大妖の転寝

 その女子生徒を初めて見た時、私が抱いた感想は非常に整った容姿をしているな。というもので、彼女の今まで出会ったどんな女性よりも綺麗な容姿に驚いたものだ。

 十代とは思えない、知性を感じさせる切れ長な瞳。腰当たりまで伸びた艶やかな黒髪は絹糸のように美しく、細く伸びた手足から女性にしては長身なスタイル。

 整い過ぎていると言っても良い。そんな彼女、東雲(しののめ)いとの美貌に私は一抹の違和感のようなものを感じていた。

 違和感の正体が判明したのは、ある日の授業中での出来事。

 つい転寝をしてしまいたくなるような、春の陽気に包まれた午後の授業中。

 私の担当する授業では居眠りをする生徒も多く、授業を行っている私からすれば居眠りしている生徒を注意するべきなのだろうが、試験期間が明けたばかりの今日だけは見逃していた。

 多くの生徒の昼寝時間と化していた授業の中、東雲だけは背筋を伸ばし真剣に授業を受けていた。

 他の先生方からも真面目な生徒として評判の良い東雲に、私は感心した。

 医者を目指す者が多く在籍するこの専門学校でさえも、人間と言うのはつい気が緩んでしまうものなのだ。それは当然であり、居眠りを見逃すような私は咎めるつもりは無い。

 しかし周囲に流されず、真剣に授業を受ける彼女は他の生徒とは何かが違うのだろう。

 そんな事を考えていると、授業の終わりを告げるベルの音が廊下の奥から聞こえた。

「では、今日の授業は――」

 その時、私は己の目を疑った。

 東雲の顔が別人……いや、人では無い。怪物になっていたからだ。

 怪物とまとめるには、あまりに悍まし過ぎる鬼蜘蛛のような顔に私は硬直してしまった。

「……先生?」

 生徒の一人に声を掛けられ、ハッと意識を取り戻す。

「きょ、今日の授業はこれで終わりだ。居眠りしていた者はしっかりと復讐しておくように」

 口早に生徒達に告げた私は、急いで教室を出た。

 一体、アレは何だったんだ? まるで、悪い夢を見ている様だ。

 何かの見間違いだと信じたいが、脳裏にあの化け物の顔が焼き付いて離れない。

 教員室へ戻った私は、明日の授業の準備やテストの採点をしながらも、東雲の事が頭から離れなかった。


 翌朝、妻に見送られながら家を出た私は言葉を失う。

 何故なら、我が家の玄関前に東雲が立っていたからだ。

 それも、昨日の授業終わり間際に見た怪物の顔をした東雲が、玄関から現れた私の顔を恨めしそうな目でじーっと、見つめている。

「あなた? どうかしたの?」

 玄関ドアを開けたまま、いつまでも立ち尽くしている私に違和感を覚えた妻が背後から私の前に立つ東雲を覗く。

「あら? 生徒さん?」

「はい。一年の東雲と申します。先生の授業で分からない事があったので、教えて頂こうと思いまして」

 いつの間にか、美少女の顔も戻っていた東雲は見惚れてしまうような笑みで答える。

「あら、家にまで来るなんて随分と勉強熱心なのね」

 そんな東雲と私の関係を訝しむように私を睨む妻だったが、私の心中はそれどころでは無かった。

 先程の東雲を見た時から、足が竦んでしまって動かないのだ。蛇に睨まれた蛙というのは、まさにこの事を言うのだろう。

「ほら、行きましょう先生」

 東雲の言葉を合図に竦んでいた私の足は、金縛りが解けたように動かせるようになる。

「あ、ああ」

 逆らっては、どうなるか分からない。

 緊張から出る汗を拭いながら、私は東雲の後を追った。

 通学路で女子生徒と並んで歩くのは、あまり世間体が良く無いだろうと思うが、彼女の禁忌に触れてしまった私に拒否権が無いのだと直感が告げた。

 私の家を出てからしばらく無言で歩いていた東雲が口を開いたのは、学校が見える距離まで近づいた時だった。

 並木の影になっている道は涼しく、そして少し薄暗い。

「今日も心地の良い陽気ですね。先生?」

「あ、ああ。そうだな」

「こんな日は良くないですね。私もついつい転寝をしてしまいます」

「確かに授業中に寝るのは良くないが、こんな日ぐらいは良いんじゃないか?」

「駄目ですよ」

 彼女を極力刺激しないように選んだ私の言葉を聞いた東雲は、不意に立ち止まった。

「だって、居眠りをしてしまうと本当の顔がバレてしまいますから」

 トーンの下がった、声。私は緊張に唾を?み込む。

「ああ、本当に駄目ですね。まさか、こんなに早くバレてしまうなんて。ねぇ、先生? もし何か失敗をした時、先生ならどうしますか?」

「……あ、ああ……」

「私ならこうやって、全てを食らって……無かった事にします」

 バッと振り返った鬼蜘蛛は、鋭い牙が無数に生えた大口で私を――。


「最初に切られたい奴は、どいつだい?」

 童切丸から日本刀を取り上げたキヨさんは、まるで斬首刑を待つ死刑囚のように並んで正座させられている僕達に向かって、怒気を含んだ口調で言い放った。

 キヨさんが激怒している理由は言うまでも無い、恐る恐るおはつさんがキヨさんに栄作氏が亡くなった事、依頼が失敗に終わってしまった事を伝えた為だ。

 激怒するキヨさんを前に、僕達四人は恐怖で顔を上げる事すら出来ない。

 上げたら最後、首を切り飛ばされる恐れからだ。

 普段は飄々としている童切丸も相手がキヨさんであれば話は別なようで、尋常じゃない量の汗をかいて、正座しながら床を見ている。

