嫌いな本のこと / 対均衡調和会特別警備 - 4

 今回、混血市民へ教会が提供した部屋は、質素で清潔な木造家屋だった。

 かつてこのノルヴェイドを築いた労働者のためのアパートだった建物を、教会が有事のために買い取り、改築したものだと聞いている。あの日の高台の広場にあった古い家屋と似たような来歴があるのだろう。

 赴任当時に知った時はいかにも持て余しそうだと思ったが、今回の有事に際して見事役に立ったわけだ。


「火、使えるんですね。食器も結構あります」

「ええ。さすがに入浴は共同のものを使うことになりますが……あ、そこまでは」

「いいえ」

 ルレアが湯を沸かし始めたので止めようとしたが、彼女は笑顔で俺の制止を拒んだ。

「紅茶葉もありましたから」



 調理場でヤカンを火にかけ、湯を沸かし始めるルレア。

 俺は先に椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。



「どうして……」

「え?」

「わたしがアスカルさんを部屋に入れたか、分かりますか?」

「……さあ」


 ルレアがくすりと笑った。

「何かしたいのに、どうすればいいのか分からない、そんな男の人の顔をしてたからですよ」

「そんなに具体的な表情してましたか、俺は」

「ええ。そういう人の顔はしばしば見るんです。……初めて娼館に来たお客さん、とか」


 不意に出たその比喩に、俺はぎょっとして椅子を引いた。

「あの、言っておきますが、別にそういうことをしたくて来た訳では、絶対に」

「分かってます。アスカルさんはそういう人じゃないですよね」

「ええ、まあ……」

「それに、もしそうだったとしても追い返します。今は仕事中じゃないですから」

「……それはどうも」



 湯が沸き、それをポットとカップへ注ぐ音がした。

「俺は……」

「はい」

 どうにか話し出そうとして、けれど気持ちをまとめるにはもう少し時間が必要だった。ルレアはそんな俺を強く促そうとはしなかった。

 カップに入れた湯を捨てる音がする。ポットから二つのカップに、こぷこぷと紅茶が注がれる音。

 それらをトレイに乗せたルレアが俺の前まで来た時、俺はようやく次ぐ言葉を口にすることができた。


「……もしも『探偵騎士シャルロック』が……途中で終わっていたら」

 我ながら間抜けな切り出し方だったと思う。ルレアも、きょとんとしていたに違いない。

 それをわざわざ確かめる勇気はなく、俺は俯きがちに話していた。

「俺はあの物語を好きになりませんでした。死体が見つかる。調査を行う。犯人との駆け引きに負ける……事件は暗礁に乗り上げる。『緋色の研究』ではこの後鮮やかな逆転が起こる訳ですけど、そこで本を読むのを止めてしまったら」

「……救いのない話です」

「そこに正しさはなく、俺は好きにはならなかった」

「シャルロックのキャラクターだけは印象に残りそうですけど……」

「そうですね。そこは好きでも、本としてはやっぱり駄目ということになったと思います」


 わずかに顔を上げ、少しだけ紅茶を飲む。

 どうせ教会の支給品なので、茶葉は安物だっただろう。けれど丁寧に淹れられたそれは、気持ちを落ち着かせてくれた。

 ルレアを見る。いつの間にかフードを脱いだ彼女は、真面目な表情で俺のことを見ていた。頭頂の耳も、見つめるように俺へ向けられている。

 その顔がいやに大人びているように見えて、俺はまた少し躊躇を覚えたが、始めた話をここで止めるなんてことはできなかった。



「ルレアさんのことも、そうかもしれない」

「……わたし?」

 それはこね回した末に形になった、浅はかな屁理屈だ。

「ソールガラさんにも訊かれました。娼婦と親しくするのは嫌か、と。はっきりさせておきますが……その通りです。理由をわざわざ言うことはしません。いくらでもありますからね」

