百鬼夜行

 千年程昔の事、京都は人ではなく妖の都であった。

 人々は夜を恐れ、恐れは妖の力となり人を遥かに凌駕した力を持っていた。

 強大な力を持つ妖は人の力ではどうすることも出来ない「災い」と認識されていたが、陰陽師や鬼切者と呼ばれる、現代で言う妖狩りが現れた事により人は妖に対抗し始める。

 平安時代、再び妖の世を取り戻そうと決起した妖怪の集団「百鬼夜行」が京の都を襲った。

 百鬼夜行を迎え討つは、最強の陰陽師と名高い安倍晴明であった。

 見事百鬼夜行を退けた安倍晴明は、鬼切者と陰陽師をまとめた集団――祓堂を設立。

 この出来事が、妖狩屋の起源となり、日本各地に妖狩屋が設立されると共に妖の世から完全なる人の世へと移り変わっていった。

 紫雲の玉を酒呑童子が使用した事により起こった二度目の百鬼夜行は、最強の妖狩りであったキヨによって退けられた。

 そして、今宵。三度目の百鬼夜行が訪れた。

 安倍晴明はもちろん。かつて悪鬼羅刹と呼ばれていたキヨはもう年老いた。

 妖怪の総大将――ぬらりひょんが紫雲の玉を奪えば、再び妖の世となるだろう。

 紫雲の玉を狙う無数の魑魅魍魎共が京都の町へ迫る中、童切丸は目覚めない。


 キヨ商店の二階にある座敷、未だ目を覚まさない童切丸の傍らで、僕達は彼の目覚めを待つことしか出来ない。

「儂が童切丸に教えた技は、妖力の消耗が激しい。しばらくは目覚めないさね」

「そんな……だって、百鬼夜行が来るのは今夜なんですよね……」

「どうして平助が知っとるんじゃ?」

「あ、えーっと……土蜘蛛が言ってました」

「そうかい。土蜘蛛並みの大妖も参加するとなれば、今回の百鬼夜行。デカい戦になるねぇ」

 病人の横でも構わずキセルを吸うキヨさんは、心の無しか少し楽しそうな表情をしているように見えた。

「他所の妖狩屋に招集を掛けに行くよ。おはつ、ついておいで」

「はい! キヨ様!」

「留守は頼んだよ平助。もし妖が来たらコレを使いな」

 そう言って、キヨさんは袖から三枚のお札を取り出して僕に放り投げた。

「「ひぃっ!」」

 そのお札を見た瞬間、おはつさんとおつゆさんの二人が短い悲鳴を上げて僕から離れる。

「お札、ですか?」

 少し丈夫な厚みのある紙に、墨で模様のような文字が描かれているお札。

「大昔、知り合いの陰陽師から譲り受けた妖滅ノ札さね。妖力の少ない妖なら、その札に触れただけで消滅する。強力な妖でも足止めぐらい出来る代物さね」

「ありがとうございます!」

「へ、平助様! は、早くその札を仕舞って下さい! お、お肌がピリピリします」

 おはつさんに急かされたので、僕はキヨさんから貰ったお札をありがたく懐に納める。

「むぅー。そんな所に仕舞ったら、ウチが平助に抱き着けないー」

「どうしろってんだいおつゆさん! 今日ぐらいは我慢しておくれ!」

 渋々といった様子で、僕から少し離れてちょこんと正座するおつゆさん。

 これは、とても良いものを貰った。

 出来る事なら、一枚ぐらい温存しておきたいものだ。

「それと、コレもあんたが持ってな」

 そう言って、キヨさんが僕に手渡したのは紫雲の玉。

「えぇ! こんな大事な物、僕が持ってたらすぐ奪われちゃいますよ」

「かーっ! あんたも男だろ! なーに情けない事言ってるさね! 黙って受け取りな。死んでも取られるんじゃないよ」

「そんな……」

 キヨさんが、一体何故僕に紫雲の玉を託したのかは分からなかったが、キヨさんに睨まれたら受け取らざるを得ない。

 京都内にある、他の妖狩屋に百鬼夜行対策の招集を掛けに行ったキヨさん達二人を見送った後、キヨ商店に静寂が訪れる。

 相変わらず、眠り続ける童切丸の横で正座している僕。

 妖滅ノ札のご加護によって僕に引っ付けず、沈黙に耐えかねたおつゆさんが立ちあがる。

「平助、昨日の晩から何も食べて無いでしょ? ウチ、おにぎり握って来る」

「あ、ありがとう。おつゆさん」

 にっこりと笑って、下の階に降りていくおつゆさん。

 刃物を見せてきたり、粘着質な行動さえ無ければ、普通に可愛いんだよな。

 おつゆさんの背中を見送った僕は、意識を取り戻さない童切丸に話しかける。

「童切丸さん。貴方はいつも肝心な時に僕を心配させるような事しますよね」

「……でも、いつも最後には僕達の期待を裏切らないじゃないですか。今回もそうなんでしょう…………もう、十分ですから、早く目を覚まして下さいよ。童切丸さん……」

 童切丸の返事は無い。

 キヨさんはいつか目覚めると言っていたが、百鬼夜行など関係無く僕は童切丸が目覚めない事が不安でしょうがなかった。

 自分が何も出来ない事に憤りを感じながら、血が滲むほど拳を握りしめた。

 僕は妖狩りでも無ければ、医者でも無いのだ。

 妖怪と戦う事も出来なければ、兎々さんの治療をする事も、消耗しきった童切丸を目覚めさせる事も出来ないのだ。

 悔しい……こんなにも弱くて、無知な自分が悔しい。

「……ちくしょう……ちくしょう……」


 キヨさん達が出掛けたまま、童切丸が目覚めないまま、夜が訪れた。

 夜の訪れを告げたのは、無数の羽音だった。

 羽音が気になって窓から空を見ると、最初はカラスの群れかと思った黒い有象無象が徐々にこちらに近づいて来て、やがてそれが天狗の群れだと分かった。

 遂に、百鬼夜行が来たのだと一瞬で理解した。

 夜空を覆いつくす天狗の群れは月明かりを遮り、夜の闇が一層に深まる。

 ガス灯の明りで煌々と輝く京都の町を目掛けて、四方八方から無数の魑魅魍魎が押し寄せる。

 遂に、百鬼夜行が始まってしまったのだ。

 他の天狗達よりも巨大な体格を持つ天狗たちの長、鞍馬天狗が筆頭を飛び天狗の群れを率いている。

 鞍馬天狗は大勢の天狗達を背に、僕達人間へ宣戦布告をする。

「よく聞くが良い、愚かな人間共よ! 今宵は我々妖が貴様等人間に裁きを与える夜である! 貴様等が我々から奪った夜は、今宵を持って我々妖のものとなるのだ! 己が罪に懺悔しながら、逝ぬが良い!」

 京都中に響くような、人間離れした声量に圧倒された人間は、状況を飲み込むのに数秒の時間を要し、これより妖怪による殺戮が始まると理解出来た者から悲鳴を上げて逃げ出した。