「童切丸」

「へ、へい!」

 寿司屋か。

「一体、儂が何で怒っているのか、理解してるかい?」

「へい! それは依頼者を死なせちまったからでごぜいます!」

「馬鹿もんがっ?」

「いってぇ?」

 鞘に入ったままの日本刀で、上から頭頂部を殴打されて店内に鈍い音が響いた。

「平助!」

「は、はい!」

「お前さんは、分かるかい?」

「依頼を失敗して、東京までの移動代で大赤字になったからです、よね?」

「馬鹿もんっ?」

「っだぁ?」

 童切丸同様、会計処の上から振り下ろされた日本刀で頭部を殴打され、激痛に悶絶する。

「平助だいじょーぶ?」

「いいかいあんた達! 儂が一番怒っとるのは、儂の可愛い可愛いおはつを危険な目に晒した事さね! 一体なんの為にあんたら三人を同行させたと思っとるんじゃ! おはつの身代わりになる為さね!」

 …………酷い話だ。

「キ、キヨ様っ!」

 自分が如何に溺愛されてるか、僕達の前で熱く語られたおはつさんは顔を真っ赤にして俯いている。

「ごめんください」

「はーい!」

 開放されているキヨ商店の入り口から聞こえた男性の声に、反射的に反応したおはつさんが立ち上がり出迎えに向かう。

 入口から入って来たスーツ姿の男性を見て、僕は思わず声が漏れた。

「大西先生?」

「ん? おお、平助か。お前こんなところで何やってんだ?」

「実は僕、ここでアルバイトをしてまして……大西先生が一体どうしてキヨ商店に?」

「成績優秀なお前が、まさかバイトをしていたなんてな。実はな、最近行方不明になった藤堂(ふじどう)先生についてなんだが――」

「かーっ! 平助! あんたはいつから儂を通さず依頼者と商談する程偉くなったんだい!」

「はい! 先生、こちらがキヨ商店の店主のキヨさんです」

 過去最高に不機嫌なキヨさんを怒らせてしまった僕は、先生にキヨさんを紹介し店の隅に逃げた。

「これは失礼しました。この度は妖退治を依頼したく参りました。私は専門学校で教師をしている大西と申します」

 頭を下げる大西先生に向かって、キセルで吸った煙を吐きかける接客態度最悪な店主は誰に対しても不遜な態度で接する。

「さて、依頼の内容を聞かせてもらおうじゃないか」

「実は、私の同僚である藤堂先生が行方不明になってしまいまして……」

「うちは人探しなんぞやってないさね。警察にでも頼りな」

「違うんです! うちの学校の女子生徒が校舎裏で人の腕を貪っていた所を見てしまったのです。遠目ではありましたが、あの指輪は間違いなく藤堂先生の指輪です。藤堂先生は人食いの妖に殺されたのです! このままあの女子生徒を放置しておけば、次の被害者が出てしまう。どうか、討伐して頂けないでしょうか?」

 女子生徒は僕の知っている人なのか聞きたいが、今口を挟めばまたキヨさんの逆鱗に触れてしまうだろう。

 大西先生の話にキヨさんはふぅ、と煙を吐いて答える。

「女に化ける妖は多く居るが、どの妖も知能が高い……。日中で堂々と身近の人間を食らったのなら、近いうちに環境を変えるつもりなのか、バレても問題無いと考えているかのどちらかさね。どちらにしても厄介だ。早いうちに手を打つのが得策さね」

「では、受けて頂けるんですね!」

「おっと、焦っちゃいかんよ先生。うちも商売さね。受けるかどうかは、コレ次第さね」

 そう言って、悪い笑みを浮かべて右手で銭のジェスチャーをするキヨさん。

 本当にキヨさんは、お金の話をしている時が一番表情を輝かせる。


 熾烈な金額交渉の末、キヨさんの満足いく金額で今回の依頼を受ける事になったキヨ商店は、明日僕の通う学校へ来る事になった。

 ちなみに、大西先生の言っていた女子生徒の名前「東雲いと」という女子生徒は一年生らしく、二年生である僕は知らない女子生徒だった。

 間違っても、明日童切丸達が来る前に接触する事だけは避けなくてはいけない。

 今日は大西先生以外の依頼者は訪れず、僕とおつゆさんは駄菓子屋のキヨ商店として近所の子供達の相手をしていた。

 おつゆさんは子供が好きらしく、子供達とコマ回しで遊んでいた。

「よーし、じゃあ次最初に負けた子は、あそこに立ってるお兄ちゃんにお姉さんと結婚するように説得してくるんだよー」

「えー! お姉ちゃん結婚するの!」

「すげー! 大人だー!」

「そうなのー。でも、あの人は全然素直じゃないから、皆で説得してくれる?」

 そう言って、僕を指差すおつゆさんに僕は開いた口が塞がらない。

 一体、どこから否定したら良いのか分からず、とりあえず子供を巻き込むのは止めるよう叱ろうかと考えていると、おはつさんが僕の袖を引いた。

「平助様、少しよろしいでしょうか?」

 耳元で囁くように言うおはつさんに、僕の心臓は高鳴った。

「はい! どうしました?」

 おはつさんが無言で指さす先では、キヨさんが童切丸を連れてキヨ商店の裏庭へ向かって行った。

「まさか、前回の依頼の件で童切丸様はキヨ様に叱られてしまうのでしょうか?」

 なるほど、心優しいおはつさんは、童切丸がこれ以上キヨさんに折檻されないかが心配なようだ。あれほど破天荒な人は少しぐらい叱られた方が良いと思うが、おはつさんの優しさを無下にするような行為はしたくない。

