第2話 レッスン室(1)
沙羅は自宅近くの停留所からバスに乗り込むと、空いている車内を見渡し、近くの座席に座った。駅までは徒歩二十分なので気候の良い時期ならそのまま歩くのだが、梅雨明けの今はさすがに暑すぎる。
イヤホンから流れるマイケルジャクソン『
沙羅はバスに揺られながら、この曲との出会いを思い出していた。八年前、押し入れの天袋で見つけたアルミボックス。開けてみると、中にはマイケルジャクソンのCDやビデオ、DVDがぎっしりと詰まっていた。沙羅はパソコンにCDを挿し込み、
ふいに
バスが駅に到着すると、沙羅は電車に乗った。一つ隣りの駅は三つの路線が乗り入れている大きな駅だ。沙羅は横浜方面の電車に乗り換えると、扉にもたれながら車窓からの景色を眺めていた。
斜め向かいの席に座っている老夫婦は、もの珍しそうに沙羅の体を上から下まで眺め、小声で何かを話している。170センチの長身にぴったりと密着したスリムジーンズを履き、白いタンクトップ一枚を身に着けた沙羅は、確かに車内で浮いていた。
単に身長が高いだけでなく、一般的な日本人とは明らかにスタイルが違う。加えて肌は浅黒く、高い位置で束ねた髪はカーリーヘアーだ。
こういった不躾な視線には慣れっこの沙羅は、気づいていないかのように窓の外に目をやりながら、イヤホンから流れる音楽に集中していた。
町田駅で降りると、沙羅は歩いて藤沢のマンションに向かう。容赦なく照りつける真夏の日差しで背中はすぐに汗ばんだ。浅黒い肌は比較的に紫外線を
藤沢のマンションは境川を見下ろす立地にあり、築三十年は経っていそうな雰囲気だ。藤沢は音楽関係の仕事をいくつかしているが、その一つとして自宅マンションの防音室で生徒に歌や楽器を教えている。
自宅玄関の前で呼び鈴を押すと、しばらくして藤沢がドアを開けた。
「沙羅ちゃん、入って」
上下黒のトレーナーにジャージというラフな格好で玄関に立つ藤沢は、柔らかい微笑みを浮かべていた。
沙羅は足にまとわりつく猫の額を撫でながら挨拶をすると、スリッパを履いてレッスン室に入った。
レッスン室は四畳半程のスペースで、電子ピアノとギター、ベース、小さなドラムセットが置かれているやや薄暗い部屋だ。小さな窓はあるがカーテンは閉められ、北向きのせいか隙間から漏れる光も弱い。部屋の隅に置かれたスタンドライトの黄色い光が唯一の灯りだ。
「沙羅ちゃん、発声練習しようか」
そう言うと藤沢はピアノチェアに腰掛けてキーボードを押した。彼が押す鍵盤に合わせて沙羅はアーと声を出す。発声を続けると、沙羅は次第に喉が温まってくるのを感じた。
「いいね。ゴスペルとコーラスの経験があるから、さすがに腹式呼吸はバッチリだね。喉もちゃんと開いてる。でも、もうちょっと顎を引いて」
藤沢に人差し指で顎を押されてドキッとしながら沙羅は
「じゃあ、ずっと沙羅ちゃんがやりたかった曲、やろうか」
藤沢はそう言うと、ギターを持ち上げて丸椅子に座り、ビリージーンの冒頭から弾き出した。薄暗い光の中、弦を押さえる左手が上下に動く。
沙羅は頭の中でドラムの8ビートを刻みながら、目を瞑り歌い始めた。
沙羅の頭に浮かぶのは、マイケルが初めてムーンウォークを披露した1983年の「モータウン25周年記念コンサート」だ。あの頃のマイケルはまだ肌が黒く、彼が飛び跳ねる度に銀色のシャツと靴下がライトに反射して煌めいた。
藤沢のギターは沙羅の胸に響き、まるで自分がマイケルになったかのように、沙羅は夢中で歌う。ちょうどマイケルがムーンウォークをする間奏パートに差し掛かると、藤沢はギターを弾く手を止めた。
「とりあえず、ここまでにしようか」
沙羅は最後まで歌い切りたい気持ちを抑えて、藤沢を見つめる。
「あれかなぁ。沙羅ちゃん、中学校で合唱部に入ってたからかなぁ。ゴスペルやってた人にしてはファルセットになりやすいんだよなぁ」
沙羅ははっとして口を開いた。
「あー、自分でもそう思う。亮先生の言う通りです。私、アルトなんだけど、高音になると声出せなくて、ファルセットに逃げちゃうんです」
沙羅は母親が亮君と呼ぶのに影響され、藤沢のことを亮先生と呼んでいる。ファルセットとは裏声のことだ。合唱部時代にきれいなファルセットを出す練習を積んだせいか、自分では出せない音域になるとファルセットで出す癖がついていた。
「マイケルは音域広いからね。ファルセットだと感情を乗せにくいからさ、ミックスボイスの練習をしていこう。音域を上げる練習もするけれど、まずはもう一つキーを下げようか」
藤沢の提案に沙羅は頷く。ミックスボイスとは地声とファルセットの間の歌声で、R&Bやゴスペルなどのブラックミュージックを歌うには欠かせないのだ。
沙羅は壁掛け時計を眺め、残された時間があと三十分しかないことを確認した。
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