嫌いな本のこと / 対均衡調和会特別警備 - 2
ヴォールトの持ってきた情報を元に、俺とヤツは二手に分かれ、片方は北から、片方は南から巡回と避難勧告を進めていくことになった。
「リーアルが言っていたことを覚えてるな? 判明している分声掛けをしつつ、漏れがないか聞き込みも並行する」
「……うっす」
「何か不満か?」
「だって分担するんじゃあ一緒にいられないじゃないすか!? 事件に遭えませんよ!?」
その発言に少しも嘘の気配はない。こいつは本当に、事件に遭遇したいがために俺と行動したがっている。
「……行くぞ」
「うっす……」
もちろん俺は、北からの声掛けを担当することにした。
娼館街に近いからである。
(ヴォールトを使えば、ルレアさんと顔を合わせずに済む……)
もちろんその選択肢も考えたが、ソールガラの話を聞いて、なお距離を漠然と遠ざけ続けることはできなかった。
『ルレアはアンタのこと気に入ってたんだぞ?』
それは俺だって同じだ。
ただ、その先でどうしたいかの答えは、出せない。
出せないまま、俺はそこへ辿り着いた。
「『ミエルエシャ』……」
ソールガラはそう言っていたが、吊り看板に書いてある実際の店名はもう少し長かった。
まだ日は高く、娼館街の他の店と同じように、正面扉は固く閉ざされていた。意外なのは、一階部のそこかしこにガラス窓が嵌っていたことだ。
カーテンがかかっており中の様子は伺えなかったが、逆に言えば営業中は、中の様子が見えるということだ。
(思えば娼館のことなんて何も知らないな……)
男子修道院時代はもちろん、その後に続いた教練時代に研究時代、ノルヴェイドへの赴任直前の第一次赴任に至るまで、そういった文化とは一度も接触したことがない。
『お前は、間違いに近づいてはいけない、間違いは、間違いを呼んでしまう』
それは、人の欲につけこみ心と体を乱す行いだ。
『お前は、正しいことをするんだ……アスカル』
それに、俺が近付く必要はない。
(ここにルレアさんがいるということ自体、何かの間違いであって欲しいんだが……)
「さあ、
そんな淡い希望も、嘘の熱を帯びた返事によってあっさりと撃ち破られてしまった。
「……なんだいその顔は。目当ての女がいるんだろ?
「ああ、いえ……そうですね……」
「じゃあもういいかい。こっちは開店の準備に忙しいんだ」
「待っ、てください」
このまま項垂れていたい気分だったが、そうも言っていられない。俺は懐から聖印のペンダントを取り出し示す。教会所属者を示す身分証だ。
「先ほど少し話しましたが、俺は聖兵です。ノルヴェイドから治安維持を委託された……」
「それで? そんなもんをぶら下げてれば、中に入れてもらえると思ってるのかい? タダで?」
「入りません! 教会所属ですよ俺は……!」
「教会に所属していようと、この辺に遊びに来るやつはいくらでもいるけどねえ」
今の発言こそ嘘であって欲しかった。まったくもってままならない。
とはいえ、そこから強引に始めた均衡調和会の訪問、それに伴う避難勧告などの話は、ミストレスは特に反論なく聞いてくれた。
「……まあ、事情は分かった」
話し終えた俺を見るミストレスの目は、意外にも穏やかだった。そしてこんなことを言う。
「嘘を言っている様子もないしね。信じてやろう」
「ありがとうございます。では、ルレアさんは……」
「仕事が入るかどうか次第だね」
仕事。
その響きに、また頭の中身が締め付けられるような苦痛を覚えた。そんな俺を気にすることもなく、ミストレスは話を続ける。
「あの子はあんま固定の客を狙って搾るタイプじゃない。だが顔も性格も良いんで人気はある」
「…………そう……ですか」
「もし泊まりで買う客が出ればうちにいたほうが安全だろ。うちには専属の用心棒もいるし、あんたの話だとこのへん、北区は冒険者が警戒するっていうんだ」
それを否定することはできなかった。冒険者は粗野で考えなしの奴ばかりだが、実力は確かだ。
「時間遅めの客に買われた時も、まあうちで面倒を見ることにするよ。そうじゃなかったらあんたの言う通り、教会管理下の家に避難させてくれ」
「……分かりました」
相槌を打つだけで精一杯だった。
身構える余裕もなく、ルレアがいかなる娼婦かという情報を耳から流し込まれ、嫌悪感で臓腑がひっくり返りそうだ。もし人目がなければ嘔吐すらしていたかもしれない。
「表の通りに二股の街灯がある。夜の十時にそこに来な」
結局話はこうまとまり、俺はふらつく足取りでその場を後にした。
* *
事前調査で判明していたディ・セクタム区に居住する混血住民は、ソールガラとルレアを含め9名。
さらに商店会で聞き込みを行った結果、調査結果になかった2名の混血住民を割り出すことに成功した。これはヴォールトの成果だ。
こうしてディ・セクタム区では都合11名の混血住民への情報伝達、ないし教会管理下への避難勧告を行うことができた。
全員がそれに従う保証はないが、少なくともすべきことはしたと言えるだろう。
「上々の結果だな」
アーウィン聖兵長殿の表情には疲れが溜まっていた。恐らく朝から均衡調和会の対処にあれこれと働いていたのだろう。
「ヴォールトは?」
「帰らせました。明日朝早めに来るように言っています」
「それが良いだろうな。お前はこの後、残る一人を迎えに行くのか?」
残る一人、というのはもちろんルレアのことだ。肯定すると、アーウィン殿はわずかに頷いた。
「娼婦であろうと、ノルヴェイドの民であり、教会の守護対象だ。正しく扱えよ」
「は……」
俺は頷き、しかしアーウィン殿の物言いに微かな違和感を覚える。
アーウィン殿の前から去り、食堂で何か腹に入れようと歩き始めた所で、ようやくその感覚を理解できた。
(『正しく扱え』? 正しい扱いとはなんだ? 俺が正しくない扱いをするとでも思っているのか? ……ルレアさんを?)