「分かりました。僕がちょっと様子を見てきます。もし、キヨさんが童切丸さんを叱ってたらフォローしてきます」

「本当ですか! 本当に平助様はお優しいですね!」

 その台詞と純粋な笑顔は止めて欲しい、本当に好きになってしまいそうになる。

「そ、それじゃあ行って来ます」

 顔が赤くなったのを隠すように、僕は裏庭の入り口から少し離れたところで聞き耳を立てた。

「一体、俺様だけに話ってなんだよ鬼婆?」

「三日後の夜、百鬼夜行が来る」

「……まさか」

「ああ、そうさ。妖怪共の狙いは紫雲の玉さね。もし、紫雲の玉が妖怪陣営の手に渡れば、京都は落ちるだろう」

「だけどよ鬼婆。京都には俺様達以外にも妖狩りが多く居るだろ? 祓堂には鳳凰(ほうおう)のおっさんも居る。百鬼夜行が来ても問題ねーよ」

「たかだか鬼一匹に後れを取ったお前が、随分と余裕じゃないか」

「それを言われると耳が痛いけどよ……」

「今回は儂らキヨ商店だけじゃない。京都、いや、日本全体の命運が掛かってるさね。みっともない敗北は許されないよ」

「人間がどうなろうと、俺様は興味ねーよ。けどよ、鬼婆はお天道様の迎えが来るまで、この俺様が守ってやるから安心しな」

「…………童切丸。親の形見の刀を抱えて、泣きべそかいてたガキが立派になったねぇ……」

 珍しく、しんみりとした口調のキヨさんの言葉に、盗み聞きしている僕は罪悪感を感じる。

「もしも、儂が死んだらお前がキヨ商店を守るんだよ」

「馬鹿言ってんなよ。話は終いだろ? 俺様は桃花のとこ行ってくるぜ」

 そう言って、童切丸の足音がこちらに近づいてくる。

 まずい、このままじゃ盗み聞きしていたのがバレる。

 急いで裏庭と店内を仕切っているドアから離れようとした時、キヨさんの声が童切丸を呼び止めた。

「――待ちな、童切丸。最後にお前さんに伝えなきゃならん技がある」

「技? 斬鬼流の三つの型、全部伝授したって言ってたじゃねえか?」

「斬鬼流には三つの型とは別に、奥義があるさね。人の身では為しえない、鬼のみが使える奥義がね」

 キヨさんは、手に持っていた酒瓶を童切丸へ放り投げた。

 銘柄も何も書いていない酒瓶を興味深そうに見る童切丸。

「なんだ? これ、酒か?」

「それはお前さんの父親が生涯愛して止まなかったと言われる、伝説の火酒【桜火(おうか)】さね。奥義が習得出来るかは、童切丸。お前さんの感覚次第だが、その酒を煽って刀を振れば奥義に至るとお前さんの父親は言っていた。せいぜい儂を長生きさせておくれよ」

