嫌いな本のこと / 対均衡調和会特別警備 - 3

(ヴォールトを使えば、ルレアさんと顔を合わせずに済む……)


 その発想は怨霊のように俺に付きまとい、夜が深まるほど強くなって、朝日が昇っても消えてはくれなかった。

 それでも俺は結局、翌朝には言われた通りに娼館街の二股街灯へ足を運んだ。


 間違いに近づくべきではない。

 だが、俺が避けたとて結果的に、ヴォールトがそれへ近づくことになる。

 ならばそのリスクは、俺が負うべきだ。


 俺は正しいことをしていて、俺が躊躇う必要など、何もない。そうだろう?



 朝の娼館街は、昼とも夜とも異なる様相だった。

 店は閉じ、行き交う人々は少ない。が、皆無ではない。店に務める用心棒や小間使いが道を清掃し、時折娼婦らしい女性や、宿泊を終えた男客が歩いている。

 男客の大半は単独で、まるで何かを憚るかのような様子で物静かに歩いていたが、一度だけ集団の客を見かけた。彼らの醜悪さときたらとんでもなく、大きな声で自分が同衾した相手のことをあれこれと批評して、たびたび野卑な笑いを上げていた。


(とっとと声の聞こえない所まで行ってくれ)

 剣杖トランシオンを握りながら、強く思う。

(もし『ルル』という名前が出たら、同名の他人のことであっても、きっと俺はこいつらを無事で返す自信がない)


 幸いそのようなことはなく、集団客は冒険者街の方角へ向かっていった。

 俺はひそかに嘆息しつつ、それでも剣杖を握る手の力を緩めることはできなかった。



 もはや灯りの消えた二股の街灯の下、俺は待つ。

 声をかけられたのは数分後のことだ。


「アスカルさん」


 随分久しぶりに聞いたような気がする声だった。

 柔らかで、大人しく、控えめで、気遣わしげな声。


「……ルレアさん」


 俺に名を呼ばれた彼女は、ぺこりと頭を下げる。

 あの晩と同じ、ワインレッドのローブを羽織って、フードを目深に被っている。だが、フードの隙間から漏れ流れる、茶と白の混じった細い髪は、フードを下からわずかに持ち上げる耳のような膨らみは、間違いなく彼女のものだった。


 しばし俺たちは押し黙る。

 だが先に口を開いたのは俺だった。仕事のために必要だったからだ。



「事情は聞いていますか」

「あっ……はい」

 フードを被った小さな頭がこくこくと縦に揺れた。

「混血の人を……敵視する人たちが来ているって」

「そんなところです。なので今から、教会管理下の建物にご案内します」

「はい」

「安全が確認できるまで、そこで寝泊まりしてください。夜外を出歩く時も、可能であれば連絡を」

「はい」

「ソールガラさんももう来ています」

「……はい」



 そして、沈黙。

 俺たちはいつの間にか歩き始めていて、少し距離を開けたまま、娼館街を抜けていく。

 すれ違う人がひっそりと視線を向けてくるのを感じたが、そんなものはどうでも良かった。周囲のことなど、何一つ気にならない。



「あの」

 不意に、ルレアが口を開いた。娼館街を出る頃のことだ。

「自宅に……戻れますか?」

「……ディ・セクタムの?」

「はい」


 もし自宅から何か持ち出すのであれば、教会が提供する寝泊まりの場に案内してから、というのが方針だった。だがそれを伝えると、ルレアは迷いながらも首を横に振る。

「その前に……お願いします。一度帰らせてください。時間は取らせませんから」

「……分かりました」



 そうして俺たちは、また連れ立って歩き出す。

 俺と、ルレアと、沈黙。三者連れ立っての行脚。


 あの夜、ルレアが襲われかけた道も通った。

 あのレストラン、『イル・ポンテ』にほど近い道も通った。

 どちらでも、お互いに何も言うことはなかった。


 俺たちの歩く道は、薄く大きな泡の上に伸びているのだと思う。光のない空の下の、闇の泡。

 少し加減を間違えれば、何もかも弾けて、消えてしまう。

 だから、何もできない。



 ずいぶん長い道のりを経て、俺たちは戻ってきた。

 ディ・セクタム区17章13節連棟住宅。

「すぐに済ませます」

 自室に滑り込むルレア。俺は少しその扉を眺めていたが、何の生産性もないことに気付き、街路に出てルレアを待った。

 空はもう明るく、日が照っている。今日も北国の春らしく、暖かな昼と底冷えする夜が待っているだろう。



「アスカルさん」

 俺に声をかけたルレアは、トランクを持ち、いつもの白いローブを身に着けていた。頭頂にはっきりと三角の耳が立っている。

(……ルレアさん)