 ルレアは真剣な表情のままだった。俺のその言葉も、予想できていたのだろう。


「ただ、今はまだ……本の途中なのかもしれない」

 強く握った手が汗ばんでいるのは、紅茶を飲んだせいではないだろう。

「もっと読めば、印象は全然違って……シャルロックの人物像が良かった、だけじゃない、本すべてを好きになる可能性だってある。だから、ルレアさん」

 話しながら、俺はおのずと前のめりになっていた。

 もう、ルレアの顔を見ることに躊躇わしい気持ちはない。



「あなたのことを知りたい。……今、俺から見て間違っている、俺が嫌いなあなたという人のことを、もう少しだけ知りたいんです」


 わずかに沈黙が流れた。カップから立つ湯気が揺れている。

「……なんだか、告白みたい」

 ルレアの言葉に、俺は内心を覗かれたような気持ちでびくりとした。

「知ってます? 『あなたのことをもっと知りたい』が恋の始まりで、『あなたのことはもうよく分かった』が恋の終わり、らしいですよ」

「それは……そういう考え方もあるのかもしれませんが……」


 返事に窮する俺を見て、ルレアはまたくすくす笑った。

「冗談です。……いえ、冗談でもないですね。でも、からかいました」

「……からかわないでください」

「はい、ごめんなさい」


 謝罪の言葉を口にしながら、それでもルレアはまだくすくすと笑い、紅茶を飲んでようやく息をついた。

 どこかすっきりとした笑みが、窓から差す陽に照らされている。


「『緋色の研究』に添うなら……ここから先は真相解明でしょうか。じゃあ、わたしの何を知りたいですか?」

「俺が解明したい謎は明確です。……どうして娼婦なんかしているんですか?」



「まず、ありきたりな誤解は解いておきますね。借金に追われているとか、誰かに強制されてとか、そういうことはないです」

「そうでしょうね」

 そういった、食い詰めた果てに身売りするしかなかった娼婦というのは、そもそも私財を持てない。

 娼館に併設された寄宿に詰め込まれ、自由もなくひたすらに体を売らされるのが常だ。


「たまにお客さんにそういう誤解をされることもあるんですけどね。君みたいな良い子が~、って」

「……俺も、あの夜会うまではルレアさんが娼婦だなんて、夢にも思いませんでしたよ」

「それって、騙したことになるのかな……でもアスカルさんもアスカルさんですから、お互い様ですね」


 確かに、悪人を痛めつける趣味を敢えて話す必要はない……そういうところはお互い様というわけだ。



「お金が欲しいんです」

 ルレアはさらりと言った。

「たくさんのお金。しかも現金。将来儲かるとか、資産的な価値があるとかじゃない。今日、欲しいものがあったら、それを必ず手に入れることができるお金です」

「…………」


 それは驚くほど俗で、ありきたりな理由だった。それ以外ないだろうという理由。

「わたしはツテもないし、特別な才能もありませんから……あと選択肢は、娼婦でなければ冒険者。でも、誰かを傷つけることは苦手なので、娼婦にしました」

「……なる、ほど」

「仕事は楽しいですし、合ってるんですよ。もちろん、疲れることも大変なこともあります。あの夜景を見ながら、ぼうっと過ごしたくなる時もある。けど」


 でも、それって他の仕事も同じですよね? とルレアは続ける。俺もそのことは否定できない一方で、肯定するのも苦々しく、話を逸らした。

「なら、何へそんなにお金を……?」

 少なくとも彼女の暮らしぶりは、それほど豪勢なものには見えなかった。娼婦という仕事が、俺のような若輩の聖兵と同じ程度しか稼げないとは思えない。


 俺の問いに、ルレアは少しだけ表情を引き締めた。

「本を確保するためです」

「本」

 一瞬、それこそ『シャルロック』のような娯楽本を買い漁るのに金が必要、という話かと思った。

 だが違うだろう。その行いを指して『確保』という言葉を使うのは奇妙だ。


「魔都アルカディミアのこと、どれくらいご存知ですか」

