第4話 日記の男

「魔物。ボクたちは『ウロ』って呼んでいたんだけど、ウロは原初の生命を産んだ海に並々ならぬ執着心を抱いてる。ウロが海に集まっているのはそのせい。ウロはもともとは弱くて、前に進む力の結晶とも言える生命に近づけば逆に消え去ってしまうような存在だったんだ。でも、今はウロが力を増して生命を脅かすほどになってる。歌が広まった初期の頃は正気を失った人も多くいたでしょ? それは魔法による加護に耐えられなかっただけじゃなくて、ウロに憑りつかれたせいでもあるんだ。この星から全ての生命が消えた時、ウロを止められるものは無くなる。そしたら全てが終わっちゃう」

「ウィニーちゃんを復活させるとどうなるんだ?」

「ウィニーちゃんの魔法はこれまでの時間でじゅうぶん世界に浸透した。だから、ここでウィニーちゃんの自我を取り戻すことができればこの星全体を覆いつくす規模の超巨大魔法を発動できる。それによってウロに力を与えている虚空の隙間を塞ぐことができるんだ!」

 なるほど。細かいところは相変わらずどういうことなのかわからないものの、ウィニーちゃんは切り札である魔法『少女融解』は超巨大魔法を発動させるための準備でもあったということはわかった。この星全体を巡る水の流れに乗って加護を付与しながら、真の切り札の舞台を整える。改めて『少女融解』という魔法の規模の大きさには驚かされる。

 出発してから既に八時間は経過していた。このまま行けば夕方までには海に着けるだろう。ハトホーによればウロの数も増えてきていて、このまま濃くなっていけばいつか私たちにもウロが見えるようになるかもしれないらしい。それを証明しているのか、いつの間にか鳥の鳴き声が聞こえなくなっていた。

「不気味だな。真昼間なのに妙な寒気がするぞ」

「今はどのあたりなんだ?」

「地図の上だと、ここだな。もう例の組織が進出しているかもしれない地区には入っている」

「近くに治安維持軍の簡易基地は無いのか?」

「この辺りには無いな。少し離れている」

 街の景色に大きな変化は見られない。廃車がそこかしこに捨てられているし、使われなくなった電線が電柱の上でぶらぶら風に揺られている。ただ、永生の言う通り、ここは妙に肌寒くなっている。

 彼が周囲を警戒しながら進み、私はその後をついていく。すると、突然彼の様子が豹変して走り出した。私も慌てて後を追えば、彼が立ち止まった場所に人が倒れていた。腐っていないことから、その人物が比較的最近まで生きていたことがわかる。

「おい、生きてるか?」

 かけられた声に反応は無い。倒れている人物は荷物を背負ったままだ。肌に触れてみると、まだ温かかった。ハトホーがポケットから顔を出して、はっと息を飲んだ。

「ダメだよ。その人は、もうウロにやられてる」

 倒れている人物は壮年の男性であった。身体を起こすと目が虚ろになっており、涎をだらだら垂らしている。口では言葉になっていない音を繰り返していて、正気でないのは明らかだ。私が呆然としている間にも永生は冷静に男性の荷物を漁っていた。

「史人。海は思ったよりヤバいことになってるらしいぞ」

 ポイっと投げ渡されたのは日記だった。どうもこの日記は五冊目らしい。表紙に5の文字がでかでかとある。一番新しいページをめくり、ざっと内容を読み込む。




五月十七日 治安維持軍の奴らはまだあの港を張っているだろうか? もう崩壊していることも知らないで。奴らも港をいくつか持ってるなら知ってるはずなのに、バリケードの外で見張っていた兵士は随分悠長な感じだった。まさか知らされてないのか? それともここだけなのか? 最悪だ。俺は仲間を見捨てて逃げだした臆病者だ。くそ。せめて最後まで臨時政府には抵抗してやる。そのためにも前から交流のあったあそこに行こう。


五月十八日 足が震えている。眠れない。あの狂い方は歌の日の時と同じだ。いよいよ終わりってことか。三年? 四年? 今までよく耐えたものだ。たった数年で世界は様変わりした。俺は生き残ったが、英雄にはなれなかった。リーダーなんて柄じゃなかったし、勇気も何もない男だ。でも、役立たずにはならずにやってこれたと思う。よく生きてきたよ俺。


五月十九日 たびたび意識が飛ぶ。記憶もどうも変になっていて、日記を見返しても見覚えが無い名前がある。俺ももう終わりか。日記をつけているせいで症状が早くわかってしまった。記憶消失や突発的な気絶。どれもあの狂い方と同じ。ただ、なぜか俺は少しだけ安堵している。小学生の頃から生粋のメモ魔だった俺は、日記をずっと続けられていることが唯一の自慢だった。そのおかげで、記憶が消えようと俺の在り方は日記に全部残っている。


五月二十日 馬鹿みたいな話だが、自分の名前さえも俺は忘れてしまったらしい。俺には名前があったという記憶はあるのに、どんな名前であったのか思い出せない。日記を見返せば沢山の名前らしきものがある。でも、不思議なことにそれが名前であったのか確信が持てない。そして俺は今日の昼、一瞬だけ日記を読めなかった。なにか壁にあるひっかき傷みたいに、抽象的過ぎる落書きみたいに感じた。