 恐怖は伝播し、瞬く間に京都中が阿鼻叫喚の渦に包まれた。

 大地を揺らしながら押し寄せる妖と、逃げ惑う人間。

 戦局は圧倒的かと思えたが、突如現れた無数の龍が天に上り、カラス天狗達に火を放つ。

 動き出したのは、多くの陰陽師が在籍する日本最大手の妖狩屋「祓堂」だった。

 どうやら、他の妖狩屋はキヨさん達の言葉を信じてくれたようだ。

 青龍や朱雀といった式神が飛行する妖怪と交戦し、その他にも式神と思われる四足歩行の動物達が町の至る所で妖怪と攻防を繰り広げていた。

 火車が民家に火を放ち、風を操る妖怪が火の手を広げる。まるで、戦国時代にタイムスリップしたような悲惨な光景だった。

 キヨ商店の窓から、僕はただ見ている事しか出来ない。

 妖怪達の目的である紫雲の玉を託されてしまったのだから。

 今すぐ飛び出して、一人でも多くの人を妖怪の手から救いたい。しかし僕は窓を閉め、眠る童切丸を見ている事しか出来ない。

 歯がゆい気持ちをかみ殺していると、キヨ商店の戸を開ける音が聞こえて来た。

 僕の気持ちを察してか、または僕が持っている妖滅ノ札を怖がってか、一階に居たおつゆさんが対応するだろうと思い、耳を澄ましていると、

「――きゃぁ!」

 おつゆさんの短い悲鳴が一階から聞こえて来た瞬間、僕は座敷を飛び出して一階への階段を駆け下りた。

 階段の途中から見えた、来店者の正体に僕は言葉を失った。

 それは、座敷童の祈祷を妨害してきた、蒼鉄と宣教師の二人組だったのだ。

 会計処にもたれ掛かるように、意識を失っているおつゆさんを見た瞬間、僕は頭に血が上り理性を失った。

「お前達、一体おつゆさんに何をした?」

「なに、少し眠って貰っているだけだ。紫雲の玉を渡さなければ、話は別だがな。ここにあるのだろう?」

 鋭い眼光で僕を見る蒼鉄は、土蜘蛛のような大妖クラスの殺気を放つ。

 二階の座敷には、まだ童切丸が眠っている。当然、紫雲の玉をこいつらに渡すのもあり得ない。僕一人でこの二人を退けなければいけない……。

 僕は、袖に隠した妖滅ノ札を握りしめる。

「その顔思い出したぞ。東京では貴様に一杯食わされたのだったな。名を聞いておこうか」

「……平助だ」

「平助。貴様は紫雲の玉をどこに隠しているのか、知っているのでは無いか?」

「買い被らないで下さい。僕はキヨ商店の中でも一番の下っ端なんです。紫雲の玉なんて場所どころか、名前すら初めて聞きましたよ」

「そうか。では、童切丸に聞くとしよう。微かだが、奴の妖気を感じる。ここに居るのだろう? 出てこい童切丸!」

 二階に向かって呼び掛ける蒼鉄だが、当然昏睡状態の童切丸が返事をする訳も無い。

 もし、童切丸が戦闘可能な状態じゃない事が知られたら、間違いなく僕達全員殺される。

「まさか、この蒼鉄に臆したのではあるまいな? 返事ぐらいしたらどうだ!」

「童切丸さんは寝ているんです! 呼び掛けても起きませんよ」

「馬鹿を言うな。例え寝ていようと、童切丸がこの蒼鉄の妖力を感じていない訳があるまい。見てこい、黒布(こくふ)」

「私は貴方の部下では無いのですが……仕方ありませんね」

 黒布と呼ばれた宣教師の男は、その姿を一瞬のうちに黒い布に変えて僕の横を通り過ぎて二階へ上って行った。

 座敷童の時に、僕と童切丸がこの男を見失った理由が分かった。

 黒布はすぐに元の位置へ、さも元々そこに居たかのように立っていた。

「妖力の枯渇。どうやら、土蜘蛛との戦闘でかなりの妖力を消耗したのですね。しばらくは目覚めないでしょう」

「ふん、土蜘蛛の奴め。人の獲物を横取りするような真似をしよって。あまり姑息な手は使いたくないが、仕方ない」

 そう言って、蒼鉄は懐に差した禍々しい刀を抜いて意識を失っているおつゆさんへ向けた。

「平助と言ったな。あと半刻の内に紫雲の玉を見つけろ。出来なければ、この女を妖刀クグツの贄にする」

「やめろ? おつゆさんに傷一つ付けて見ろ、僕は貴様を滅する?」

 袖に隠した妖滅ノ札を見せるが、蒼鉄は臆するどころか笑みを浮かべた。

「無駄だ。妖滅ノ札など、この蒼鉄に効くものか。足止めにすらならん」

 蒼鉄の言葉がハッタリの類で無い事は、目を見れば分かった。

 切り札が通用しない相手に、僕が取れる手段は一つしか無かった。

 童切丸とおつゆさんの身を守る手段、それは――。

「紫雲の玉を渡せば、僕達の身の安全を保障してくれるんだな?」

「何を勘違いしている小僧? この蒼鉄、紫雲の玉など最初から興味は無い。目的はただ一つ、この手で童切丸を殺す事のみ」

「……そんな」

 崩れ落ちる体を支える様に、階段の手すりに捕まる僕に蒼鉄は続ける。

「紫雲の玉を渡せ。そして、童切丸に伝えろ、この蒼鉄から取り戻しに来いとな」

 睨みつける僕に蒼鉄は笑う。

「どうした小僧? 聞こえなかったか?」

 階段の手すりに捕まりながら、立ち上がった僕は蒼鉄とおつゆさんの間に立ち、懐から取り出した紫雲の玉を蒼鉄に渡した。

「童切丸さんが、必ずお前を倒す」

 蒼鉄は妖刀を鞘に納めると、紫雲の玉を受け取る。

「用事は済んだ。行くぞ黒布」

 踵を返して、堂々と店の入り口から出て行く蒼鉄と黒布を僕は黙って見送る事しか出来なかった。

 悔しさのあまり、会計処を殴りつけた鈍い音がキヨ商店の中に響いた。

 血が滲む拳の痛みと自分の非力さを悔やみ、僕は少しだけ泣いた。


 寝床で横になっていた人々は夜だと言うのに、やけに明るいと感じた時には既に遅く、火事の火の手と妖怪達がすぐ目前まで迫っていたのだ。

 逃げ惑う人々を襲う異形の魑魅魍魎達。その光景はさながら悪夢であり、正に地獄だった。

 そんな地獄の中で二人の子の引く母親が居た。

 どこに逃げたら良いのか分からないが、とりあえず逃げ惑うしか無い母子を見つけた妖怪が居た。

 両手が鋏になっており、青い皮膚に鳥類のような頭部をしている。かみきりと呼ばれる妖怪は、無防備な母子を見つけると、途端に奇声を上げて追いかける。

「ひぃいっ!」

 背後から妖怪の声が聞こえた母は、子を庇いながら走った。

 しかし、子を庇いながら走る親よりも足の速いかみきりは、あっという間に母子の前に立ち進路を塞ぐ。

 かみきりと言う妖怪は人間の髪を切るだけの妖怪だが、かみきりの声を聞きつけて他の妖怪もわらわらと集まり始める。気が付けば母子の四方八方は妖怪達に囲まれてしまう。

 助けを呼ぼうにも、恐怖のあまり声が出ない。

 もし仮に声で出て助けを叫んだとしても、一体この絶望的な状況を誰が助けると言うのだろうか。

「南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経。南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経。南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経」

 母は目を閉じ両手を合わせて、仏に救いを求める事しか出来なかった。

 母子が食えると歓喜に包まれる妖怪達の手が子に触れようとした瞬間、祈りは届いた。

 子に触れようとした妖怪が倒れ、急に倒れた事に他の妖怪達が訝しんでいると、今度は別の妖怪の首が切断され、頭部が宙を舞う。

 いつまでも妖怪達が襲ってこない事に疑問を思った母が目を開くと、そこに居たはずの無数の妖怪達が居なくなっていた。

「ひぃ!」

 地についた手に生温かい液体の感触を感じて、指先に真っ赤な血が付いていた事に母は短い悲鳴を上げる。

 消え去ったのではなく、血だまりと肉塊に変わっていた事に気付いた母は、自分達親子の前に庇うように立っていた老婆の存在に気付く。

 老婆の着ている赤い着物は返り血で赤黒く染まり、背丈の二倍はあるのでは無いかという程大きな薙刀を持っている。

「あの、貴方様がお救い下さったのですか?」

「かーっ! 小さいガキ連れてこんなとこに居るんじゃないよ! さっさと祓堂に行きな。そこなら妖怪共から匿ってくれるさね」

「あ、ありがとうございました!」

 何度も頭を下げて去っていく母子と入れ替わるように、後方からはつが走って来る。

 立ち寄った妖狩屋から借りた薙刀を持っているはつは、走りにくそうに何度も態勢を崩しながらキヨの元へ駆ける。

「キヨ様―! 待ってくださーい!」

「遅いよおはつ! 町中妖怪共がわらわら居るさね。儂から離れるんじゃないよ」

 キヨは飛び上がると、民家の屋根に上り周囲を見渡す。

 遠くの方では巨体の鬼が、複数の式神を握りつぶしている。

 魑魅魍魎達が燃え盛る街並みの中で、人を襲い家を焼く。

 並みの妖狩りでさえ、一体の妖怪を一人で狩るのは至難の業である。

 一体の妖怪に対し、四人以上で戦うのがセオリーなのだ。

 しかし、百鬼が押し寄せる混戦状態であれば、一体を四人で囲む事など不可能であり、人より自力が勝る妖怪を押しとどめる事は不可能だった。

 町中の至る所で妖狩りと妖怪達が戦闘を繰り広げている光景は、まさに戦であり地獄だった。

 妖狩りだけではなく、警察官達も加勢し妖怪に発砲して必死の抵抗を見せているが、百鬼夜行の進行は止まらない。

 その百鬼夜行の中心にいる妖怪の集団。

 強者の妖怪達の中心に、総大将ぬらりひょんが居る。

 この百鬼夜行を最も早く、死人を出さず収束させる為には総大将を討ち取る他無い。

 そう考えたキヨは、下に居るはつに告げる。

「儂は、ぬらりひょんを討つ。おはつは店に戻りな」

「いけませんキヨ様! 単身で敵の本陣に向かうなど、いくらキヨ様でも死んでしまいます!」

「おはつ、あんたいつから儂に口ごたえするようになったんだい?」

 凄むキヨに一瞬たじろぐおはつだが、引き下がる訳にはいかなかった。

 何故なら、はつはキヨが死を覚悟している事を悟っていたからだ。

 童切丸が眠っている今、キヨを止められるのは自分しか居ない。

 意を決して、はつは雇い主に逆らう。

「行かせません! 童切丸様が目覚めるまで待つべきです!」

「その間に、一体何人の人が死ぬと思ってるんだい!」

「それでもです? それでも、私は……キヨ様が危険に身を投じる事を見過ごせません」

 俯くはつにキヨは少し困った表情を見せる。

「おはつ、あんたは優しい子さね。安心しな、この老体で無理はしないよ。危険を感じたらすぐに身を引くよ。まだまだ、あんたらだけでキヨ商店を任せるわけにはいかないからね」

「……約束ですよ。必ず、必ず戻って来てください!」

「ああ、儂を信じな。おはつ、あんたは童切丸の様子でも見て来てやんな。平助もきっと儂らの事も心配しているだろう」

 そう言い残し、屋根から屋根へと飛び去って行くキヨを見送ったはつは、キヨ商店へと急いだ。


「父さんや母さん、小春は無事かな……」

 僕は弱い。

 誰も守れず、紫雲の玉も蒼鉄に奪われた。

「どうして、僕はここに居るんだろう」

 何も出来ないのに、という言葉は飲み込んで、そう呟く。

 自分の弱さから身を守るように、未だ意識を失っているおつゆさんの横に座って膝を抱えていると二階から襖を開ける音が聞こえた。

 まさか、童切丸が目覚めたのか?