 キヨさんが戻って来るのを察した僕は、慌ててその場を離れた。

 その日、童切丸が裏庭から戻って来る事は無かった。

 まさか、キヨさんや僕達を守る為に一日中、奥義の修行をしていたのかと思い、帰り際にキヨ商店の裏庭を覗く。

 裏庭には酒瓶を抱いて熟睡している童切丸が転がっていたので、僕は何も言わずに帰宅した。


 翌日、僕には重大な使命が課せられていた。

 それは、放課後に教職員方が生徒達を帰宅させている間「東雲いと」を足止めする事だ。

 大西先生から彼女の教室を聞いただけで、後はなんとかして足止めするさね。というキヨさんの無茶ぶりだ。

 当然、僕としても生徒達に被害が及ばないようにする。という配慮は必要だと思う。その生徒達に僕が含まれない事が残念極まりないが……。

 伍拾圓という借金の代償は子供の僕が考えているよりも、ずっと重いものだったと痛感しながら、僕は東雲さんが在籍する教室へ向かった。

 僕の通う学校の教室は、大きな黒板を全生徒が見やすいように後ろの席が一番高く、最前席が一番低く、設置された机は高さを調整されている。

 その為、前席に座る生徒の後ろに隠れてしまうような生徒がおらず、教壇に立つ教員からは授業に参加している生徒達が全て把握できるようになっている。

 その性質を生かして、教壇側の入り口から東雲さんの教室に入った僕は、放課後帰宅する生徒を呼び止めた。

「あの、ちょっとごめん。東雲さんってこの教室に居るかな?」

「東雲いとさんですね。呼んできますね」

 僕に呼び止められた女子生徒は、親切に東雲さんを呼んできてくれた。

 僕が声を掛けた女子生徒が連れて来た東雲さんは、思わず一目惚れしてしまうような美少女だった。

 切れ長の瞳に艶のある黒髪、整った顔立ちとスタイル。女学生服に身を包んでいなければ、僕よりも年上なんじゃないかと疑ってしまうような、妖艶さを兼ねた美貌。

「では、私は失礼しますね」

 東雲さんを連れて来てくれた女子生徒は僕に頭を下げると、教室を出て行った。

「あの、先輩? お話するのは初めてですよね?」

 上級生に急に呼び出された東雲さんは、訝しそうに首を傾げる。

「うん、そうだね。急に呼び出してごめん。実は、東雲さんに話したい事があるんだ」

「もしかして、告白ですか?」

「えぇ! ち、違うよ!」

「うふふ、冗談です。先輩可愛いですね」

 なんて、魔性の女なんだ。さすが、妖怪。飛桃魔の桃花さんのように男を誑かす技に長けている。

 彼女が僕に対して好意など一切無いと分かっていても、美少女にからかわれると心臓が高鳴ってしまう、それが日本男児というものだ。

「ここじゃ話しにくい話なんだ。ついて来て」

 これ以上東雲さんのペースに乗せられないように、僕は返事を待たず二階へと上る階段へ向かった。

「お話って、一体どんなお話なんでしょうか? 楽しみです」

 そう言って下唇を舐める東雲さんは、きっと自らの正体が僕にバレている事に気付いている。

 それでも、僕に付いて来るという事はキヨさんの言う通り相当強力な妖怪なのかもしれない。

 僕が東雲さんを連れて向かったのは、二階にある空き教室。

 事前に大西先生に伝えて解放してもらったこの空き教室は普段閉鎖されており、机や椅子と言った備品が教室の隅に敷き詰められている。

 掃除もあまりされていないのか、綿埃が多く普段誰も使っていない事が分かる。

 誰も居るはずが無い空き教室に足を踏み入れると、僕は窓を開けながら会話を始める。

「東雲さん。今日はいい天気だね」

「ええ、そうですね」

「東雲さん、凄く美人だよね。モテるんじゃないの?」

「そうですね。先輩みたいに近寄って来た男性は、全て美味しく頂きます」

 絶対に性的な意味ではなく、食事的な意味だろう。

 彼女の返答に額から汗が流れる。

 正直、僕は彼女が怖いが時間を稼ぐ為に適当な質問を続ける。

「東雲さんはどんな食べ物が好き?」

「うーん、どの部位も好きですが、強いて言うなら腕ですかね。指の骨のコリコリとした感触から上腕を骨ごとかみ砕くのが最高なんですよ」

 好きな食べ物ではなく、部位の話を始めたよ。しかも食人アピールが凄い。

「東雲さんは休みの日、何をしてるの?」

「私、食べ歩きが趣味なんですよ。美味しそうな人を見つけては、ついつい食べ過ぎちゃう事が多くて……」

「な、なるほどー。素敵な休日だね」

 駄目だ! 彼女がどうしても正体を明かしてくる! 時間稼ぎどころじゃない!

