4. 嘘 / ディ・セクタム区17章13節連棟住宅殺人事件
嘘 / ディ・セクタム区17章13節連棟住宅殺人事件 - 1
審明官は『教団』の中でも高い地位を持ち、彼らが下す真偽の判定は絶対のものとして扱われる。教団が影響力を持つ組織や国家においても、重大な局面において審明官はしばしば派遣され、その判断は公文書にも記録される。
強大な祝福と権力を併せ持ち、正しさを司る者が審明官だ。
ゆえに審明官は高潔で強靭で、間違いがあってはならない。
それは、俺が審明官候補として認められ、右腕に『門焚』を授かる前日のことだ。
その日のことを、忘れることはないだろう。
「審明官がもっともしてはいけないことは何か、分かるかい」
教団の中でも、最も長い官歴を持つ審明官首席の老婆が、穏やかな口調で俺に語ってくれた。
「『談合』だ。審明官同士が意図をもって結託し、真偽を覆い隠すこと――歴史上一度でもそれが発生すれば、審明官は永劫その権威を失い、多くの真実と虚偽が闇に葬られるだろう」
「ゆえに審明官は、高潔で強靭で、間違いがあってはならない」
その日のことは、よく覚えている。
冬の寒い日のことだった。俺が長くを過ごした大峡都ハイナーリルにも白く雪が積もり、日頃から静謐な聖堂も、より深く静まり返っていた。
「審明官の地位を得る前に君へ『真実の門焚』を与えるのは、そういうわけだ。これより君は、審明官候補として『門焚』の熱の重みを知り、また審明官を名乗るに相応しいことを、私たちに示す必要がある――そしてそのために、二つの制約が課されるんだ」
彼女は二本の指を伸ばして立てた。深い皺の入った指。
「第一に、『門焚』を宿す者は、その存在を人に知られてはいけない」
「第二に――『門焚』を宿す者が嘘を口にすれば、『門焚』は永遠にその力を失う」
忘れられない日のことだ。
(――それは――)
だからよく覚えている。その制約を聞いた時に思ったことを。
(――
* *
ディ・セクタム区17章13節
差し出した俺の椀に、具材たっぷりの赤いスープが注がれる。ジャガイモ、人参、ホウレンソウやブロッコリーの茎、アーティチョークにカリフラワー。石づきを落としただけのキノコ。そしてそれらと同じくらい量がある角切りのベーコン。
「雑だな……」
「何か言ったあ?」
「雑だって言ったんです。カットが」
「オーガー流なんだよ、それが」
抱えるほどの大きさの寸胴鍋にレードルを差し、ソールガラは悪びれもしない。俺は大口を開けてかたまりのようなアーティチョークを頬張った。
(味つけは乾燥トマトとラディッシュか……悪くない)
ソールガラにドアを叩かれ起こされた俺は、連棟住宅の狭い共有スペースで、彼女に朝食を振る舞われていた。
俺より少しだけ遅れてルレアも部屋からでてきた。ビネロ婆さんはいつもの通り自分の部屋で泥酔中だ。
「わたしもっ、わたしもお願いします!」
ルレアが自分の椀を持ってくると、ソールガラは甘い顔になる。
「おう。ルレア用のはちゃんと丁寧に切った野菜があるからな」
「
「男のくせにうるさいな~」
口の中のものを飲み下してルレアの椀を見ようとしたところ、不意にその胸を上から覗き込む形になり、ぎょっとする。
部屋着らしい白いワンピースに、桃色のカーディガンだけを羽織った格好。胸元は普段の私服よりも開いており、否応なくその深い谷間が目につく。
「……アスカルさん、どうかしましたか?」
「ああいや……」
俺の視線に気付いたらしいルレアに尋ねられるが、今回は本来の目的を口にすれば良いだけである。
「ソールガラさんが野菜を丁寧に切るなんてできるのかと思いまして」
「あっ、ひどい! ちゃんとできてますよ」
「おう、そうだそうだ。味もうまいぞ」
そう言ってルレアが差し出してきた椀を覗き込むと、本当に丁寧なカットが施された具材ばかりが入っていた。なおさら全部の具をそれくらいに刻めよという気持ちが強まる。
「じゃあいただきまーす」
唯一大きいサイズだったジャガイモをスプーンで潰しつつ、ルレアはスープを口に運ぶ。その口元は丁寧にカットされた野菜と同じく控えめな大きさ。もぐもぐと咀嚼していたそれが、すぐ笑顔の弧を描く。
「おいしい! 野菜の味がいっぱいで、元気の出る味です」
「だろ~? これで結構繊細な料理なんだよなあ」
そう言いながら、ソールガラはレードルいっぱいにスープをすくうと、そのままぐびりと直に飲み干した。『繊細』などと、どの口で言えたものだろうか。
「おっ、不平そうな顔」
思っていたことが顔に出たのを、ソールガラが見咎める。だが彼女は本気で機嫌を損ねることはなく、むしろにやにやと笑っていた。
「文句を言うけどよ。お前こそろくな料理なんてしないだろ?」
「俺ですか? それは偏見ってもんでしょう」
「するんですかっ?」