 前髪もいつも通り、薄く緑の眼を覆うくらいの長さ。化粧は薄く、服は首元まで覆うもの。

 俺のよく知る彼女。あの夕方に、この街の夜景を見せてくれた彼女が、そこにいた。


「あの、準備……できました」

「ええ。……行きましょうか」



 そして俺たちはまた歩き出す。

 今回違ったのは、沈黙がそう長く続かなかったことだ。


「天気、良いですね」

 口を開いたのはルレアだった。俺も返事をする。

「ええ。良く晴れてます。暖かいし」

「今の時期は本当、天気次第ですよ。曇ったり、雪なんか降ったりすると、冬みたいに寒くて」

「降りますか、雪……こんな時季なのに」

「全然降ります」


 呆れるほどに当たり障りのない、天気の話。こんな話、初対面の時から今日に至るまでしたことはなかったように思える。

 ただ、こういった無難なものの有り難さを俺はよく分かっていた。ルレアも分かっていたはずだ。こんなどうでもいい話をするだけで、何だか次に繋がる気がする。



「娼婦と話すのは嫌でしたか」


 だからか、そう問われた時も、自分で驚くくらいに落ち着いていた。


 行く手から、子どもたちがじゃれ合いながら走ってくる。

 彼らが俺たちの横を通り過ぎてから、ルレアの問いに答えを返した。


「そんなことはないです」

「なら……」


「あなただってそうでしょう」

 自分の声が上ずったりしないか、不安がある。

 それでも言葉を止める気にはなれなかった。

「部屋に一度戻るまで俺と話をしなかったのは、あなただってそうだ。ずっと黙ってた……同じです」

「……わたしが着替えたら、話せるようになりました」

「話しかけてきたのはルレアさんだ」

「分かるんですよ、雰囲気で。話しかけて平気なのか、どうなのか」


「雰囲気?」

 最後の俺の返事は、どこかせせら笑うような声色になっていた。

 いけない、と思い口を閉ざし、それもいけない、と思い直して口を開く。

「すみません」

「……いいえ」



 俺たちはいつの間にか、露店広場に差し掛かっていた。

 ノルヴェイドの外、南方の外縁に点在する農作地や牧場からの品だ。小規模な店から子どもを抱えた一家の母親まで、様々な人が利用する。必然、人も多い。


「んっ……」

 人波を避けようとして、ルレアの歩みが少し遅れた。見れば、手にしたトランクがだいぶ重そうだ。

「ルレアさん」

「す、すみませ……あっ」

 トランクの持ち手に手を伸ばし、そのまま彼女の手から取り上げる。確かに、彼女一人で持つには大変そうな重量だった。

 ルレアは驚いたように目を瞬かせていたが、困ったようにフードの裾を引いて、目元を隠した。


「預からせてください。人混みを抜けるまでです」

「……はい。ありがとうございます」


 それだけ話して俺たちは露店広場を横断し、やがて人通りのそう多くない教会近辺に差し掛かった。ここまでくれば大丈夫だろうと、トランクをルレアへ返す。



「すみません、助かりました……この時間、あの辺りに来ることはあんまりなくて」

「……もしかして、日中は寝ていたり?」

「そこまで夜型の仕事じゃないです。うとうとしてることは多いですけど……」

 ルレアはトランクを持ち直すと、息を吐いて俺をまっすぐに見た。


「わたしは、アスカルさんと話すの、嫌です」


「……」

 あまり想像していない言葉だった。声こそ漏らさなかったが、だいぶ怪訝な顔をしただろう。

「これは想像なので、合っているかどうかは分かりません。けど……」

 その眼は、変わらず綺麗な緑色だ。今はそこに、強い意志も加わっている。

「アスカルさんが娼婦のわたしが嫌なのと同じくらい、人を必要以上に傷付けて痛めつけるようなことをするアスカルさんが嫌です」


「あの夜のことですか」

「そうです。それで、あの夜だけのことじゃないですよね? 声を奪う魔剣を持ち歩いている上に、あえてゆっくり傷を治す魔法……」


 ルレアの言うとおりだ。あの時俺の施した強力再生ハイリジェネレイトの魔法には、《少しずつ》という追加文節が付与されていた。

 詠唱にそれを付け加えることで、その効果時間を伸ばしつつ、再生効果を緩やかにできる。そしてこの緩やかな傷の再生は、本来の強力再生の魔法で得られるそれに比べ、痛みが後を引く。