 まるでメインディッシュの上に乗ったポークステーキの気分だ。

「えーっと、今日は」

「先輩?」

「……な、なにかな?」

「もう、十分ですよ」

 十分とは、どういう事だろう。

「先輩も私に食べて欲しいんですよね?」

 半歩僕に近づいて、顔を覗き込んでくる東雲さん。

 彼女から、ほのかに香る花の良い匂いにドキッとする。

「えーっと、それはどっちの意味かな?」

 目線を逸らして、半歩下がる僕に東雲さんは首を傾げる。

「どっち? 食べるなんて、意味は一つしかありませんよ」

 そう言って抱きつくように僕の首に手を回した東雲さんが、口を開いて僕の首筋に噛みつこうとした時、東雲さんの動きが止まった。

「……先輩、臭いですよ」

「え、くさ、臭い?」

「ええ、妖怪臭くてたまりません。この臭い、女の妖怪ですね」

 絶対におつゆさんの匂いだ……。

「まさか、先輩妖狩りですか? それとも、妖狩りを名乗って女妖怪を狙う変態さんですか?」

 僕の首に手を回したまま、何故か興奮気味に吐息を漏らす東雲さん。

「助けて兎々さん?」

「――任されたでござる!」

 校舎の外壁に待機していた兎々さんは窓から飛び込んで来ると、東雲さん目掛けてクナイを投げ放った。

 クナイを避ける為、咄嗟に僕を解放して後ろに飛び退く東雲さん。

 僕を庇うように着地した兎々さんは、僕に冷たい目線を向けてくる。

「平助殿、やけに合図が遅かった気がするのでござるが……もしかして、発情していたのでござるか?」

「お、女の子がそういう事言わない!」

 兎々さんという増援が来た事に東雲さんは、口の端を吊り上げて笑った。

「やはり妖狩り……良いですねぇ。罠に嵌めたと勘違いしている間抜けさんを力でねじ伏せる快感っ! たまりませんねぇ!」

 その時、東雲さんから座敷童にも劣らない膨大な妖力が放出された。

 東雲さんの妖力からは肌の表面を電流が走る様な微弱な痛みを感じる。只の人間である僕にすら分かる、この妖怪はかなり危険だ。

 兎々さんも同じことを感じたようで、東雲さんに向き直ってクナイを構える。

「酷いですよ先輩。こんなに嬉しいサプライズを用意していたなんて、なんとしても先輩を食べたくなっちゃいますよ」

 美少女に言われて、こんなに嬉しい台詞は無いが……それは相手が食人愛好家で無ければの話だ。

 怪しく笑いながら、一歩ずつゆっくりと近づいて来る東雲さんに兎々さんがクナイを投げるが、まるで玩具のように容易く手で払った。

「平助殿、下がるでござる!」

 そう言って、腰から短刀を抜いた兎々さんは東雲さんに切り掛かる。

 首筋を狙った兎々さんの短刀を指で摘まんで止めた東雲さんは、右足で兎々さんの腹部を蹴り上げた。

 骨が軋むような嫌な音を立てて、宙を舞う兎々さんの体は天井に打ち付けられ、そのまま床へ落ちる。

「兎々さん!」

 もし仮に兎々さんが軽量な女の子で無ければ、天井か床のどちらかをぶつかった衝撃で突き抜けていただろう。それ程に強烈な一撃を受けてしまった兎々さん。

「だ、大丈夫でござるよ」

 口から血を流し、脇腹を抑えながら立ち上がる兎々さんは脳震盪を起こしているのか、少しよろめく。その姿は痛々しく、見ていられない。

「なんですか? 軽く蹴っただけなのに、もう壊れてしまったんですか? 脆いですね、脆過ぎますよ?」

 獲物を追い詰めるような、残酷な笑みを浮かべ僕達に歩み寄ろうとした東雲さんは、自らの体の違和感に気が付く。

 ふと、足元を見ると蹴られる瞬間に兎々さんの放っていたクナイが、東雲さんの影と教室の床を繋ぐように突き刺さっていた。

 体を動かそうとしても、動かない東雲さんは少し苛立った口調になる。

「なるほど、目的は足止めですか? 応援の妖狩りでも来るんですか?」

「その通りだ! もう逃げられないぞ!」

「逃げる? うふふ、先輩ったら。この私が逃げる訳無いじゃないですか」

 そう言って、東雲さんの放った膨大な妖力であっさりと床に刺さったクナイが抜けてしまった。

「こんな子供騙しが通じるのは、下級の妖だけですよ? その忍者ちゃんはもう戦えそうに無いですし、今度は先輩が私と遊んでくれますか?」

「……っく!」

 僕の事を妖狩りだと思っている東雲さんは、ただの人間である僕の実力に期待しているような素振りで歩み寄って来る。

「まだ実力を隠すつもりですか? それとも、応援が来る前にその忍者ちゃんを目の前で食べちゃえば、先輩も本気になってくれますか?」

「平助殿! 逃げるでござる!」

「馬鹿言うなよ! 女の子を置いて逃げれる訳ないだろ!」

「わー、先輩カッコいい。じゃあ、先輩から美味しく食べてあげますね」

 兎々さんを庇うようにして、一歩一歩近づいて来る「死」に僕の足が震え始める。

「怖がらなくても大丈夫ですよ? 私に食べられる人は、皆さん幸せそうな顔をするんです」

「――よぉ姉ちゃん。そんな小便臭い眼鏡小僧よりも、俺様と遊んでくれよ」

「師匠!」

 教室の入り口、のドア枠に体を支えるようにして、なんとか立っている酔っ払い……もとい童切丸の登場に僕の感動は一瞬にして冷めた。

 童切丸が到着に遅れた理由、そして現在ドア枠に体重を預けている理由は、単に二日酔いだからだ。

 しかも、ちゃっかり右手に酒瓶を持っている事に腹が立つ。

「あら、素敵なおじさま。おじさまが私と遊んで下さるんですか?」

「おじさまだと? バッカおめぇ、俺様はまだ二十八だっつーの!」

 女学生の東雲さんからしたら、おじさんなのでは?

 それに、髪もボサボサでだらしなく着物を気崩している童切丸は、傍目から見ておじさんと呼ばれるに相応しい風貌をしている。

「スケベエ、外におつゆが待機してる。兎々を連れてけ」

「分かりました!」

「師匠! 拙者はまだ戦えるでござる!」

「馬鹿言ってんな! まぁ、今回はテメェの師匠が超強いところを見とけ」

 東雲さんの攻撃を受けて、立っているのもやっとな兎々さんの体を背負う。

「あら? 目の前の獲物を見逃してあげる程、私は優しくありませんよ?」

「いーや、見逃して貰うぜ」

 二日酔いとは思えない俊敏な動きで、日本刀を抜き放った童切丸の太刀筋を東雲さんはクナイの時のように手で軽くいなそうとしたが、刀身を見た瞬間に動きを変え少し大袈裟な動きで飛び退いて回避した。