 階段を下りる足音に慌てて袖で涙を拭っていると、

「なーに泣いてやがんだ。スケベエ」

 童切丸が会計処の上から寝ぼけた顔を覗かせた。

「う、うるさい! 童切丸さんが寝ている間に百鬼夜行が来たんですよ!」

「それで、なんでテメェは膝抱えて泣いてんだ?」

「……ついさっき、蒼鉄が来ました」

「なに?」

「それで、童切丸さんとおつゆさんを守る為に、蒼鉄に紫雲の玉を渡しました」

「馬鹿野郎?」

 膝を抱える僕の胸ぐらを掴み、無理やり立ち上がらせる童切丸は、右の拳を振り上げたまましばらく無言になり、そして振り上げた拳をゆっくりと下ろした。

「……ありがとよ。スケベエ」

 拳の一つや二つ覚悟していたのだが、童切丸は普段言わない感謝の言葉を口にするだけで、僕を解放した。

 それは、まるで弱者に対する扱いだった。

 コイツは弱いから、仕方ない。弱いなりの最善を尽くしたのだと、内心で己を納得させたのだと分かったから、腹が立った。

 本当は、二人を守る為なんて嘘だった。

 僕は蒼鉄が怖くて、自分の身を守る為に紫雲の玉を差し出したのだ。

 ただ、それを口に出す事はどうしても出来なくて、嘘を吐いた。

 二人が大切じゃない訳じゃないが、蒼鉄を前にして僕が一番に考えたのは己が身の安全だった。死にたくないという単純な願望だった。

 そんな思考を見透からされているような、童切丸の瞳が嫌いだ。

「あの野郎、この俺様を誘う為に馬鹿みてぇな妖気出してやがる。他の妖怪に奪われる前に蒼鉄を討つ」

「童切丸さん。僕も行きます」

「足手まといだってのが、分からねー訳じゃねぇだろ?」

「分かってる! 僕が死にそうなら捨て置いて下さい! 見捨てて下さい! 僕はプライドを……命よりも大事なものを蒼鉄に奪われたんです! それを取り返せないまま生きていくなら、歯向かって死んだ方が何倍もマシだ!」

 僕の目を見た童切丸は、少し驚いた顔をした後にニヤけた。

「それに、相手は二人です。蒼鉄に敵わなくても、宣教師の男の足止めぐらいなら出来ます!」

「そこまで言うならついて来い。死んだら墓ぐらい立ててやるから安心しな」

「縁起でもない事言うな!」

 このまま、おつゆさんを床に座らせておくのは忍びなかったので、おつゆさんを二階の座敷で寝かせた。

 童切丸が愛刀「童切丸」と火酒「桜火」を持って、キヨ商店を出ようとした時に息を切らしたおはつさんが帰って来た。

「はぁ……はぁ……童切丸様! お目覚めになられたのですね!」

「ああ、鬼婆はどうした?」

「お助け下さい童切丸様! キヨ様はお一人で敵陣営に向かわれてしまいました! 加勢に急がないとキヨ様が、キヨ様が!」

「――っ!」

 キヨさんの状況を聞いた童切丸は奥歯を食いしばり、何かを?み殺してキヨ商店を出る。

「行くぞスケベエ。俺様達は蒼鉄を討つ」

「童切丸様?」

「鬼婆よりも、紫雲の玉の方が優先するべきだろうが!」

 そんな事、微塵も思っていない事は童切丸の顔を見れば一目瞭然だった。

 今にも泣き出してしまいそうな顔で、叫ぶ童切丸に僕もおはつさんも、何も言う資格など無かった。

 本当は一刻も早くキヨさんの元へ行きたいはずなのに、童切丸はその感情を噛み殺して我慢した。

「時間がねぇ、行くぞ」

「は、はい!」

「お待ちください! 私も行きます!」

「何言ってやがる? 俺様達は今から殺し合いに行くんだぞ」

「危険は重々承知しています! しかし、キヨ様が危険な時に大人しく待っているだけなんて、私には出来ません!」

「ったく、どいつもこいつも……。自分の身は自分で守れ、いいな?」

「はい!」

 僕達三人は、挑発するように放つ妖力を頼りに蒼鉄の元へと向かった。


 蒼鉄が待ち構えていた場所は、キヨ商店からそう遠くはなかった。

 長い階段を上った先にあるその寺院は一つの大きな鳥居を構えており、鳥居をくぐった先の境内には黒色の砂利が敷き詰められた広大な敷地、鳥居から正方形の石畳が直線状に並べられており、その先に大きな寺院が構えている。

 寺院の辿り着く前の階段で、僕は肌をピリピリと刺激する感覚、強い妖気を感じた。

 掛ける様にして長い階段を上った先、寺院の前には二人の男が立っていた。

 言うまでも無く、蒼鉄と黒布だ。

 蒼鉄の右手には紫雲の玉が握られており、僕達が敷地内に入ると同時に放出していた妖気を止めた。

「存外早かったな。童切丸」

「この俺様の寝首を掻かねーで果し合いしようなんざ、味な真似してんじゃねーよ蒼鉄。悪いがこの後、用事があんだ。とっととテメェをぶった切って、その玉返して貰うぜ」

「っく、くくくっ! この蒼鉄、貴様をこの手で葬る時をどれだけ待ったか分からぬ! 貴様の母親が我が家族を皆殺しにしたあの日から、私の胸に燻り続ける復讐の炎は決して消える事は無く我が身を焦がし続けるのだ! 冥府から妻が、息子達が貴様を殺せと、仇を討てと囁き続けるのだ!」

「そりゃ、まぁ。随分と物騒な家族だな」

 復讐に燃える蒼鉄を前に童切丸は興味無さげに呟く。二人の温度差はまるで水と炎だ。

「余裕だな童切丸。しかし、この刀を見てもその余裕を保っていられるか?」

 蒼鉄が腰から抜いた刀は、黒い刀身から怨嗟にも似た禍々しいオーラを漂わせている。僕がキヨ商店で見たあの刀だった。

「これは妖刀クグツ。妖の血を吸う程強くなり、血に含まれる妖力に応じて使い手の力が増す最強の刀だ。貴様程の男だ、語らずともこの刀の恐ろしさは理解出来るであろうがな」

 この二人が金の為に座敷童の血を欲していたのに疑問を持っていたが、やはり金の為では無かったらしい。

「ああ、ヤバい雰囲気がピリピリ伝わって来るぜ。刀の……だけだがな」

「ぼざけぇ?」

 砂利を蹴り、加速した蒼鉄は一直線に童切丸へ肉薄した。

 童切丸は腰から刀を抜き、蒼鉄の振り下ろした妖刀を弾き甲高い金属音が境内に響き渡る。

 刀と刀が打ち合う妖力の余波の様なもので、僕は思わず態勢を崩す。

 これが、本当に切り合いなのか……?