「……ノルヴェイドの更に北にある、かつて大国家だった都市ですね」



 アルカディミアは、はるか忘却の古代より存在したとされる、学術の都だった。

 あらゆる研究で最先を行き、世界の叡智が生み出される場所と語られた。


 どちらも過去形だ。

 百年以上前、アルカディミアは恐るべき何かにより、その秩序を永遠に失った。

 狂乱した魔術師たちは外敵を阻む結界と迷宮を築き続け、市民たちから生み出された恐るべき異形の魔獣が野に放たれ、異界の魔神すら降臨するという。

 他方、百年が経過した今でも、アルカディミアの内部から未知の財宝が持ち帰られ、それらは全て高値で取引される。


 魔の者が跋扈する危険地帯にして、人々を誘い込む魔性の地。

 ゆえに魔都アルカディミア。



 俺の語った理解に、ルレアは頷く。

「そのアルカディミアから持ち帰られる財宝の一つに、本があります」

「ええ。そういった話は聞いたことがあります」

 世界最大の公営図書館があり、さらには十を超える分館があった、という話を耳にしたことはあった。

 アルカディミアの崩壊により、それらの蔵書は全て冒険者の狙う財宝と化したわけだ。

「そのうち、魔術に関する研究書は魔術師ギルドが買い取ります。聖典の類は、教会が収集している……逆に言えば、それ以外の学術書に関しては取りまとめる組織がなく、際限なく散逸し続けているんです」


 ルレアの表情が曇る。

「科学士会、という組織があります。新騎士王国イノヴァシオンの、魔術外技術……魔力によらない技術を研究する人たち。わたしの知る限り、魔術外技術に関する研究が最も進んでいるのはそこです。ですが、魔術師ギルドのような資金力や組織力はない……」

「……その会の代わりに、アルカディミアの学術書をあなたが確保している、と?」

「はい。学術書は大体、古物商に横流しされるかオークションに出されるかです。わたしはそれを巡って、希少な本があれば全て買い取り、科学士会に寄贈しています」

 地下室のある今の連棟住宅を借りたのもそのためなんですよね、とルレアは付け足す。

「スペースがいっぱい欲しいし……危ないことを書いている本を、それ以外の本と並べるのは気が引けて。輸送するまでは、鍵をかけてしまっちゃってるんです」


 新騎士王国が魔術外技術の研究を積極的に進めている、ということは辛うじて聞いたことがあった。だが、それ以上のことは全て初耳だ。

 ただルレアが欠片たりとも嘘を吐いていないということを、真実の門焚が証明している。


「科学士会は、順調に成果を出してますから。このまま行けば、魔術師ギルドや教会と同様、そういった書物を収集するための組織力を獲得することはできる見込みだと聞いています。わたしは、その時間をフォローしているんです」

「……それには、どれくらいかかるんですか?」


「あと14年」


 俺の眉間に、知れず皺が寄った。対するルレアは穏やかな表情だ。


「人生のうち、ただそれだけをわたしが頑張れば、多くの学術書があるべき所に収まって、魔術外技術が発展するんです。大きな意義があると思いませんか?」

「長い……長いですよ。14年なんて」

「でも一生続くようなことじゃありません」


「どうして……そこまでするつもりなんですか」

「わたしが、魔術外技術に助けられたからです」

 絞り出した俺の問いへの返事にも、迷いはない。

「……正確には、わたしと、母と、わたしのたいせつな友達が。科学士会がなければ、きっとこの世界にわたしの居場所はなかった」


 彼女の表情は、変わらず穏やかだった。

「科学士会へ恩を返したい。わたしと同じ、魔術外技術でこそ救われる誰かを、一人でも多く助けたい」

 ただその声と言葉は、表情に反し、固く決意を帯びていた。


「これがわたしの、今生きてる理由すべてなんです」

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