「っち、今ので決まってくれりゃ楽だったのによ」

「その刀、まさか童切丸?」

 童切丸さんの刀を見て、初めて驚愕の表情を見せる東雲さん。

「あの酒呑童子を滅した伝説の名刀をまさかこんな所で見られるなんて、今日はなんて素晴らしい日なんでしょう! やっと、やっと出会えた! 私を滅しうる存在!」

 童切丸さんの持っている刀は、その名を童切丸と呼ぶらしい。

 喜びのあまり、両手で顔の皮膚が千切れるほど引っ張る東雲さんは恍惚の表情を浮かべる。

「おじさま、もっと私に貴方を教えて! さぁ、殺し合いましょう!」

「だから、おじさまじゃねっての!」

 校舎内で童切丸と東雲さんの戦いが始まった。

 童切丸が東雲さんの気を引いている間に、僕は兎々さんを背負って校舎の外で待つおつゆさんの元へと向かった。


 校舎から校門へと続く並木道におつゆさんは立っていた。

「あー平助だー。…………なんで、女の子を背負ってるのー?」

 童切丸に粉砕されたはずの小刀を抜き、僕を歓迎してくれないおつゆさん。どうやら、この二日の間に小刀を買い直したようだ。

「この子は兎々さんと言って、童切丸さんの弟子なんだ。妖怪の攻撃を受けて怪我をしてるから、すぐ病院に連れて行って欲しい!」

「お待ちください平助殿! この程度の負傷、問題ござらん! 早く師匠の助太刀に……っく」

 吐血するような負傷を追ったにも関わらず強がる兎々さんは、僕の背から飛び降りて苦悶の声を漏らす。きっと、足の骨にヒビが入っているに違いない。

「その子もそう言ってるし、大丈夫だよー」

「馬鹿言うな? 今の君が加勢に行ったら間違いなく殺されるぞ! それに、骨にヒビだって入っているかもしれない。今すぐ病院で診てもらうべきだ!」

「ですが!」

「君の師匠、童切丸を信じるんだ」

 僕の必死の説得が通じたのか、兎々さんはそれ以上何も言わなかった。

「じゃあ、おつゆさん。兎々さんをよろしくお願い!」

「えー、平助は大袈裟だよー」

「人の命が掛かってるんだぞ? 大袈裟な事なんてある訳ないだろ?」

 おつゆさんの発言に、ついカッとなってしまって怒声を上げてしまう僕におつゆさんは涙目になる。

「ごめっ、ウチ、そんなつもりじゃ……」

「いや、僕の方こそごめん。今、余裕が無くてつい声を荒げてしまって」

「ちゃんと病院連れてくから、ウチの事嫌いにならないで? ウチ、平助に嫌われたら、生きていけない……」

 僕達のやり取りを見て、女の敵を見るような目で僕を睨む兎々さん。

「ならないから! それじゃあ、兎々さんの事頼んだよ!」

「平助はどうするの?」

「僕は校舎内に生徒が残ってないか見てくるよ!」

 既に、生徒達に帰宅を促していた教職員の先生方の姿も見えない事から、よっぽど全校生徒の帰宅は完了していると思うが、万が一という事もあるかもしれない。

 兎々さんをおつゆさんに任せて校舎内に戻ろうとした時、二階の窓ガラスが割れる音が響き渡った。

 校舎二階を見上げると、東雲さんの攻撃で吹き飛ばされた童切丸が背で窓を突き破った音だと分かった。

 その後を追うように、東雲さんも校舎外へ飛び出す。

「童切丸さんの事は僕に任せて、早く行け?」

「平助、気を付けて……」

 慌てておつゆさん達に指示を出した僕は、童切丸の飛ばされた方向へ駆け出した。


 この学校には一般的な広さの校庭がある。

 遮蔽物の無いだだっ広い校庭では遠目からでも童切丸の姿を見つける事は容易だった。

 校庭の砂に日本刀を突き刺し、片膝を突いて息を整える童切丸。

 額から血を流し、明らかに満身創痍な童切丸に比べ、空き教室で僕と対話していた時と変わらない余裕な様子で歩み寄る東雲さん。どちらが追い詰めているのかは、一目瞭然だった。

 人間性は最悪だが、その強さだけは信じていた童切丸が追い詰められている現状を前に、僕は己の目を疑った。

「……うぷっ…………おろろろろろ」

 二日酔い中、激しい上下運動に耐えかねた童切丸は、我が学び舎で吐瀉物をまき散らした。

「あらあら、童切丸の持ち主と期待したのですが、これはとんだ期待外れです」

 胃の中にあった物を全て吐き終えた童切丸は、着物の袖で口元を拭う。

「っけ、吐いたら大分楽になったぜ。まだ期待外れかどうか決めるのは早いぜ」

 少しよろめきながら立ち上がると、童切丸は目線と同じ高さで日本刀を構え、深く長い息を吐く。

「斬鬼流壱ノ型――討鬼一閃」

 斬鬼流剣術の中でも、最速の一太刀。

 瞬きをしている間、気が付くと童切丸は対面していた東雲さんの背後に立っている。切断された東雲さんの黒髪が数本空中に舞い、驚きに目を見開く彼女の左頬に浅い切り傷を作った。