 周囲に衝撃を撒き散らしながら戦う二人は、武士の行う切り合いの常識からは逸脱していた。

「さて、では私共も殺し合いを始めましょうか。と言っても、一方的な殺害になるでしょうが」

「平助様は下がっていて下さい! ここは私が!」

「何を言ってるんだ、おはつさん! 男が女の子の後ろに隠れられる訳ないじゃ無いか」

「平助様こそ何を言っているのですか! 男女の前に平助様は人間です! 人間が素手で妖怪と戦うなど、正気ではありません!」

 どうやら、おはつさんの中で人間の僕は雑魚的扱いらしい。

 キヨ商店に入ってから、一応筋トレやランニングをして鍛えているのだけれど、きっとそれが大した意味を成さない事は分かっている。人間と妖怪には根本的な力に差があるのだ。

 だけど、僕は黒布に負ける気がしなかった。

「大丈夫ですよ、おはつさん。おはつさんには指一本触れさせませんから」

「危険過ぎます!」

 止めるおはつさんの声を無視して、僕は前に歩み出る。

「もし、僕が黒布に勝ったら、膝枕してくれますか?」

「急にどうされたのですか? 恐怖のあまり、頭がおかしくなってしまわれたのですか!」

「あれ? 童切丸から聞いていないんですか? 僕はスケベエなんですよ」

「えぇ……」

 これで、死ねなくなった。

 もし、今ここで黒布に殺されたら僕の最後の言葉が「膝枕してくれますか?」になってしまうからだ。

 拳を握り、素人丸出しの構えで黒布に対峙する。

「さぁ、掛かってこい黒布!」

「お言葉に甘えて」

 黒布は一瞬にして姿を消した。

 いや、姿を変えたのだ。境内を囲むように立つ灯篭のみが照らす、仄暗い闇夜に溶け込むような漆黒の布へと。

 黒布を見失った僕は、周囲を見渡すが見つけられない。

 すると、蛇のような動きで足元から僕の体を這うように高速で上った黒布は、意識を失ってしまうような強さで僕の首を絞めた。

「――ぐっ!」

「さぁ、死になさい」

 僕を縊り殺す為、締め上げる力が徐々に強まる。

 急に喉を閉められたことにより酸素が脳へと行かずに意識を失いかけるが、僕は必死の抵抗で首に巻き付く黒布を掴んだ。

「ぎゃぁああああああああ?」

 全身を駆け巡る激痛から、僕を解放した黒布は離れた場所で再び人の姿へと戻った。

「き、貴様! 一体何を!」

「かはっ……はぁ……はぁ……」

 僕は解放された喉を擦りながら、両手の平に隠していた妖滅ノ札を見せる。

「やっぱり、僕の予想は間違ってなかった。蒼鉄には効かないだろうけど、お前には効くんだろう。お前の正体が一反木綿だって事は、さっきキヨ商店で姿を変えたのを見た時に気付いていた。僕の首を閉めなければ僕は殺せない。今度僕の首を絞めに来たら、僕は絶対にお前を離さない?」

「ぐぎぎ、たかだか妖滅ノ札如きで勝ったつもりか。片腹痛いですね!」

 再び、布に姿を変えた黒布は闇に紛れる。

「そう言うのなら、隠れてないで出てきたらどうだ! お前は僕が怖いから隠れているんだろ」

 僕の挑発に返事は無く、姿だけではなく気配すら消してしまう黒布。

 少し離れた所から、童切丸と蒼鉄の打ち合う金属音のみが響く。

 夜風が悪戯に僕の毛先を揺らした瞬間、見えない何かに両足を持ち上げられた僕は勢いよく後頭部を砂利に強打し、後頭部を手で庇いながら激痛にのたうち回る。

 頭をぶつけたのが砂利で良かった。もし石畳にぶつけていたら確実に頭が割れていただろう。

 正直、一反木綿と呼ばれている妖怪の恐ろしさを分かっていなかった。

 暗闇に紛れ、一方的に四肢の自由を奪ってくるこの恐怖に、僕は絶望した。勝ち筋が見えないのだ。


 平助が黒布と戦っている間、童切丸は蒼鉄に予想外の苦戦を強いられていた。

 苦戦の理由は、蒼鉄の卓越した剣術もあるが、妖刀クグツの使う摩訶不思議な術。

「妖刀術――火車(かしゃ)」

 蒼鉄が下段から切り上げた妖刀クグツはその刀身に豪火を纏い、童切丸を襲う。

「その刀、火も出せんのかよ! めちゃくちゃだなおい!」

 豪火に身を焦がされぬように、咄嗟に背後に飛び退く童切丸。

「妖刀クグツは吸収した妖怪の力が行使出来る! こんな事も出来るぞ。妖刀術――雪女(ゆきおんな)」

 妖刀クグツを砂利に突き刺すと、刀身から白い霜が童切丸に向かって伸びていく。そして、童切丸の下駄に辿り着くと霜は氷となり、下駄の下から徐々に凍らせる。

 このままでは自分の足も凍ってしまい、動けなくなると判断した童切丸は咄嗟に下駄を脱ぐ。

「テメェ、一体何人の妖怪殺してんだ?」

「さぁな? 五十を超えてからは数えていない」

「並みの妖狩りより殺してんじゃねぇよ!」

「全ては貴様を殺すためだ童切丸? 貴様を殺すためならこの手をいくらでも血で汚す?」

「蒼鉄、今テメェが俺様に向けてる刀。そうやって、殺した妖怪達がテメェに向けてるのに気づいてねぇのか?」

 低い声を放つ童切丸に蒼鉄は顔を顰める。

「一体何を言っている? あの程度の低級妖怪達がこの蒼鉄に牙を向いたところで、返り討ちにしてくれるわ!」

「そうか、気付いてねぇのか。じゃあ教えてやるぜ」

 下駄を凍らされた事によって、裸足で砂利を蹴る童切丸は蒼鉄に肉薄し刀を振り下ろした。

 童切丸の攻撃を難なく受け止めた蒼鉄と、鍔迫り合いの形になる。

 腕力で勝っている童切丸に圧され、妖刀クグツが徐々に蒼鉄の首筋に迫る。

「っく、やはり力では敵わぬか……」

「バーカ、テメェの刀よく見てみろ」

「……なに?」

 妖刀クグツを見た蒼鉄は目を見開いて驚いた。何故なら、妖刀クグツの刃が童切丸では無く蒼鉄に向いていたからだ。

「俺様の刀と打ち合う瞬間、その刀はテメェに刃を向けてたんだ。きっと、俺様の刀とぶつかった反動で、あわよくば殺せないかと思ってたんだろ」

「何を馬鹿な事を! 持ち主に逆らう刀などあってたまるか!」

「その刀は意思を持ってる。持ち主だからこそ、薄々分かってんじゃねぇのか? そんでもって、妖刀クグツからしてみれば、今はテメェを切る絶好の好機って訳だ」

 いくら童切丸の方が腕力が強いと言っても、ここまで蒼鉄が鍔迫り合いで押し戻される理由があった。それは、妖刀クグツ自身が意思を持って蒼鉄を切ろうとしていたのだ。

「今まで葬ってきた妖怪達の怨念、その身で受けるんだな」

 力を強め、童切丸は妖刀クグツで蒼鉄の左肩を深々と切り付けた。

「ぐぁああああああああ? っく、くくくっ!」

「……なに笑ってんだ? 気色悪りぃ」

 左肩から大量の血を流した蒼鉄は、俯きながら不穏な笑い声を上げる。

「今まで、試していない事があった。それは、この妖刀クグツに俺の血を飲ませる事だ。もしそんな事をすれば、きっとこの俺にも制御出来ない程に強力な妖刀になってしまうからな」

 蒼鉄の血を吸った妖刀クグツから、悍ましい黒色の霧のようなものが漂う。

「俺は、誓ったのだ……。父である蒼弦(そうげん)を超える武人になると誓ったのだ? 童切丸。仇無き今、子である貴様を殺して俺は父を超えた事を証明する?」

「ごちゃごちゃ言ってねぇで、掛かって来いよ蒼鉄」

「引導を渡してやろう、童切丸?」

 今までのとは比較にならない速度で迫る蒼鉄に、なんとか反応した童切丸は必死でその刀を捌いた


 後頭部を強打し、一瞬意識を失いかけた僕は一反木綿の恐ろしさに絶望していた。

 だけど、もう僕は何にも負ける訳にはいかない。

 僕が負ける時は、命を落とす時で無ければいけないのだ。

 砂利の上で芋虫のように蹲り、僕は必死に思考を巡らせる。

 このまま蹲っていれば、足をすくわれる事は無い。しかし、それは僕が無力化されたのと一緒であり、一反木綿が人型に戻れば一方的に殴り、蹴られるだけだろう。

 両手の平に張り付いている妖滅ノ札を剥がした僕は、それを両足首にそれぞれ結び付けた。

 人間を完全に転倒させる為には、極力低い位置から持ち上げる必要があるからだ。

 例えば仮に一反木綿が膝やふくらはぎをすくって来たとしても、転びはするだろうが先ほどのような後頭部を強打するような転び方はしないはずだ。

 妖滅ノ札を両足首に結び付けた僕は、膝に手をつきながら立ち上がる。

「おや、さっきまでの威勢はどうしたのですか?」

 夜の闇から、一反木綿の嫌らしい声が聞こえる。

「……認めるよ。僕はお前が怖い、黒布」

「今更命乞いですか。この私をあれだけコケにしたのですから、絶対に殺しますけどねぇ?」

 まるで疾風のように、僕の体の周囲をぐるぐると回る黒布は足首ではなく首に巻き付いた。

「私は夜目が効くんですよ。先程貴方が妖滅ノ札を足首に括りつけていたのは、丸見えでしたよぉ! さぁ、今度こそ死になさい!」

 首の骨が折れてしまいそうな、先程とは比較にならない強さで、確実に僕の息の音を止めようとしてくる黒布。

 意識が飛ばないように、奥歯を強く?み締めた僕は袖に隠していたもう一枚の妖滅ノ札を取り出し、決して取れないように黒布の体に結んだ。

「貴様、一体何枚の妖滅ノ札を持ってるんだぁ?」

 激痛に暴れ回る黒布は咄嗟に首の拘束を解き、逃げようとするが僕は妖滅ノ札が離れないように固結びにする。

「言っただろ? 今度は絶対に離さない? 離すものか?」

「クソガキがぁ? 解け、解け解け解け解け解けぁあああああああああ?」

 絶叫しながら、砂利の上で水揚げされた魚のようにジタバタと暴れる黒布は、やがて力尽きて動かなくなった。

「おはつさん、薙刀を貸して貰えますか?」

「平助様、まさかその手を汚されるおつもりですか?」

「黒布は栄作さんが亡くなる要因でした。生かしておけば、きっと、また人に危害を加えるでしょう」

 薙刀を寄越すように右手を差し出すが、おはつさんは両手で薙刀を抱えたまま、決して渡してくれない。

「ですが、一度手を汚してしまえば……取り返しがつきません。私の手なら、もう既に汚れていますから始末は私にお任せ下さい」

 僕はおはつさんの優しさに感謝した。

「おはつさんは、優しいですね。ありがとうございます。でも、これは僕はやらなければいけないんです。僕はここに来るまでに命を奪われる覚悟も奪う覚悟も決めてきました。だから、僕は大丈夫です」