五月二十いち? めがあけるとしらないまちでよこになったてた おしまいかちかいぽいぼくは みな ありがとござました さよなら




 急速に言語能力が退化したらしく、最後は漢字が一切使われていない幼児のような一文字一文字が雑に大きく書かれている文章となっていた。クエスチョンマークがついているということは、自分がいつ起きていつ寝たのかさえもあやふやになっていたからだろう。事実、今日は五月二十五日のはずである。正気を失ってからも暫くは動いていたようだ。

「一か月前から既に異変は始まってたようだな。症状は日記にある通り、この頭の中の歌が広まった日の人々の狂い方と同じだ。始めは何とか組織内部で狂った人間を正気に戻そうとしていたようだが、結局全員が狂っちまった、と。道理で静かだったわけだ。狂う前に自殺した者もいるらしい」

「先輩から海の異変については聞いてないのか?」

「先輩も知らなかったんだろ。もし気になることがあれば教えてくれたはずだ。臨時政府としても余計な混乱を避けるために情報を隠していたのかもな」

「ウロは海に集まっている。そのぶん内陸部よりもウロによる影響は強い。臨時政府のもとで港に暮らしている人々はわからないが、治安維持軍はたびたび部隊を動かすからウロの影響に晒される期間が短く済んでいる。それで見張りの兵士はまだ発狂していない、とかはどうだ?」

「それもあるだろうな。ただ、もしあの港が臨時政府の管理下だったとしても臨時政府は港にいた人々が狂ったことは隠しただろうな」

「ハトホー。ウィニーちゃんは海と同化したんだろう? それなら海には他よりもずっと強力な加護が付与されているんじゃないのか?」

「そうだけど、それは海中の生き物を守るためだよ。いくら海に近くても浜辺は陸地。魔法少女が同化した海ではないんだ。潜水艦で海中に暮らしていたならまだウロにやられてなかったかもしれないけど……」

「確かに、こんなことじゃあハトホーが海に近づけなくても無理は無いな」

「だが、ウロに侵食されても直ぐに狂うわけじゃない。私たちが正気を保てている間に走って海中に飛び込めばいける」

「いいな! 水着を持ってきてないのは残念だ」

「店を探してみるか?」

「何言ってんだ? 水着が無いなら裸でいいじゃんかよ」

「確かに」

「えー⁉ 裸⁉ 恥ずかしいよぅ!」

「なんだ。ハトホーが裸になることを恥ずかしがっている」

「破廉恥な妖精だな! ははは!」

「まぁ一応ハトホーは女の子らしいしな」

「えっ⁉ こいつメスだったのかよ⁉」

「女の子!! メス呼ばわりするな!!!」

「うわっ。何言ってんのかわかんないけどすげぇ怒ってる」

「メスじゃなくて女の子って言えと主張しているんだ」

「それは悪かった。ごめんな」

「わかればよろしい」


 正気を失ってしまった男性は、残念ながら私たちにはどうすることもできない。彼のことを近くの綺麗な状態で残っている建物の中で寝かせてから、海に向かった。彼の荷物からは缶詰や缶切りといった使えそうなものを貰い、ついでに彼の日記も持っていくことにした。彼の日記は彼の傍に置いておいた方がよかったのだろうか。彼は日記の中でその日記のことを『俺の在り方は全部残っている』ものと書いていた。だから、彼の墓を作らない代わりに私は彼が居た証を受け継ぐこそにしたのだ。それを彼が望んだのかはわからない。

 肌寒さは消えていた。あの男性が肌寒さの中心にいた。それはつまりウロにやられてしまった者の傍は気温が下がるということであり、これから海に近づけば肌寒さは強くなってくるだろう。

 少し頭が痛む。見れば永生も時折頭を気にしている素振りをする。私たちを取り囲むウロの量が増えていくにつれて、脳内で響き渡る歌はより強くなっている。そして、なんとなく応援してくれている気もする。

「急ぐぞ」

 もう港にいた組織を心配する必要も無くなった。小走りで先に進む。この先には何が待っているのだろう。私もさっきの男性のようになるのだろうか。帰ってこなくなった私の両親も、あのように狂ってしまったのか。不安がこみ上げると、余計なことを考えてしまう。世界を救うとかは、私には想像できない。胸ポケットに納まっている小さな存在の願いを叶えるために、私は海に向かっている。

 空がほんのり黄昏に染まりだした頃、遠くに海が見えた。なぜだか私の目に映る海は、蜃気楼のようにぼんやりとしていた。黒い海藻のようなものが海面で揺らめいている。あれが濃くなったウロだ。猛毒のガスのように、きっと触れればたちまち正気を奪われる。

「海があんなになってるなんてな」

「裸になるのは難しそうだぞ」

「それじゃ肌着で飛び込むか」

「あそこ。自転車屋だ。使える自転車があるかもしれない」

「じゃあ荷物はあそこに置いて自転車で突っ込む。どうだ?」

「賛成」

「ホントに? ホントにいいの? あとはボクに任せてもいいんだよ!」

「そんな小さな身体でどうする? 任せておけ」

「えぇっ。でも実はボクは小さくないし……」

 もごもご何かを言っているが、ハトホーは心配しなくていいのだ。私と永生がいればいける。そう信じてくれていればいい。

「これとこれ。空気を入れればいけそうだ」

「空気入れは……ここにあった。荷物はその角に纏めておくぞ。帰りの時に回収する」

「地図は?」

「持ってく。道は覚えているつもりだが、一応な」

「ハトホー。もうすぐ海だ」

「……うん」

 乗り心地を確認する。問題ない。目的地はもうそこだ。

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