prologue. 悪星 / ノルヴェイド北区婦女暴行未遂

悪星 / ノルヴェイド北区婦女暴行未遂

 北壁都市ノルヴェイド。

 その二つ名は、さらなる北に魔都アルカディミアを擁し、そこより溢れるあらゆる危険の南下を防ぐ機能に由来する。

 ノルヴェイドが教団に都市内警備を委託しているのは、彼らに戦力がないからではない。その戦力を、全て北からの防衛に回しているからだ。ノルヴェイドの保有戦力が敵より身を守るための『盾』であれば、俺たちは内部の不調を防ぐ『免疫』と表現できるだろう。


 そしてもう一つ、ノルヴェイドには『矛』がある。

 いつかノルヴェイドに真の意味での平穏をもたらすため、魔都アルカディミアを攻略・平定するための戦力。

 それが冒険者だ。戦いのための一芸を持ち備え、一攫千金を求め命を賭してアルカディミアへ挑む、各地より集まった蛮勇の者たち。


 あるいはこう呼んでも良い。

 度し難い犯罪者予備軍のクズども。



   *   *



 聖兵長どのの計らいで、土地勘のない町並みでの単独夜警というあまり常識的でない仕事を任され、それにも慣れてきた頃。

 その日の俺はノルヴェイドの北区を巡回していた。アルカディミアが魔都と化してから整備されたこの区域は、冒険者たちの活動拠点でもあり、必然的に治安も低下する。

 暦の上では春だが、夜から明け方にかけてはまだ肌寒い。聖兵制服の襟を立て、手のかじかみを誤魔化すためにしばしば支給されたランタンと剣杖トランシオンを固く握り、往来もまばらな夜道を巡回していた。


 遠くから、乱痴気騒ぎが聞こえてくる。野太い笑い声。調子の外れた演奏音。

 きっと一山当てた冒険者が、後先なく酒盛りしているのだろう。

(……耳触りだな)

 しかし、構いはしない。それで他人に被害を及ぼさない限りは。



 酒宴の喧騒が遠のく頃のことだ。


「……っ……っ…………」

「…………来いっ……すぐ終わ……からよ……!」


 か細い悲鳴と、暴力の気配を伴う男の声がどこかから聞こえた。

 俺は足を早める。単独夜警でヘマを踏みたくはなかったから、一帯の地理は頭に叩き込んでおり、よってその声の出処と、そこまでの最短経路もすぐに割り出せた。

(……娼館街の方角か?)


 夜の静寂の中、争い合う音に反応してか、野犬が吠え始める。

 星月の光は、しかし地上をくまなく照らし出すほど明るくはなかった。



「おい」

 細い路地。

 ワインレッドのローブを身にまとった小柄な人影を、がっしりした体躯の男が壁に押さえつけていた。

「何をしている。止めろ」


「何だあぁ?」

 ひどい泥酔ぶりだ。暗闇の中でも、その呂律の回っていない声と、ふらふらと揺れる体躯で分かる。

「邪魔ぁすんじゃねえぇよ! こいつは、こいつはな、娼婦なんだ。へへ……こいつの体はなあ、売り物なんだよ。ヤッちまって何が悪いんだ。ああ?」


 ……まったく忌々しいことだが、ノルヴェイドにおき娼婦業、すなわち売春は合法である。

 ただしそれは、都市による管理の下でのみ行われ、たとえばそれを行う場所や人員、サービス内容まで厳しく統制されている。


『お前は、間違いに近づいてはいけない、間違いは、間違いを呼んでしまう』

(……分かってる。俺は近づかない。確かめ、間違っていれば、正すだけだ)