俺の言葉に、むしろルレアの方が食いついてきた。そう来ると、逆に俺は口ごもってしまう。
「……一応、しないではない、というレベルです」
「え~、何作るんですか? 何作るんですか?」
「気にするじゃん」
「気になります! アスカルさんと料理、全然イメージが結びつかなくて……」
「まったく大したものではありませんよ」
こうも期待されると、俺のほうがなんだか申し訳なくなってしまう。
「朝、時間がある時はベーコンと卵を焼いてパンと一緒に食べるとか……」
「えっ、ベーコンエッグ!」
「あと、たまに香辛料が売っていた時はオオムギと野菜でスープを作ってみたり……」
「ええ!? 何ですかそれ、温まりそう~……!」
「火を通してるだけだね」
「このスープだってそうだろうが……!」
ソールガラのにべもない感想へムキになって反論してしまうが、その言葉はまったく否定しようがない。白けたソールガラや俺をよそに、ルレアは意外にも舞い上がっている。
「わたし今度食べてみたいな。働いてる男の人の料理ってなんだか素敵じゃないですか?」
「いや……そんなことはないと思いますけど。本当に火を通してるだけだし」
「でも美味しそうですよ?」
「男性が作った味の良い料理って意味であれば、それこそ『イル・ポンテ』の方が……」
「料理がお仕事の人の料理はまったく別枠なんです!」
また予想だにしない強めの反論。口ごもる俺に、
「そうだ。それは別枠だ。人の気持ちの分からない奴め」
とソールガラが追い打ちをかける。
「いや、お前絶対思ってないだろ。何となくノリだけで俺を詰めてるだろ」
「そんなことはない。あたしとルレアは付き合いそこそこあるからな……同じ発想になりがちなんだ。なあ?」
「ね~?」
首を傾げて顔を見合わせる、サイズの全く異なる二人。好きにしてくれ、と俺はようやく冷めてきたジャガイモの塊を喉に押し込む。
「しかし、どうして急にこんな炊き出しみたいな真似を?」
ジャガイモが胃まで落ちきって一息ついてから、ソールガラへ訊く。
「急ぎで遠くの仕事が入ってな。しばらく留守にすんだ。それで食材を使っちまおうと思って」
「遠くの仕事?」
「北の方にある、遺跡いくつかに繋がる大きな橋が落ちたとかで、修復の人員に指名されたんだよ」
「へえ……」
アルカディミアの方だろうな、と頭の中でぼんやり地図を思い描く。
「それって危険じゃないんですか?」
ルレアの問いに、ソールガラは曖昧に首を傾げる。
「そりゃ危ないっちゃ危ない。街の外だから魔物も出るし。だけど、だから早く工事を終えるためにあたしとかに声がかかったんだよ」
報酬も良かったしね、とソールガラは涼しい顔だ。
「あたしと、あと何人か同じくらい力持ちの連中がいるだけで、工期とか全然違うんだよ。あたしは多少の怪我も勝手に治るし」
「結構大きな規模の話なんですね。そんなに重要な場所なんですか?」
「さあ……ま、あたしはカネを貰ったからには行って働くだけだよ」
「ソールガラさん並の人が他にもいるんですか?」
「ああ。ゴーレム使いとか変身魔法使いとか……」
当然のように彼女以外は魔力を介する前提だ。改めてソールガラの規格外ぶりを認識する。
「ルレアは休みか? 昨日から5月だから、もう休みが終わったとこか」
「あ、いえ。今回は今日から休みです」
よく分からないことを話す二人の横で、俺は熱をもったキノコを懸命に食べていた。そんな俺にルレアが目を向ける。
「アスカルさん、『異界紀行』読んだことありますか?」
それは『探偵騎士シャルロック』の著者、アーサー・コナンが『シャルロック』以前に書いたという源流的作品だという。『シャルロック』が売れてから注目作として売り出され、俺も一度手にしたことがあったが。
「……んぐ、んがぐ……」
「あっ、ゆ、ゆっくりで大丈夫です! ごめんなさい、食べてる時に」
「男のくせにちまちま食べるなあ」
熱い塊が食道から胃へ落ちていくの感覚に目を白黒させながら、俺はどうにか首を振りつつ口を開いた。
「……っ、みはした……読みはしました、『異界紀行』……少しだけ読んだことはあるんですが」
「その言い方、脱落組ですね」
『異界紀行』はアーサー・コナンの想像した奇妙な異世界が舞台の物語だ。その世界には魔法がなく、科学が異常発達し、使う言葉の異なる無数の国々が、電気に情報を乗せて接続し合っているという。
宗教の設定一つ取っても妙に尖っている。たとえば俺の属する『教団』がその正式名称を『
そんな異様な世界のことを理解しながら物語を追わなければならないものだから、シンプルに読解が難しい。それが『異界紀行』であった。
「実はわたしもそうなんですけど……今回の休み、またチャレンジしようと思うんです。実は読解の記事が載ってる雑誌を古本屋で見つけまして」
「それは……気になりますね。宗教周りの設定がまとまっていれば俺もだいぶ読めると思うんですけど」