「まだ視界がブレるが、今ので確信したぜ。お嬢ちゃんは俺様に勝てねぇよ。諦めて大人しく滅されるんだな」

「これは、血……?」

 自らの頬に流れる青色の鮮血を人差し指で拭うと、東雲さんはそれを見て笑った。

「素晴らしいわ! 合格よ、おじさま! おじさまには私の全てを見せてあげる!」

「そりゃどーも」

 嫌な気配を察した童切丸は、刀を鞘に納めてじっと東雲さんを見る。

 袴の帯を外し、女学生服を脱ぎ始めた東雲さんから僕も目が離せない。

 袴を脱ぎ、更には下着すらも脱ぎ捨てた東雲さんは、我が学び舎の校庭で全裸になった。

 全てを脱ぎ捨て、生まれたままの姿になった彼女の裸体は、芸術品のように美しい。

 美し過ぎて、人間である事に違和感を抱く程だ。

 童切丸の嘔吐物があったり、全裸の美女が居たり、もう滅茶苦茶だ。

「お色気攻撃たぁ、悪くねーが。煩悩の無い俺様が相手じゃ意味ねーぜ」

「童切丸さん。鼻血流しながら言っても説得力無いですよ」

「うるせぇスケベエ! テメェこそビンビンじゃねぇか!」

「ビンビンとか言うなぁ?」

「うふふ、お二人共可愛いです。じっくり、骨の一本一本を?み砕いて、血の一滴まで啜りながら食べてあげますからねぇ」

 先程の比にならないような、膨大な妖気を放った東雲さんは本来の姿を現した。

 笑い声を上げる美しい裸体は膨張し、瞬く間に肉塊へと姿を変えた。

 肉塊はやがて別の形を成し始める。

 それは、大蜘蛛だった。顔は鬼蜘蛛であり、胴は虎柄の体毛に覆われている。

 虎柄の体毛に覆われた全長二十メーター程の体躯には八本の脚が生えており、顔の端まである大口には無数の牙が生えている。

 その悍ましい姿をした妖怪の名を僕は知っている。

 東雲さん、彼女の正体は鎌倉時代からその名を天下に轟かせる大妖――土蜘蛛だった。

 まさに異形の化け物を前に、僕はまるで蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れない。

「土蜘蛛たぁ、通りで厄介な訳だぜ。おいスケベエ! 固まってんな!」

 童切丸の言葉に、僕に掛かっていた金縛りのようなものが解けた。

「さっきの部屋に俺様の酒があるはずだ。それを持ってこい!」

「童切丸さん! 貴方二日酔いでしょ! こんな時に酒だなんて――」

 説教しようと言葉を言いかけた時、僕は童切丸の切羽詰まった表情を見て何も言えなくなってしまう。童切丸がこの顔をする時は、必ず現状を打開する術を思いついた時だからだ。

 言葉を止め、僕は童切丸に頷いてから校舎内へ向かった。

「先輩から頂きまぁす!」

 背を向けた僕目掛けて、土蜘蛛は口から無数の糸を放出した。

 僕を捕縛しようとした蜘蛛の糸は、童切丸が日本刀の鞘で巻き取った。

「つれねぇ事言うなよ、土蜘蛛の嬢ちゃん。あんなスケベエ眼鏡は放っといて、俺様ともうちっと遊んでくれや」

「素敵よおじさま! おじさまは一体どんな味がするのか、本当に楽しみ!」

 その巨体からは想像もつかない速度で振り下ろされる、土蜘蛛の巨大な爪を日本刀で捌く童切丸。熾烈な戦いを始めた彼らに背を向け僕は校舎内へ向かう。


 外からは、土蜘蛛の巨体が校庭を駆けまわる振動が伝わって来る。

 童切丸はきっと、昨日キヨさんから教わっていた奥義でしか土蜘蛛を倒せないと判断したんだ。つまり、僕が酒を見つけるのが遅ければ童切丸さんは土蜘蛛に殺される。

 事態は一刻を争う。僕は息切れなど忘れて階段を駆け上り、東雲さんと対峙していた空き教室へと向かう。

 空き教室の中は、破壊の限りを尽くされていた。

 教室の隅にあった無数の備品は悉く破壊されており、木造の壁には数え切れない程の切り傷や穴が空いており、壁や床材、備品等の破片が散乱していた。

 一体、どんな戦いをすればこんな風になるんだ……。

 改めて土蜘蛛の脅威を実感しながら、僕は瓦礫を漁り童切丸が持っていた酒瓶を探した。

 元々は机であったであろう木板を退かすと、その下にラベルの無い酒瓶が転がっていた。

 また階段を下りている時間はあるだろうか、そう考えてガラスが破壊された窓から童切丸達の状況を確認すると、それは戦いと呼ぶにはあまりに一方的な展開だった。

 縦横無尽に繰り出される土蜘蛛の爪を刀で捌き、足元や顔に目掛けて放たれる蜘蛛の糸をギリギリで躱しながら、一瞬の油断すら許さない一方的な攻撃を童切丸は超人的な集中力で躱し続けていたのだ。

 その惨い光景に僕は思わず叫んだ。

「童切丸さん? 酒を見つけました!」

 僕の声を聴いた童切丸は、土蜘蛛の攻撃から一瞬も目を逸らさないまま答える。

「でかしたスケベエ? 俺様に向かって投げろ!」

「えぇ! 良いんですか?」

「早くしろ?」

 僕の居る空き教室の窓から、童切丸と土蜘蛛が居る場所はかなり離れている。

 とても僕の投擲力で届く距離では無いが、怒鳴る童切丸に急かされ僕は酒瓶を放り投げた。

「はぁ?」

 どうやら、童切丸にとって僕の投擲力が常人以下だった事が予想外だったようで、目玉が飛び出そうな程目を見開くと同時に、こちらに駆け出した。

 むき身の日本刀を持ったまま、何故そんな速度で走れるのか僕には理解出来ない。

 地面へ落下したら最後、酒瓶は割れ土蜘蛛への勝ち筋が消失する。

 顔を真っ赤にし、鼻水を垂らしながら全速力で走る童切丸に不謹慎だが僕は思わず吹き出してしまう。

「酒はゼッテェ落とさねぇ?」

 背後から追撃する土蜘蛛の爪や糸を第六感で躱しながら、童切丸は落下する酒目掛けて校舎の壁に飛び込んだ。

 そんな速度で壁に衝突したら、いくら頑丈な童切丸と言えど致命傷は免れないだろうと危惧したが、童切丸が飛び込むと同時に一階校舎から窓ガラスの割れる音が聞こえて、僕は安堵の声を漏らした。