きっと普段の俺であれば何も感じはしなかっただろう。
だが今は、ルレアという存在を中心にあまりに多くの情報と感情が、堰き止められた濁流のように暴れていた。
(クソッ)
俺は品行正しい聖兵としての外面を崩さぬように、内心毒づく。だがそれも、何に向けたものか、自分でも分からない。
ただこう思う。
(……戻りたい。何も知らず、彼女と本の話をしていたあの時に)
* *
夜九時半を回る頃、俺は指定された二股の街灯の下に着いた。
日の沈んだ娼館街は賑やかで、客引きの声が飛び交っている。
勘違いしていたのだが、娼館というのはどうも男と女が肌を重ねることばかりをする訳ではないらしい。多くの店舗は一階を酒場のようにしており、そこで飲食を提供している。メニューしか見なかったが、値段の割りになかなか凝ったものがあった。
そしてその酒場で、店員として働いていたり、音楽や踊りを披露している娼婦を品定めする。そこで気に入る相手がいれば、まあ、ようやく娼館の本懐を発揮するわけだ。
そんなものだから、どうも娼館街だからといって行き来する酔客が全員娼婦を買いに来たわけではなかったようだった。どころか、数は少ないながら女性客がいることには結構な衝撃を受けた。
(だから何だという訳でもない……俺がこんな所の客になる日なんてないんだ)
聖兵の制服を着て街灯の下に立っている男を、客として見るものはない。俺は喧騒の中、一人静かにその時を待っていた。
「お兄さん」
そのとき声をかけてきた少女は、あの夜のルレアと同じくワインレッドのローブを羽織っていて、少しだけどきりとさせられた。
だが、恐らく年齢はルレアよりも下だろう。くしゃっとした黒髪。背丈は少し高いが、細身で、まだ垢抜けない雰囲気があった。
「『ミエルエシャ』の使いです。ルル様の件で連絡するよう、ミストレス様に言われました。アスカル様ですか?」
「ん?」
その言葉をすんなり飲みこむことはできなかった。『ミエルエシャ』は分かる。『ミストレス』も分かる。『アスカル』は当然、俺の名前だ。
(ルル様……?)
「……違いましたか」
「いや……俺がアスカルなのは間違いありません」
「すみません、一応身分の証明を……」
言われるまでもなく聖印のペンダントを見せると、使いの娘はこくりと頷いた。
「ありがとうございます。それで、ルル様のことなのですが……」
「待った。俺が話を聞きたいのは……ルレア、という女性のことです」
その言葉に、使いの娘はぱちりと目を瞬かせる。
「何かの入れ違いがあったんじゃあ……」
そんな俺の疑いに、しかしその娘は冷静に応じた。
「いえ、間違いありません。アスカル様」
「そう……なんですか?」
「娼婦は商売の時、本名を用いません。あなたがお待ちしているのは、ルル様で間違いないのです。……そして、その方の本名をみだりに出さないように」
(……ああ)
娼婦名だ。本名とは異なる、仕事の時にだけ名乗る名前。芸人に芸名があるように、娼婦には娼婦名がある。
その制度くらい、俺だって知っている。
(ただ、それがルレアさんと結びついていなかっただけだ)
胃の重くなるような気分の俺に、使いの娘はさらなる事実を積み重ねる。
「今晩、ルル様はお仕事です。今夜の所は、『ミエルエシャ』で面倒を見ます。ですので、よろしければ明日の朝、またここに来ていただきお迎えを……」
(ああ――)
ごく自然に『ミエルエシャ』の方角へ目が向いた。1階も2階も、明るく照明が点いている。
だが、窓に布幕の張られた2階の内側を見通すことはできない。
そこにルレアはいるのか。
そこでルレアは何をしているのか。
「アスカル様?」
「……いや。分かりました。お気をつけて」
どうにかその返事を絞り出し、俺は二股の街灯を後にする。
一刻も早くその場を去りたい気分だったが、どうしてだか走ったり、足早になったりすることはできなかった。
つまらないプライドだと思う。他人に動揺しているところを見せたくないのだ。
特にこんな、娼館街にいるような連中。
女を買う男、体を売る女。
下賤で軽率な
(……『間違った』奴らに)
歩きながら、腰に提げた
(……どうしてそんな所にあなたがいるんだ)
いっそ彼らが罪人であれば、一人残らず斬り伏せてやるのに。
(どうしてあなたがそうなんだ!)
夜が深まり、少しずつ眠りに近づき始める娼館街で、俺は一人、感情も心拍数も荒げながら、逃げるように歩き続けるしかなかった。
行き交う人々は皆笑っているようで、誰も俺に目など向けなかった。
誰一人、誰一人として。
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