「残念、技術の話でした。でも、それを参考に時間をかけて読むつもりなんです。せっかくアスカルさんもいるんだし」
「俺が?」
「はい。一緒に読んでいけば、分からない所もお互い教え合えられそうじゃないですか」
確かに『異界紀行』の難解さに向き合うのであれば、一人でグツグツ煮詰まるよりは二人で協力した方が生産的なのかもしれない。何より……
「楽しそうですね」
「でしょ?」
そんなことを話していた俺たちを見て、ソールガラはふぅんと目をしばたたかせた。
「なんか……仲良くなってるな、二人」
俺はどきりとして手を止めてしまったが、ルレアの方は涼しい顔だ。
「だって同好の士ですもん。ね?」
「……そうですね。結局職場にも、読書の趣味が似た相手はいませんでしたし……」
「わたしの仕事場にもいませ~ん」
「そう、そう。仕事の話だ」
ソールガラはまたレードルでスープを飲み干すと、そのまま俺の椀におかわりを注いだ。
「結局そこは良くなったのか? 互いにビミョーだっただろ」
「踏み込みに遠慮がなさ過ぎる……」
呆れた俺の横で、ルレアもさすがに苦笑いだ。
「なんというか、そこは……そこに触ると、穏やかでいられなくなってしまうから触らないようにしているというか……ですよね?」
「そうですね。俺は相変わらず、ルレアさんの仕事のことはすごく……引っかかるというか……嫌ですが。かといって、趣味の話もしないのはマイナスが大きすぎるというか」
「そうそう、そういう感じです。ビジネスライクな……」
「……ビジネスとまで言われると、ちょっと冷たすぎる気はしますが」
「あ……アスカルさん、意外と面倒な所ありますね……」
レードルでざぶざぶスープを飲みながら、俺たちの言い合いをソールガラは眺めている。
「ふ~ん。なんか、お互いにそんな仕事やめろよ! みたいに思ってても仲良くできるんだなあ」
「あっ、もう、またそういうこと言って……わたしにも二杯目ください!」
(お互いに……)
ソールガラのその言葉は意外だった。俺からルレアに対してはさておき、彼女も俺にそんなことを思っていたのか。
(……まあ、そんなことは到底無理だがな)
右腕、熱がなくとも『真実の門焚』の存在は常に意識している。これを得てからの期間はまだ短いが、あの日聞いた審明官首席の言葉は、最初よりもはるかに重く理解できているつもりだ。
このまま経験を積んでいけば、きっと俺は審明官になれるはずだ。教団の中でもっとも強力に正しさを司る地位に就き、誰よりも正しいことを行う。
(それを諦めるなんてことは、絶対に有り得ない)
『お前は、正しいことをするんだ……アスカル』
父親の言葉は、深く強い願いとなって、未だ俺の中で残響している。
結局スープは少しばかり残ったので、それは俺が引き受けることにした。
「早めに食べろよ! まあ今の季節は大丈夫だろうけど」
「分かってます。せっかく貰ったものを傷ませたりはしませんよ」
「そうだそうだ。あたしも去年の夏はひどい目に遭って……ベルメジに肥料として提供したなあ」
「夏なんてまだでしょう」
「いーや。ノルヴェイドは5月来たらカッと暑くなる! あたしが戻ってくる頃にはもう暑くなってるよ」
それなら服を調達しなきゃならないな、と思う俺の肩を、がっしりとソールガラが掴む。
「なんか、言ってることは良く分かんなかったけどよさ。オマエとルレアが仲良くしてて良かった!」
「随分気にするんですね」
「さっきも話したけど、あいつとは付き合いが長いんだ。あいつは仕事が仕事で、趣味の合うやつも少ないから、あたしのことを『友達でいてくれる良い人』だなんて思っているようだが……」
とんでもない、と首を振るソールガラ。
「ノルヴェイドに来たばっかりで、オーガー種の混血だからってみんな冷たかった頃に、あいつがどれだけ優しくしてくれたか。いずれそん時のことも話してやるよ」
そう言ってソールガラは背負い袋を肩から担ぎ、出発していった。
(危険な所に出向く前にそんなことを言われると、いかにも死にそうで不吉だ……なんて言っても、ソールガラには通じないんだろうな)
そして俺も、教会へ向かう準備を整える。片付けをしていたルレアとすれ違った。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます。……いいですね、なんか」
「えー? ……じゃあ今度、わたしにも行ってらっしゃいって言ってもらおうかな?」
くすりと愛らしく笑む彼女を後にし、俺も仕事へ向かった。
* *
この朝が、しばらく続く混乱の前の、最後の安息の時間となったことを、当時の俺は知る由はない。
この時点で、全ては既に始まっていたのだ。
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