「平助様……」

 おはつさんは、悩み顔のまま抱えていた薙刀を少し解放した。

 僕はそれを奪うように貰うと、砂利の上で意識を失っている黒布に突き刺した。

 最後は、絶叫すら無くとても静かに息絶えた黒布は少しの間、布で出来た体を硬直させた後に、ぐったりと緩んだ。緩んだ拍子に妖滅ノ札が解けた。

 僕は初めて妖怪の命を奪った感覚に、実感が湧かなかったが、手に残る黒布を貫く感触はしばらく消えそうに無い。


 黒布の妖力が消えた事を察したのか、少し離れた場所で戦う蒼鉄がこちらを見た。

「なに、黒布が人間の小僧に負けただと?」

「はっ! スケベエを見くびんじゃねぇ蒼鉄。あいつはやる時はやる男だぜ」

「ぬかせ! 茶番はここまでだ。次の一太刀で勝負を決める」

「いいぜ。俺様もいい加減、テメェの相手は飽きて来たところだ」

 童切丸と蒼鉄、互いに向き合い刀を構える。

 妖刀クグツを真正面に構える蒼鉄に対して、童切丸は名刀童切丸を目線の高さ水平に構える。

 境内は世界中の時が止まってしまったかのような、木の葉さえ落ちる事の許されない静寂に包まれる。

 緩やかな夜風が境内を囲む木々の葉を揺らした時、

「妖刀術――鎌鼬(かまいたち)」

「斬鬼流壱ノ型――討鬼一閃」

 両者が放つ高速の剣技が闇夜に火花を散らし、刀と刀がぶつかり合う甲高い音を響かせ、一瞬のうちに立ち位置が入れ替わり、互いに背中合わせになる。

 左肩から血を流す蒼鉄が不利かと思えたが、膝をついたのは童切丸だった。

「――っく、さっきまでと力も速さも段違いじゃねぇか」

 酒瓶を持っていた左腕から、血を流す童切丸。

「どうした童切丸? 貴様の力はこの程度では無いだろう! あの土蜘蛛を退けた力を見せてみろ!」

「ったく、テメェは俺様のストーカーかよ。兎々といい、人気者は辛いぜ。出来れば、総大将まで温存しときたかったんだけどな……」

 そう言って童切丸は「桜火」の線を抜き、少量を口に含んだ。

 そして、火打石のように歯軋りで火花を散らした。火の粉は脈打つ童切丸の心臓に引火し、心臓は小さな衝撃を放つと共に熱燃料となり、沸騰した血液を全身へ送る。

 酒瓶を地面に置いた童切丸は、赤く光った眼光で蒼鉄を静かに見据える。

「蒼鉄、テメェは俺様の本気が見たかったんだよな?」

「その通りだ。そして、全力の貴様をこの蒼鉄が討つ?」

「いいぜ。お望み通り見せてやる……」

 蒼鉄に別れを告げると同時に消失した童切丸の姿は、いつの間にか蒼鉄の眼前にあった。

「――ッ! 妖刀術――座敷」

「じゃあな、蒼鉄」

 童切丸の一刀を受けた蒼鉄の二つに分かれた体が、音を立てて砂利の上に落ちる。

「斬鬼流奥義――鬼ノ太刀(おにのたち)」

 ただ、切っただけ。

 それなのに、僕は目の前で起きた光景が理解出来なかった。

 童切丸は蒼鉄の前で剥き身の刀を持っていただけで、構えていなかった。

 構えていない状態から、悠長に蒼鉄の前で刀身を天に向けて構えたかと思えば、そのまま蒼鉄の左肩から右腰までを一直線に切ったのだ。

 そう、ただ切っただけ。特に童切丸の動きが速かったのは、眼前に迫るまでだ。

 蒼鉄程の武人ともなれば、相手が目の前で悠長に構えていたら即座に反撃するはずだ。しかし、それが間に合わなかった。何故と僕に聞かれても理由は分からない。

 しかし、僕は蒼鉄の反撃がかなり遅れた事、途中までまるで時が止まってしまったかのように不動を貫いた事に、なんら疑問を抱かなかったのだ。

 ああ、仕方ないよな。という感想が真っ先に浮かんだだけである。

 どうやら、僕が奥義だと思っていたものは奥義の前段階だったらしく、本当の奥義は認識していても、回避出来ない。とても奇妙な感覚と共に放たれる必殺の一刀。

「…………な、に……を……」

 驚異的な生命力で、上半身だけになった蒼鉄は霞んだ瞳で童切丸を見上げる。

「蒼鉄、テメェまだ喋れるのか」

「…………な……にを…………し、た?」

「何もしてねぇよ。ただ、テメェは俺様に負けたんだ」

「…………そう、か……。っく、くくくっ」

「何笑ってやがんだ…………気持ち悪りぃ奴だな」

 乾いた笑いを最後に、蒼鉄は息を引き取った。

 それ以上、童切丸は何も言う事は無く紫雲の玉を回収した。


 百鬼夜行の襲来を受けた京都の町中は、人の姿をあまり見かけなくなった。

 というのも、既に大半の人が祓堂に避難していたのだ。

 妖狩屋の国内最大手である祓堂は巨大な寺院であり、その敷地は京都中の人々の避難を受け入れられる程に広大だ。

 逃げ込んだ人々は、寺院の周囲に張られた強力な結界によって守られており、キヨさんの元に駆けつけている僕達はその光景に少し安堵した。

 祓堂の周囲にはなんとか結界を破れないものかと、妖怪や妖達が囲んでいる。

 急に、闇夜の空が明るくなった。

 思わず空を見上げると、天空には巨大な火の鳥が甲高い鳴き声を上げていた。

「なんだ、あれ……?」

「あれは鳳凰の式神だ」

 疑問の声に、童切丸が教えてくれた。

「鳳凰? 鳳凰って誰ですか?」

「祓堂の店主様ですよ」

 土蜘蛛の一件や、今までの祓堂の悪評を聞いていたので祓堂は知名度だけの妖狩屋だと思っていたが、天空から灼熱を降らし、大量の魑魅魍魎を焼き尽くす式神を目の当たりにして考えが変わった。

 流石、日本一の妖狩屋と謳われるだけある。

「鳳凰のおっさんがいるなら、あそこは大丈夫だろ。早く鬼婆の元に行くぞ」

「童切丸さん達は先に行って下さい! 僕の足の速さに合わせてたら、到着が遅れます」

「そうだな。だが、まだ其処ら辺に妖が居るかもしれねぇ。おはつ、スケベエについてやってくれねぇか?」

「分かりました。童切丸様……どうか、キヨ様をお願いします」

「言われるまでもねーよ。鬼婆は俺様に任せとけ」

 そう言い残すと、飛び上がった童切丸は疾風の如く瓦屋根の上を掛けて行った。

「平助様、私達も行きましょう」

「はい!」

 僕とおはつさんは、妖怪や妖との偶発的な遭遇に身構えながら百鬼夜行の中心人物、妖怪の総大将ぬらりひょんの元へ向かう。


 百鬼夜行の中核、きっとそこには大量の妖怪が待ち構えていて、突破は困難を極めるだろうと思っていたが、僕達が最初に感じたのは無数の妖気では無く鼻を刺すような血の臭いだった。

 まだ少し離れているにも関わらず、強烈な臭いに思わず涙目になる。

 そして、細道から抜けた大通りに出た時、最初に目の当たりにした光景に僕は言葉を失った。

 それは、骸の山だった。人では無く、全て異形の怪異達。

 近くに妖狩り達の姿は無く、山を築く程の妖怪を葬ったのは、キヨさんに違いない。

 しかし、肝心なキヨさんの姿も、生きている妖怪の姿も見えない。

 先に行ったはずの童切丸は、一体どこに居るのだろうか?