 脳内に去来する声を振り払う。


「正当な対価を払い、同意の上でのことか」

ΦΦΦΦΦΦ。早くどっか行きな、細い兄ちゃん!」

「そうか……」


 論外だった。

 俺は剣杖を構え、詠唱に入る。

「《とおき湖面よ》《祝福せよ》《撰ばれし剣を》」

「あ……?」


 剣杖トランシオン。聖兵の標準装備であり、細い剣のような形状をしているが刃はなく、打突用途が想定された、言ってしまえば警棒である。

 だが、今発動した神聖魔法、聖剣付呪キャリバーエンチャントにより、触れた物を引き裂く光の刃を生じさせることができる。

 魔物への対処を想定された魔法だが、当然人間もよく切れるようになる。



 冒険者の男はようやくから俺に向き直った。押さえ込んでいた手を離され、ワインレッドの影が崩折れる。

「やるってのか? こんな売女ばいたのために? この、俺とォ?」

 返事はしない。男は舌打ちして、腰から提げていた剣を抜く。

「舐めんなよ、ケチ付けやがって……街で良い子にしてるだけの聖兵なんかがなあ……《炎熱よ》《宿れ》《ザイシオンの腕に》!」

「《透き湖面よ》《映せ》《我が身へ》」


 相手――詠唱からしてザイシオンというらしい男の魔法に対応して発動したのは、強化複写トレースインクリース。能力を強化する魔法の効果を、俺自身へ複製する。予想通り、腕の力が増す感覚があった。

 そして戦闘距離に入る。魔法の発動は、魔力の精密操作と正しい発語が基本で、打ち合いながらの発動は不可能だ。

(……酒に酔っていても魔法を使える所は、腐り果てても冒険者か)


「死、ねよ!!」

 振り下ろされる剣の軌道は、速く、直線的だ。半歩下がり受ける。腕が痺れるほどの衝撃が走るが、眼の前の相手と同じく腕力を強化している今、受けるのはそう難しくない。

「オラッ! オラあッ! 俺は! 俺はな!」

 一度直撃すれば斬傷も骨折も免れないであろう、迫力ある乱撃をいなし続ける。ザイシオンの攻撃はどんどん熱く、荒く、雑になっていく。

「こいつで……叩き斬ってきたんだ! トロールの皮も! ゴーレムの装甲も! ドレイクの、尾も!! 他のものも、敵になるものは……全部! ΦΦΦΦ!!」

 腕への衝撃に混ざり、嘘言の熱を『門焚』が告げる。

ΦΦΦΦΦΦΦΦ ΦΦΦΦΦΦΦ ΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦΦ――ぃッ」


(聞くに堪えない)

 もはや見切った剣閃を、剣杖の腹で横へ流す。滑った剣は路地に積んであった木箱を叩き割り、土壁に弾かれる。ザイシオンがよろめいた。俺は踏み込む。

「――――!?」

 魔女撃ちの釘ウィッチネイル

 仕事にいつも携行している私物の魔剣で腕を掠め斬った。男は苦痛に顔を歪め、しかし悲鳴を上げることはできない。


 一撃が入れば、あとはどうということはない。人体は複雑だが、その反応は驚くほどに画一的だ。

(腕を庇えば腹が開く)

 剣杖の光る刃が腹を裂く。

(腹を庇えば肩が開く)

 突き出した剣杖の切っ先が肩を貫く。

(上半身が仰け反れば、足が遅れる)

 無防備な腿を光の刀身が斬る。

(後はもう立っていられない)

