第3話 徳次郎と薫の記念写真

 もうすぐ自分にも死が訪れる。

 自宅から愛機のニコンを持って写真館に行った。誰にもこのカメラを触らせなかった。だから、このカメラで自分を撮った写真は一枚もない。最後の命のかけらをこのカメラの中に収めようと思った。

 三脚にカメラを乗せ、町の風景画をソファーの後ろに立て、カメラのセットに戻ろうとした時にめまいがして倒れた。

「思ったより少し早かったなあ。そうか、ここまでか。あと少しだけ待ってくれないかなあ」

 ぼうっと天井をみながらつぶやいた。

 その時懐かしい薫の声がした。

「あら、あら、あなた。しょうがないわね。あともうちょっとなのに。それじゃあ、私が撮ってあげますね」

 薫が三脚の横に立っていた。そしてカメラのレンズを動かし始めた。

「おい、おい。このカメラは、俺の目を通して撮らんといかん。俺以外こいつは使えん」

「そんなこと言っているから自分の写真が一枚もないのよ。私も写真家の妻を四十年もやってきたんだから任せなさい。私ね、ずっとこのカメラを使ってみたいと思っていたのよ。ずーっとよ。死んでからも本当に心残りだったんだから」

 そう言えばニコンのカメラだけは触らせてもくれないと、薫はいつも愚痴をこぼしていた。

「ほらそんなところで寝てないで、さっさとソファーの方に行きなさいよ」

 薫の声が徳次郎に力を与えたのか、苦もなく立ちあがることができた。そして、ソファーにゆっくり腰をかけた。

「部屋が暗いから露出の補正は…」

「いいから、いいから、ちゃんとセットしたから」

「ならいいが」

 心配そうな顔をしている徳次郎の横に薫も座った。

 カシャっとカメラが鳴った。

「もう一枚撮るわね」

 カメラをセットしている薫の背中に徳次郎は「実はさっき名刺を見た」と小さな声で言った。

「あら、とうとう見たの。というか今頃見るというのがあなたらしいわ。ずっとあそこにあるのにね」

「もうすぐ俺もそっちに行くから、今でなくてもいいが、もし、お前は天国で、俺は地獄だったら会えないし、薫、俺は名刺を見て…」

 徳次郎が言葉を選び選び話しているのを、とても楽しそうに見ながら徳次郎の横に座った。

「本当に感謝している」

 薫は徳次郎の腕を抱えそっと手を握った。

「まあ、あなたらしくもないこと言って」

「だから、俺ももうすぐお前のところに行くから」

「なに言っているの。私ね、今一人でゆっくりしているの。急に来られても迷惑だわ。あなたは、まだここでやることがあるでしょう」

「いや、俺は、やれることも、やりたいことも何もない」

「まあ、ひどい顔。あなたは自分では分かってないけど笑顔がうんと素敵なのよ。さっきの写真はその顔で写っちゃったのね。だめよ今度は。笑って」

「笑えと言って笑えるものか」

「本当に一人じゃ何もできないんだから」

 薫は徳次郎の脇をくすぐった。

「なんだお前、やめてくれ」

 徳次郎は笑いを堪えている。

「あなた、モノクロ写真をまたやってみたら。このカメラで撮った写真が、私一番素敵だと思う」

「えっ」

「ほら、笑って、笑って」

 薫が徳次郎の脇をまたくすぐる。徳次郎は声を出して笑った。

「そうそう。その笑顔が中学の時から好きだったのよ」

 カシャっとカメラが鳴った。

 徳次郎の意識がだんだん薄れていく。遠くから百合子の「お父さん、いるの」という声が聞こえた。やはり、自分はここで終わりなんだと思いつつ徳次郎は静かにソファーに倒れていった。

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