「おはつさん。本当にここにキヨさんが居るんですか?」

「それは、分かりません。しかし、この奥に大量の妖気を感じます」

 妖怪達の遺体に所々遮られる視界。霧のように充満する死の臭いに口元を抑えながら、僕達は警戒しつつ、まだ壊されていないガス灯のみが照らす仄暗い大通りを進む。

「ぁぁぁあああああああああああああああ?」

 大通りの先から聞こえてきた、咆哮のような声が童切丸によるものだと気付いた僕達は駆け出した。

 大通りの先には、無数の妖怪達を前に日本刀を振るう童切丸の姿があった。

「邪魔だ? 退けってんだよ雑魚共?」

「粋がるなよ半妖!」

 大入道がその巨大な右手で童切丸を叩き潰そうとするが、童切丸に触れるよりも先に大入道は幾つにも切断され肉塊になった。

 空からカラス天狗達が手に持った槍で童切丸を狙うが、斬鬼流弐ノ型――影鬼断絶によって放たれた斬撃によって一匹残らず切断された。

 四方八方から妖怪達が童切丸に襲い掛かるが、次の瞬間にはその全てが童切丸によって切断された。

 日本刀一本で、視界に入った妖怪達を殺戮し続けるその姿は、正しく鬼神のようだった。

 童切丸に勝てないと判断したのか、遂に妖怪達は童切丸を恐れて一定の距離を取るようになった。

 大量の妖怪達との大立ち回りに流石の童切丸も疲弊したのか、童切丸を地面に突き刺し息を整える。

 すると、妖怪達が道を開き、そこから一人の老人が姿を現した。

「随分と遅かったのぉ、童切丸」

 一見ただの老人だが、特徴的な肥大化した頭部からその正体がぬらりひょんだと分かった。

 妖怪達の総大将と呼ばれるぬらりひょん。

 その実力は別格であり、キヨさんは僕達が蒼鉄と死闘を繰り広げている間にたった一人で百鬼夜行のほぼ全てを相手にして戦っていたのだ。

「おい、ぬらりひょんのジジイ。鬼婆はどこだ?」

「……死んださ。当然じゃがな」

「馬鹿言ってんじゃねぇ? 鬼婆がテメェらみたいな雑魚連中に負ける訳ねぇだろうが?」

「…………これを見ても、信じられぬか?」

 百鬼の中から、巨体の鬼が両手に乗せたキヨさんをゆっくりと地面へ下ろした。

 その顔は安らかに眠っているようにしか見えないが、頭部からの出血で出来たであろう大量の血痕が顔と衣服にも残っており、戦いの末に無くなった事が理解出来た。

 宿敵である、妖狩りの遺体だと言うのに周囲の妖怪達もキヨさんの亡骸を前に鎮まる。

 キヨさんの遺体を前に、おはつさんが堪え切れなくなったように泣き崩れる。

「約束したのに……。無事に戻るって、約束したじゃないですか……キヨ様……」

 童切丸は、日本刀から手を放し、呆然とした足取りでキヨさんに歩み寄る。

「おい、鬼婆…………何、死んでんだよ。約束しただろうが、俺様が守ってやるって、約束しただろうが?」

 キヨさんが亡くなった。その現実が受け入れられなくて、ただ立ち尽くしていた僕もおはつさんや童切丸を見て、現実を突きつけられる。

 無意識に流れる涙に視界が歪んだ。

「キヨは、儂ら妖怪の敵であったが、友でもあった。どうか、丁重に弔って欲しい……」

 そう言って、頭を下げるぬらりひょんを始め、まるで黙祷を捧げるように沈黙する妖怪達。

 どの面下げて、そんな台詞が言えるのかと、僕は思った。

 しかし、キヨさんを始め妖狩り達も相当数の妖を殺しているのだ。

 どうして、こんな事になってるんだ。

 何が正しいのか、僕には分からず返す言葉も見つからない。

 そんな沈黙を破ったのは、童切丸だった。

「…………許さねぇ」

「童切丸さん?」

「テメェら、皆殺しだ? 一匹残らずぶっ殺す?」

 キヨさんの死を目の当たりにし、激昂した童切丸は「桜火」の栓を抜いた。

「やめろ、童切丸?」

 僕の静止も聞かず、童切丸は「桜火」の栓を抜くと一気に飲み干した。

「ガァアアアアアアアアアアアアッ?」

 今までとは比較にならない程の鼓動、血の沸騰、灼熱のような妖気。その全てが童切丸の全身を駆け巡り、童切丸の自我を完膚なきまでに破壊した。

 涙の咆哮を上げた童切丸は、地面から引き抜いた童切丸でぬらりひょんに切り掛かった。

 しかし、ぬらりひょんはまるで実体を持たないかのように、すり抜けるのみだった。

 空振りに終わるかと思った攻撃だったが、童切丸は止まらなかった。

 続けざまにぬらりひょんの背後に居た妖怪に切り掛かり、目につく者全てに刀を振り下ろした、突き刺し、叩き切った。

 狂乱する童切丸を止めようと、妖怪達が一斉に飛び掛かるが、無謀だった。

 この状態の童切丸を止められる者など、居る訳が無かったのだ。

 ただ、一人を除いて――。

「よさんか馬鹿者? 儂らは互いに譲れぬものがあったから刀を交えたに過ぎぬ? これ以上死者を増やす事に何の意味がある?」

 魑魅魍魎を切り伏せ続ける童切丸の連撃を止めたのは、他でも無いぬらりひょんだった。

 懐に隠していた刀で童切丸の攻撃を受け止めるその姿は、流石と言わざるを得ない。

「殺す? 殺す殺す殺す?」

 もう、それは攻撃では無かった。

 怒りに任せて振うその刃は、大通りに地割れのような巨大な亀裂を幾つも作る。

「落ち着け小僧? 一旦頭を冷やさんか!」

 童切丸の攻撃を軽やかな身のこなしで回避したぬらりひょんは、童切丸の後頭部に蹴りを食らわせた。

 ご老体とは思えない威力の蹴りを受けた童切丸は、民家に衝突し強制的に静止させられた。

 民家が崩れ、瓦礫の中に埋もれる童切丸は正気を取り戻した。

「少しは落ち着いたかの。紫雲の玉を儂に渡せ童切丸。それさえ手に入れれば、儂らは引き上げる。これ以上の殺し合いは不要じゃろうて」

 瓦礫の中に居る童切丸に呼びかける、ぬらりひょん。

 童切丸は、その声に応えない。

「……こんな、玉のせいで。こんな玉のせいで、こんな玉の為に、婆ちゃんは死んだってのかよ……っ!」

 泣きながら震える童切丸を見て、ヤバいと思った時には、もう遅かったのかもしれない。

 静止の声すら上げる間も無く、酔っ払いは紫雲の玉を地面に叩きつけて、割った。

 そう、現在の童切丸は大量の「桜火」を飲んだ事によって酔っぱらっていたのだ。

 脳が麻痺している状態。正常な判断が出来ない状態。

 この騒動の発端となる程、妖怪達にとって貴重な秘宝――紫雲の玉をそんな人間に、絶対渡してはいけない代物だった。

 ガラス玉が割れる音が響き渡り、周囲の妖怪達が絶句する。

 あり得ない光景に誰一人動けない。総大将と言えど例外なく理解が追い付かなかった。

 何でそんな事するの? なんて疑問は意味の無いものだった。

 何故なら、正常な判断が出来ない酔っ払いなのだから。

 割れたガラス玉から溢れた紫色の煙は使用者の元へ向かい、即ち童切丸の鼻の中へと入って行った。

 煙を吸った途端、意識を失い倒れる童切丸。

 それが、紫雲の玉を使った副作用なのか、急性アルコール中毒なのかは僕には分からない。


 ――数秒の静寂の後、神が誕生した。


 赤髪混じりだった頭髪は赤一色になり、腰当たりまで伸びている。

 体格も以前の童切丸に比べて、一回り逞しくなったように見える。

 まるで、童切丸は別人のようだった。

 新たな神の誕生を祝うかのように、荒れ狂う天候は稲光を轟かせ、大雨を降らせた。

 意識を失ったかと思えば、むくり、と立ち上がった童切丸は右手で自らの頭を抱えながら、ゆっくりと立ち上がった。

「……いつつ、あれ? 俺様一体何してたんだ?」

 朦朧とする視界で、周囲を見渡すと人も妖も皆一様に自分を見ている現実に、疑問を隠せない童切丸。

「おーいスケベエ、こりゃ一体どういう状況だ」

 何故今僕に振る? 僕は一体何を言えばいいんだ? とりあえず、お前を殴れば良いのか?