 みっともなくよろめいたその身体を柄頭で打撃し、その場に倒す。



「トロールだがゴーレムだか知らないが……」

 倒れたザイシオンの横に屈み込み、先ほど斬ったのとは反対の腿に、魔女撃ちの釘を突き刺した。悲鳴は上がらない。

「生憎こっちは対人戦闘のプロなんだ」

 さらに剣杖の光る刀身を突き刺す。まずは足。ばたばたと腕が暴れたものだから、今度はそちらを刺してやる。

「お前たちのような野放図なクズとは、違う」



 あるいはこの男にも、何か憐れむべき事情があったのかもしれない。

 娼婦を襲ったのも、例えば仲間の死のようなきっかけがあり、己の無力感に苛まれ、痛飲、泥酔し、血迷った結果なのかもしれない。


 だがそんなことは関係ない。

 重要なのは、こいつが一瞬の欲に溺れて罪を犯そうとしたこと、そしてそれを俺が罰していることだけだ。

 正しい暴力。暴力的正しさ。

 俺にはそれが、たまらなく――気持ち良い。



「《透き湖面よ》《満たせ》《ザイシオンの命を》《少しずつ》」

 強力再生ハイリジェネレイトは、身体に受けた傷をゆっくりと癒やしていく魔法だ。さっそく最初に斬った腕の傷が塞がったので、改めてそこに刃を振り下ろした。そして次は、今まで傷の及んでいなかった脇腹を刺す。

「俺のことを告発しようと思ってるか?」

 魔女撃ちの釘の呪いで、絶叫の形相に引きつりながら声の一つも上げられない男に、そっと囁いてやる。

「止めやしない。事の経緯をつまびらかに明かせると思っているならな」


 まずそうはしないだろうという確信があった。

 そもそも証拠がなく、そんな状態で被害を訴える選択肢を、下らないプライドと中途半端な社会性が許さないだろう。

 仮にそれができたとしても、娼婦を暴行しようとした事実がある以上、俺の正当性は揺るがない。

 むしろここでこいつを捕らえ、痛めつけたことにより、こいつは二度と同じ罪を犯そうとしないだろう。


『お前は、正しいことをするんだ……アスカル』

(……そうだ)


 俺は正しいことをしている。




「やめて――!!」


 意識の外から響いたその声を、思わず振り返った。

 愕然とした。

 ザイシオンが俺の拘束を免れ、這いずりながら逃げて行く。俺はそれを止められない。


「な……」

 声が上がったことに意識を持っていかれたのではない。

 その声が、ワインレッドの人影……襲われていた娼婦から発せられたことに驚愕があったのだ。


(馬鹿な)

 知っていた。

 俺はその声を知っていた。


「……ル……レア、さん……?」


 フードが外れる。

 頭頂の、三角形の耳。茶と白の混じった繊細な髪。前髪は髪飾りで止められ、化粧でいっそう華やかになった顔の中心に――見間違えるわけもない、大きな緑の瞳。

 ローブの合間から、胸元の大きく開いたドレスが見えた。煽情的で、彼女の肉体的な魅力を押しげもなく見せつける、きらめくような薄い布。


 何かの間違いだ、と思いたかった。

 ルレア。穏やかで、優しく、読書を愛し、俺を思いやり、優しい瞳で街並みを見つめていた彼女が。

(――娼婦)



「アスカルさん……」

 そんな彼女もまた、深い動揺の最中にあるようだった。

「ど、どうしてそんな……」

「……何が」

「そんな……人を、必要以上に傷つけるようなことをするんですか」


「はあ……?」

 思わず聞き返すと、ルレアはいっそう悲しげな表情になる。

「わたし、あなたのこと……や、優しい人だって、思ってたのに」


「……は、はは」

 漏れた笑いは、乾ききっていた。

 男に襲われそうになっていた彼女が、彼女を助けた俺のことを、責めている。

 俺の行いが、責められている。

 それに気付いた瞬間、脳の中心が恐ろしく冷え込んだ。


「そんな人だと思ってなかった、って言うのなら」

 喉と、口が勝手に動く。まずい、と思う暇すらなかった。

「俺だって、あなたがそんなろくでもない、『間違った』ことをしているだなんて思っちゃいませんでしたよ」



 彼女の柔らかな頬が、ひきつるように歪んだ。

 ワインレッドのシルエットが、俺の横を駆け抜けていく。

 止めることはできなかった。魔法の効果が切れ、ただの棒に戻った剣杖を片手に、俺は茫洋と夜の空を見上げる。


 とても、その空を美しいとは思えなかった。

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