「手慣れすぎですよ、アスカルさん。常習犯なんでしょ? ああいうことをする……」

「ええ」

 真実の門焚の制約がなくとも、ここで俺が嘘を吐くことはなかっただろう。

魔女撃ちの釘ウィッチネイルを携帯している目的が、悲鳴を上げさせないためなのもその通りです。高かったですけどね、良い買い物をしたと思っています」


「……そういうことを平気で話せる人なんだ」

 その声は、失望というよりも困惑の色が強かった。だから俺も返す。

「俺も多分、同じ気持ちですよ。娼婦であるルレアさんについて」

「そうなん……いえ、そう、そうなんですよね」

「良く知りもしない相手に、金のために身体を売り渡すような真似、よく平気でやれますよね」


「うーん」

 ルレアは困ったように笑う。少し意図して口にした俺の刺々しい言葉で傷ついた、という様子はない。

「普通はそう、思いますよね……」



 教会に近付けば、さすがに喧騒は遠い。

 そのせいで、俺たちの間に再び流れ始めた沈黙もいやに重く感じられた。

 ルレアに割り当てられた部屋へ想定より早く着いたように感じたのも、そのせいだったかもしれない。


「あとは大丈夫です」

 トランクを両手で持って、ルレアが控えめに笑う。

「ここまでありがとうございました」

「いえ。仕事ですから」

「仕事以外のことも、です」



『仕事以外のことも』。

(……ああ、そういうことか)

 その柔らかな言葉が、俺たちの関係に向けるルレアなりの一区切りであると気づくのに、少々の時間が必要だった。


 決定的だな、と思った。

 そして、終わりだな、とも。


 俺とルレアに重なる所はあった。

 だがそれ以上に、俺たちは互いに互いを容認できない。

 だから、あの小高い広場に連れて行かれて、夜景を見せてもらった時に始まった俺のこの気持ちは、ここで終わりになるんだ。

(いいじゃないか。たまにすれ違って、天気の話でもして、もしかしたら新しい本の話をすることもあって。そういう相手が赴任早々に得られただけでも、上等だ)



 ルレアがトランクを足元に置いて扉を開く。

 見下ろすその背中が数秒前よりも随分小さく、遠い距離が出来たように見えた。

(距離――)



『ベルメジは距離を取った』

 ふと脳裏に浮かび上がったのは、昨日のソールガラの言葉だった。

『ルレアはアンタのこと気に入ってたんだぞ?』

 そんなことを思い出した、自分の脳が憎らしい。どうして今こんなことを。

『あんたも嫌か、娼婦は』



 閉じようとしていた扉を掴み、押さえる。

「待ってください」

「えっ……」

 もう部屋の中に入っていたルレアが振り返り、困惑の眼差しを俺に向けた。

「……あの、どうかしましたか?」

「いや、その……」

 恐る恐る尋ねるルレアに、俺の方が言葉に詰まる。


 衝動的な行いだった。

 この後何をどうするかなんて、考えちゃいない。

 ただその扉が閉まって、俺と彼女の間に決定的な隔たりが生まれてしまうのを、もう少し先延ばしにしなければいけないと、そう直感しただけだ。


『お前は、間違いに近づいてはいけない』

 脳裏に響く父の言葉を、いま少しだけ追い払う。

(確かに、娼婦は、その行いは間違いだ。けれど――)


 ――けれど。

 そこに俺は、どんな言葉を次ごうというのだろうか?


 黙り込んだ俺を見て、ルレアは眉尻を下げて笑った。

「……なら、少しお時間いただけますか?」

「え? あっ……」

「どんな部屋かも確認したいですし。時間、あるんですよね?」


 逆にルレアにそう誘われることは想像していなかった。戸惑いつつも曖昧に頷く俺に、良かった、と彼女は言う。



『あんたも嫌か、娼婦は』

 ソールガラの言葉がもう一度浮かび上がる。それに対する俺の答えは明白だった。

(嫌に決まっている)

 まずもって、身体を売って金を稼ぐという行いが間違っている。法が見逃そうと、それ以前の規範に大きく背いている。そこで交わされる行為は、換金して良いものではないだろう。


 そしてその間違いは、人にさらなる間違いをもたらす。

 破滅的な間違い。積み上げてきた全てを崩してしまうほどの。

 だから、そんな相手と好き好んで関わり合いなんて持ちたくない。俺はそう思う。


 だが。

(……それを俺は、結論にはできない)

 そう結論を出して、流れに任せてルレアとの関係がこれ以上深まらないよう止めてしまえば良いと思えるなら、俺は閉じていく扉に手を伸ばさなかった。

 事実として、そうはできなかった。

(だって俺は、娼婦である以前の、彼女のことを知ってしまっている)

 父の言葉を胸に、頭の中で賢者のように理屈をこね回そうと、俺の反射的行動という本能のような現実の方が、はるかに真実に近い。



 俺は衝動的に伸ばした手で慎重に扉を開き、部屋の中へと足を踏み入れる。

 背後の扉が閉まる音は、思ったよりも穏やかだった。

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