 童切丸が声を上げた事を皮切りに、妖怪達が一斉にざわめきだす。

「ヤバいヤバいヤバい」

「え、どうなるの? これどうなるの?」

「あいつ敵だよな? 敵が使うとかありかよ」

「つーか、なんで割ったの? あいつ何で今割ったの?」

「終わりだ……もう、めちゃくちゃだ……」

「皆の者、鎮まれ?」

 総大将の一声で、ざわめきがピタリと止まる。

「えー、これは……儂も想定外じゃった。紫雲の玉が無き今、もう我らにはどうする事も出来ん。撤退じゃぁーーーっ?」

 その言葉を皮切りに、一斉に妖怪達が京都の町から逃げ出す。

 状況を飲み込めないでいる童切丸は周囲を見渡し、見てしまう。

 キヨさんの御遺体を……。

「逃がす訳ねぇだろうが?」

「おい、やめんか馬鹿者? もう貴様には付き合っとれんわい?」

 唐突に切り掛かる童切丸。

 その神速の一撃を紙一重で躱すぬらりひょんだが、童切丸の刃は天を裂き、地を砕いた。

 その一撃は、正しく鬼神の一撃。

 ぬらりひょんで無ければ、一瞬で塵になっていただろう。

「ちっ、すばしっこい爺さんだぜ。これならどうだ!」

 回避したばかりのぬらりひょんの前に、音も無く姿を現す童切丸。

「斬鬼流奥義――鬼ノ太刀」

「やめろ? 童切丸?」

 僕の静止など、一度も聞いた試しが無い童切丸。

 童切丸の使える最強にして、必殺の一撃を放ってしまった。

「紫雲の玉を使ったとはいえ、童に儂は捉えられんよ。あの悪鬼羅刹でさえ、遂には捉えられなかったのだからな」

 ぬらりひょんの右肩を捉えた刃は宙を切り、ぬらりひょんはその体を霞に変えて姿を消してしまった。

「覚えておけ童切丸。紫雲の代償は必ずやって来る。その時を覚悟しておれ――」

 総大将を逃がしてしまった童切丸は悔しさのあまり、地面に拳を叩きつけた。

 そして、逃走する妖怪達を前に勝敗は決したかと思ったが、

「一匹も逃がさねぇっつただろうが?」

 怒髪天を衝く童切丸は止まる事なく、その後も三日三晩、京都の町を破壊しながら妖怪達を追い回した。


 この一件以来、童切丸がその名を悪評という不名誉な形で天下に轟かせたのは、語るまでも無いだろう。

 閉幕


 百鬼夜行の襲来から、一ヶ月が経った。

 百鬼夜行と童切丸によって破壊された京都の町は、復興までまだ時間が掛かりそうだ。

 町中に残された妖怪の遺体は、妖狩屋が総出で清掃活動にあたった。

 清掃が終わると、今回の百鬼夜行の被害に遭われて、亡くなった人々の葬儀を執り行う事となった。

 ちなみに、祓堂に避難していた僕の家族は僕がいつまでも避難して来ない為、僕は死んだのだと思っていたらしく、僕が帰宅すると同時に幽霊だと叫ばれて塩を撒かれた。

 葬儀の参列者は、京都に住むほぼ全ての人だった。

 祓堂の尽力もあり、人的被害は最小限に抑えられたと言っても、千名以上の人が亡くなっている。

 キヨさんも、その内の一人だ。

 参列者の中には、飛桃魔である桃花さんを始め、人に紛れて生活している妖怪の姿がちらほら見受けられた。

 葬儀の間、おはつさんはキヨさんの死を悲しみ、泣き崩れていた。

 童切丸は葬儀の途中で出て行ってしまい、結局戻って来る事は無かった。

 僕達はまだキヨさんの死を受け止めきれず、百鬼夜行以来ずっと、キヨ商店は閉店している。

 鬼神と化した童切丸が狩り尽くしたおかげで、当分の間は京都に妖怪が姿を現す事は無いだろうから、店を閉めていること自体は大して問題では無かった。

 しかし、駄菓子を買いに来る子供達は、閉じられたキヨ商店の戸を前に寂しそうな顔をする。

 僕はキヨ商店が開いていないにも関わらず毎日キヨ商店に来ては、おつゆさんとたわいもない話をした。

 おはつさんは葬儀の日以来、部屋に閉じこもったきり姿を見せてはくれなかった。

 童切丸は留守にする事が多く、どこに行っているのか分からないが、僕が店に来ている時に時折見かける事はあった。

 童切丸は酒に酔っている様子は無く、すぐに外出してしまう。

 どこに行くのかと聞いても「ちょっとな」としか言わなかった。

 もう、あのキヨ商店としての日常が戻ってこないのだと、分かっているが認めなくなかった。

 京都の町は百鬼夜行の被害から復興しつつあるにも関わらず、いつまでも店を閉めたまま鬱蒼としていたキヨ商店。

 そんなある日、唐突に童切丸が僕達三人にこう言った。

「今夜、花見に行くぞ」

 頭がおかしいのかと思った。

 だって、もうとっくに今年の桜は散っているのだから。

 童切丸の言葉に、僕達三人はきょとんとした顔をするばかり。

「……童切丸さん、また昼間から酒を飲んでるんですか?」

「酔ってねぇよ! 鬼婆が死んでから、酒は控えてたんだ。だけどよ、今日は飲みてぇ気分なんだ。テメェらは黙って、俺様に付き合え」

「お酒に付き合うのは良いですけど、花見は無理ですよ。だって、もう桜は散ってますよ」

「平助様。きっと童切丸様もキヨ様を失くされて、正気を失っているのです。優しく見守りましょう」

 童切丸に引っ張りだされるような形で、部屋から連れ出されたおはつさんは冷めた目をしていた。

「どーきりまる、カワイソー」

「テメェらなぁ! 俺は気狂いになった訳じゃねぇよ!」

「大丈夫ですよ、童切丸さん。僕達が居ますから」

「だーっ! 優しい言葉を俺様に掛けるんじゃねぇ!」

 そう言って、赤髪となった頭髪を掻きむしる童切丸。どうやら、心の傷は相当に深そうだ。

「とりあえず、桜と酒はこの俺様に任せとけ! おはつは飯の準備、スケベエは知ってる奴片っ端から誘ってこい! おつゆは……スケベエにくっついとけ!」

 半ば強引に決まった夜の花見。

 僕達はそんな童切丸の我儘に付き合ってあげる事にした。

「だーっ! テメェら、その目やめろ! 俺様を優しい目で見るんじゃねぇ!」


 童切丸が花見をすると言った場所は、珠川橋だった。

 満月と民家の光が照らす橋の上では、初夏の宵が涼しい風を運んでくる。

 珠川橋は京都の中に流れている珠川という川に掛かっている橋で、川沿いの桜並木は現在桜を全て散らしており、深緑の葉へと変わっている。

 この場所に来ると、物々の一件を思い出す。

 そう言えば、まだあれから二月しか経っていないのか。

 この二ヶ月間、キヨ商店として沢山の出来事を経験して、僕は急に大人になってしまったように感じる。

 童切丸には知人を誘えと言われたが、こんな季節に夜桜見物など誰も信じる訳が無く、来てくれたのは退院したばかりの兎々さんと、桃花さんの二人だけだった。

 あとは、酒を買う時に童切丸が誘ったのであろう、酒屋のおじさんと飲み仲間のおじさん達が数名来てくれた。

 流石に、この人数で橋の上を占拠すると近隣住民に文句を言われるので、川沿いの木の下に持ち込まれた大量の酒と、おはつさんが作ってくれた料理を並べる。

 童切丸は花見をすると言っていたけど、桜が無くてもこれはこれで良いものだ。

 そんな感慨深い気持ちに浸っていると、童切丸が両手を叩いて立ち上がった。

「よっしゃ! それじゃあ一丁、咲かせるか!」

 僕達は目を疑った。

 何故なら、童切丸が軽く手を振ったのを合図に桜が咲いたのだ。

 それも、一本や二本では無く、珠川沿いに植えられた桜並木全てが満開の桜を咲かせた。

 誰からか、簡単の声が漏れる。もしかしたら、僕自身かもしれない。

「童切丸さん? そんな事出来たんですか?」

「ん? ああ、なんか出来そうだから試したら上手くいったな」

「そんな阿呆な……」

 これが、紫雲の玉を使って神になった力、なのだろうか?

 桜を咲かせる事など、大した事無いと思うかもしれないが、あり得ない事を起こすという点で言えば正に人智を超えた力、神の御業だろう。

「酒、仲間、桜! これで花見に必要なもんは全部揃った! 今日は潰れるまで飲むぞ野郎共!」

『おぉおおおおおお?』

 童切丸を筆頭に、飲兵衛陣営は大盛り上がりだった。

 対して、未成年であるが故に酒が飲めない僕は、思いがけないハーレム陣営にこの身を置いていた。

「はい、平助食べて―」

 箸で摘まんだ玉子焼きを差し出してくるおつゆさんに、僕は照れを隠せない。

「あれー。スケベエ君って彼女いたのー?」

 これ見よがしに体を寄せてくる桃花さんに、思わず身を引いてしまう。

「いや、おつゆさんは別に彼女って訳じゃ……」

「そっかー! じゃあ桃ちゃん横座っちゃおー」

「は?」

「おつゆさん? 怖いよ。顔が怖い」

 死んだ目で桃花さんを睨むおつゆさんに、違う意味で緊張していると左腕に柔らかい感触を感じる。

「平助殿が一反木綿を倒したというのは、本当でござるか! その腕前、ぜひ一度拙者にご教授頂きたいでござる!」

 腕に抱きついて、眩しい羨望の眼差しを向けてくる忍者の兎々さんに、おつゆさんの眼がより黒く濁る。

 とは言え、右に桃花さん、左に兎々さん、そして正面におつゆさんと美女三人に囲まれているこの状況は、正直言って最高だ。

「……あの、平助様? 一反木綿と言えば、あの時のお約束……覚えてらっしゃいますか?」

 頬を紅潮させながら、恥ずかしそうに切り出すおはつさん。

 彼女の言葉で麻痺していた脳が、覚醒する。

 興奮のあまり、僕が口走ってしまった言葉を彼女は憶えていたのだ。

 ――もし、僕が黒布に勝ったら、膝枕してくれますか?

