R&Bを胸に忍ばせて

葵 春香

第一章

第1話 浅黒い手 

 カーテンの隙間から差し込む強い日差しが沙羅さらの顔を照りつける。沙羅は左手を顔にかざしながら、ゆっくりとまぶたを開いた。

 視界に入る浅黒い手の甲を沙羅はぼんやりと眺める。今年の夏は始まったばかりで、日に焼けたわけではない。沙羅には外国の血が入っている。


 幼い頃に死別した沙羅の父親ルイスはヒスパニック系ブラックアメリカンだったが、沙羅の記憶にはない。ただ、十六年前に撮った家族写真がリビングに飾ってあるので、その顔は毎日のように見ている。なかなかのイケメンだと沙羅は思っている。


 しかし、東京とはいえ、東京都下の自然豊かなこの辺りでは外国人は珍しい。ましてや、母親の京子は細面ほそおもての和風美人といった感じで沙羅とは似ても似つかない。それゆえ、沙羅は小さな頃から事実とは異なる噂を流され悔しい思いを何度もしたが、持ち前の気の強さで乗り越えてきたのだ。


 沙羅は視線を壁の掛け時計にずらし、もうすぐ正午になることに気づくと、ベッドから上体を起こした。リビングからはクラシック音楽が聞こえてくる。2LDKで廊下とは言い難い狭い廊下しかないこのアパートでは、リビングの音はこちらまで筒抜けだ。


 沙羅はため息をついて、座ったまま服を脱ぎ床に投げ捨て、携帯電話を操作した。スピーカーからリアーナの曲が流れると、体の中に熱いものが走る。立ち上がってR&Bのビートに合わせて体を揺らしながら、着替えを始める。音楽に合わせて口ずさんでいたはずの声は次第に大きくなっていた。


 部屋のドアが開き、京子が顔を覗かせる。

「沙羅、お家で大きな声で歌わないでちょうだい。いつも言っているでしょ? それになにその恰好! いくら角部屋だからって隣りの家から見られるかもしれないのに。着替えるならカーテンをちゃんと閉めてちょうだい」


 京子は慌てた様子で少し開いていたカーテンをぴったり閉めた。

「誰も見てないでしょ。ママはいつも心配しすぎ」

 笑いながらそう言うと、沙羅は脱ぎ捨てた服をかき集め、よろしくと京子に手渡した。

「もう。夜遅くまでアルバイトしていたから起こさないでいたけれど。高校は卒業したことだし、今度から洗濯物くらいは自分でやってちょうだいね」

 京子はため息をつきながら、手渡された服を持って部屋を出て行った。


 沙羅はこの春高校を卒業したが、大学にも専門学校にも進学せずにイタリアンレストランでアルバイトをしている。いわゆる、フリーターである。

 内心ではR&Bのボーカリストコースのある専門学校へ行きたかったが、志望校は二年間で三百万円弱はかかる。将来に繋がるのか分からない進路であるため、家庭の経済状況を考えると母親には言い出しにくかった。


 ひとまず一年間だけアルバイトをしてお金を貯め、あとは奨学金を借りて専門学校に行こうと沙羅は考えている。母親にお願いすれば無理をしてでもお金を出してくれるだろうが、それはしたくなかった。


 沙羅はコーンフレークに牛乳を入れ、台所に立ったままスプーンで口に運ぶ。今日はこれからボーカルレッスンに行く。短大の音楽科でピアノを学んだ京子の知人から破格の料金で教わっているのだ。


「あら、だめよ、座って食べなさいね」

 リビングに来た京子にそう咎められると、だって急いでるんだもんと沙羅は口をもごもごさせながら答えた。

「亮君じゃなかった……藤沢先生によろしく伝えてね」

「うん。分かってる」

「沙羅、その服で行くの? もうちょっと露出抑えてもいいんじゃない?」

「だからママは気にしすぎ。それに、私、日本人に見えないから、あーガイジンだからねーって思われるだけだから大丈夫だって」

「知らない人はそうかもしれないけれど……藤沢先生が目のやり場に困るんじゃないかしら」

「レッスン来てる人はみんなこんな感じだから大丈夫、大丈夫」

 それは嘘であったが、沙羅は面倒くさそうにそう言うと、お皿を洗って玄関に向かった。


 京子は玄関まで見送りに来て、靴を履く沙羅の背中に向かって躊躇ためらいがちに声をかけた。

「沙羅。ママは音楽短大出たけれど、ピアノの先生にもなれずに、小さな会社の事務員をやってる。これだって頭の良くないママにとってはありがたい仕事だと思ってるのよ」

「ママ。言いたいことは分かってる。でも、とりあえずやれるとこまではやるつもりだから。じゃ、行ってきます!」

 沙羅は京子の話を遮るように振り返ってそう言うと、笑顔で手を振って玄関の外に出た。


 


 


 


 


 

 


 

 



 

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