥ずかしく感じる。
「沙羅ちゃん。恥ずかしがっちゃダメだよ。そんな『私を見て!』みたいな恰好して、おもしろいなぁ。まさか、男性に慣れてないなんてことはないだろう」
緊張を解そうと冗談交じりに藤沢が言った言葉が図星で、沙羅は藤沢の目から視線をずらした。藤沢はおやおやと呟いて、話題を変えるように口を開いた。
「京子さんはその格好見て、慌てたんじゃないかな。あの人は真面目だからねぇ。あ、僕はとても似合っていると思うよ」
京子さんというその呼び方がとても優しくて、沙羅は少し胸がズキッとした。
ママの話題になると目が優しくなるのはどうしてだろう。
沙羅はそんな風に思いながらも、なんとかしてミックスボイスをマスターしようとまた顔を上げた。
※歌詞ストーリーの説明を極力減らし、沙羅が曲から受けた抽象的な印象の描写を増やすように改稿致しました(著作権等の指摘はまだ受けておりませんが、念の為。分かりづらい面もあるかと思いますが、何卒ご了承くださいませ)。
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