 ……恥ずかしさのあまり、死にたくなった。

「あ、はい。覚えてます。すみませんでした」

「ど、どうして謝るのですか! その、折角の機会なので……今、如何でしょうか?」

「絶対今じゃないよね?」

 声を荒げる僕に、三人の視線が突き刺さる。

 代表して、おつゆさんが僕に質問する。

「平助、約束って……何?」

「べ、別に大した事じゃないよ?」

「えー、その割にはスケベエ君、慌ててたよねー?」

「平助殿、拙者は平助殿の女性にだらしない部分は治すべきだと思うでござる」

 あ、やっぱり兎々さん僕の事、そういう目で見てたんだ……。

 無言の圧を掛けてくる、三人の視線が痛い。

 あれ、おかしいな。ついさっきまで天国に居たはずなのに、気付けば地獄だ。

「平助、答えて? 約束って……何?」

 袖からお気に入りの短刀を覗かせる、おつゆさん。

 今まで経験した事の無いような、大量の脂汗が滲み出る。

「違うのです、つゆ様! その、平助様が私に……膝枕をして欲しいとの事でしたので……」

 何の擁護にもなっていない、トドメの一言によって僕は逃げ出した。

「浮気は許さない。許さない! 許さない! 許さない?」

「た、助けて童切丸さーん! 殺される!」

「おースケベエじゃねぇか! テメェ相変わらず楽しそうだな!」

「殺されそうって言ってるだろ? どんな目してんだ!」

 短刀を振りかざす、狂人と化したおつゆさんから逃げ惑う僕を見て、酔っ払い達はゲラゲラ笑いながら酒を?む。

 この人達、もし僕が刺されても助けを呼ばずに笑ってそうだな……。

 楽しい夜桜見物のはずが、命懸けの追いかけっこへと一変した僕は、おつゆさんの誤解……でも無いんだけど、刺されない為に小一時間、弁明しながら夜の京都を逃げ回った。


 すっかり機嫌を直したおつゆさんと珠川橋に戻ると、そこには沢山の人で賑わっていた。

 どうやら季節外れの桜が満開になっているという、噂を聞きつけた人達が更に人を呼び、珠川橋はまるでお祭りの会場のような雰囲気と変わっていた。

 知ってる人も知らない人も盃を交わし合い、それぞれ自前の料理を誰彼構わずに振舞う。

 そんな、今では忘れてしまったような古き良き祭りだった。

 そんな人たちの中に、祓堂の人を見つけたおつゆさんが姿を隠すと言って、急にどこかへ行ってしまったので、仕方なく一人で知った顔を探しながら賑わいの中をブラブラと歩く。

 すると、橋の欄干に腰掛け、盃に酒瓶を傾けている男が居た。

 その男は、僕の知っている男だった。

「周りに人が沢山居るのに、こんな所で一人酒ですか?」

「よぉ、スケベエ。一緒にどうだ?」

「僕、未成年ですよ」

「っち、こんな満月の夜に、そんなくだらねぇ事言うなよ」

 少し不機嫌そうに、盃に口をつける童切丸。

 そんな童切丸と並ぶように、僕も欄干に腰掛ける。舞い散る桜が珠川を下る光景は美しく、ずっと見ていられるような気がした。

 確かに、こんな夜は酒が?みたくなるのも頷ける。

 きっと、童切丸に出会わなければ分からなかった感覚だろう。

「実は僕、初めて会った時からずっと、童切丸さんの事が嫌いだったんです」

「テメェ、本人にそれ言うか普通?」

「ええ、僕は言いますよ。だけど、キヨ商店の一員として行動を共にして、分かったんです。童切丸さんは酔っ払いで、考え無しで、ぶっきらぼうで、滅茶苦茶やる人ですけど、僕には無いものを持ってるんだって」

 真っ直ぐ見つめる僕に、童切丸は小恥ずかしそうに視線を逸らした。

「……この際だから、言ってやる。俺様もスケベエが嫌いだったぜ。ガリ勉で僕は頭良いですって面してたからな。俺様とは育ってきた環境が違い過ぎて、その平和ボケした面を見る度にむかっ腹が立ってた。けどよ、そんなガキが、ずっと妖と戦ってきた俺様より強いって分かっちまったんだ」

「僕が童切丸さんより強い? そんな訳無いでしょう」

 今の童切丸は、文字通り神様なのだ。

 それ以前に、人間である僕が童切丸と喧嘩したら、拳一つで終わる自信がある。

 もちろん僕の即死で、だ。

「当たり前だが、腕っぷしじゃ俺様とスケベエじゃ話にならねぇよ」

 分かっているけど、改めて言われるとムカつくな。

「俺様が言ってる強さは、心の話だ」

「心?」

 そう言って、童切丸は今まで明かさなかった自らの過去を語り始めた。

「まだ、俺様がガキの頃、親父と母親が目の前で殺されたんだ。殺した相手は、トンデモねぇ大妖怪だった。母親は死ぬ間際、俺様にこの童切丸を持って逃げろと言った」

 童切丸はそう言って、腰に差した童切丸を二度叩いた。

「俺様は母親に言われるがまま、逃げ出した。親父と母親の仇を討とうだなんざ、考えもしなかった。勝てる訳がねぇ相手に挑むのが……怖かったんだ」

「……童切丸さん」

「でもなスケベエ、テメェは違う。テメェは自分よりも強い妖怪達を相手に、立ち向かった。俺様なんかより、ずっと強ぇよ」

「違う! 僕は何度も逃げ出した! そんなに、強くなんか、無いんです」

 童切丸は僕の頭に手を乗せる。

 それは、まるで子を諭す父親のようだった。

「でも、最後には立ち向かっただろうが。それは強さだ。もっと自分を誇れ、スケベエ」

 凄く良い事を言っているのに、あだ名のせいで台無しだ。

「……ありがとうございます」

 なんか、恥ずかしくなってきた。

 あまり童切丸と、こういう会話をする事が無いから、無性に恥ずかしい。

 童切丸は酒が入ってるから良いかもしれないが、僕はシラフなんだぞ。

「――あの、お兄さんたち?」

 変な空気になっていた僕達に話しかけて来たのは、二人組の警察官だった。

 その二人組の警察官に僕は、見覚えがあった。

 物々を探して夜の町を駆けまわっていた時に、僕を補導しようとしたあの警察官だったのだ。

「夜桜見物とは、楽しそうですね」

「…………」

 警察官が嫌いなのか、童切丸は警察官の言葉を無視して酒を?む。

「また、補導ですか? こんなお祭り騒ぎにそれは無いでしょう」

「違う違う。用があるのは、そっちの日本刀を腰に差したお兄さんだよ。銃刀法違反って知ってるよね?」

「あ? 妖狩屋は銃刀法違反にならねぇだろうが」

 そうだったのか……知らなかった。

 童切丸が日本刀を持っているのは、暗黙の了解的なものだと勝手に思っていたが、法に則ったものだったらしい。

「それは、正式な届け出を出した場合ね。調べたところ、お兄さんキヨ商店の童切丸さんでしょ? 日本刀所持の届け出、出して無いよね?」

「…………」

 再び、童切丸が無言になる。

 今度は不服が故では無く、動揺が理由だった。

 やっぱり、童切丸は法に則っていなかったのだ。

「つまり、お兄さんは普通に銃刀法違反って訳です」

「署まで同行願おうか」

 先程までの若い警察官では無く、もう一人の真面目そうな警察官が言う。

「あの、童切丸さん? 警察の人に呼ばれてますけど……」

 警察官に問い詰められて、目が泳ぎまくる童切丸。

 この人、本当に神様か?

「ったく、しゃあねぇな。折角、気分良く酒飲んでたってのに、シラケちまったぜ。一丁行って来ら」

 まるで買い出しにでも行くかのように、警察署に連行されていく童切丸の背中を僕は無言で見送った。

「あ、こら! 逃げるな!」

「待てー! 民家の屋根に登るんじゃない?」

 童切丸が大人しく連行される訳も無く、秒で逃走した。

 結局、最後はこうなるのか。


 僕は今日の出来事もしっかりと書き残そう、いつか童切丸の活躍を誰かに知ってもらえる、その時の為に――。



                                        終

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破天荒妖怪異譚 花水 遥 @harukahanami

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