 どうやら、一階も窓は同じ位置だったらしく、童切丸は校舎の壁に衝突せずに窓を突き破り校舎内に入る事で疾走の衝撃を緩和出来たようだ。

「馬鹿野郎スケベエ? テメェ女じゃねぇんだから、もうちっと遠くへ投げやがれ?」

 下の階に居る童切丸の怒鳴り声が、校舎中に響いた。

 童切丸の後を追い、土蜘蛛もこちらへ疾走してくる。

 二階の窓から童切丸に状況を伝えようとしたが、その前に童切丸が窓枠を飛び越えて土蜘蛛に立ちはだかった。

 童切丸の右手には伝説の火酒「桜火」の酒瓶が握られており、左手には鞘に納められた日本刀、童切丸を持っている。

 校舎内に姿を隠したかと思えば、酒瓶を持って出て来た童切丸に土蜘蛛は問う。

「遂に、私に食べられる覚悟が出来ましたか?」

「けっ、んな訳ねぇだろ。俺様はテメェをぶった切る為に出て来たんだ」

 童切丸の言葉に土蜘蛛は満足そうに笑う。

 それは、まるで逃げ惑う獲物を追い込むことに快感を満たす狩人のようだ。

「聞こえてるかスケベエ! この酒は俺様と相性が良すぎるみたいだ! 昨日一口飲んだらそのまま泥酔して二日酔い(このざま)だ。もし、俺様が潰れたら迷わず逃げろ。良いな?」

 正に一か八か、童切丸は強敵を前にして成功した事が無い斬鬼流の奥義を試そうとしている。

 そんな童切丸に僕は窓から、下に居る童切丸に向かって叫ぶ。

「何言ってるんですか! 僕が土蜘蛛から逃げきれる訳ないでしょ! 失敗したら僕達は仲良く土蜘蛛の食事になるんですから、死んでも勝って下さい」

「ったく、こんな偉そうに守られる奴は初めてだぜ……」

 小声で何かを呟いた童切丸は、酒瓶の木栓を口で引き抜くと「桜火」を飲んだ。

 火酒を飲んだ童切丸は鞘に納めた刀の柄を握ったまま、しばらく硬直した。

 先程まで土蜘蛛の足音、爪と刀がぶつかり合う鋭い音響が嘘のように、静寂が訪れる。

 直後、まるで茹でられた蛸のように顔を真っ赤にした童切丸はその場に崩れ落ちた。

 状況を飲み込むまで数秒掛ったが、僕は童切丸が掛けに負けたのだと理解した。

 土壇場では、いつも童切丸がどうにかしてくれた。

 きっと今回もそうだと思っていた僕は、頭の中が真っ白になってただ、二階の空き教室から外を見下ろした。

 どうすればいい?

 いや、どうするも何も無い。もう、どうしようも無いのだ。

 童切丸が倒れたという事は、僕達は死ぬのだ。ただ、それだけ。

 死というのは、受け入れてしまえば何てこと無いな、なんて甘えた考えが一瞬脳裏を過ったが、外に居る土蜘蛛が僕を見ている事に気が付いた時、僕は初めて死の恐ろしさを知った。

 誰か、助けてというみっともない願いを叶えてくれる者は、たった今酔い潰れてしまった。

「この私を前にして、急にお酒を飲み始めたかと思えば、たった一口で酔い潰れてしまうだなんて……おじさま、一体何がしたかったの?」

 不思議そうな土蜘蛛の言葉に、僕も共感したい。

「まぁ、大人しく眠ってくれていた方が食べやすくて良いのだけれど……残念だわ。おじさまを食べ終わったら、すぐに行くから待っていて下さいね。先輩?」

 地を揺らしながら、眠っている童切丸に近づく土蜘蛛。

「――待ちたまえ! 妖怪!」

 土蜘蛛を呼び止めた声の主は、陰陽師が着ているような狩衣を来た黒髪の女性だった。

 黒い翼を生やした天狗の少女にぶら下がるように、上空から女性は姿を現した。

「私の名は多美子(たみこ)。祓堂きっての実力者にして、将来は最強の陰陽師となる者だ! 妖怪土蜘蛛よ! 京都中に轟くその妖力、私の相手にとって不足なし?」

 仰々しい自己紹介と共に懐から一枚の式札を取り出すと、多美子さんは札を高々と掲げる。

「破ッ?」

 すると、掲げていた式札が木端微塵に散り、中から一体の青龍が現れる。

「行きなさい青ちゃん! 人に害を為す妖怪を焼き尽くすのです!」

 青龍の天地を揺るがす咆哮に対して、土蜘蛛は全く動じる様子が無いまま頭上を舞うその姿を見つめる。

「そんな見掛け倒し、この私に通じるとお思いですか?」

 土蜘蛛はその口から強靭な糸を吐き出し、青龍の体に巻き付けるとそのまま青龍を地へ叩きつけた。

 青龍の巨体が校舎よりも更に高い空中から叩き落された事により、激しい振動と共に砂埃が舞い視界を遮る。

 やがて視界を遮っていた砂埃が落ち着くと、青龍が叩き落された校庭には既に青龍の姿は無く消滅していた。

「そんな、私の式神の中でも最強の青ちゃんが一瞬で……」

「手品はもうお終いですか?」

「そんな訳ないだろう! 見せてやる、私の蝶必殺技――四神召喚!」

 多美子さんが高らかに掲げた四枚の札は一斉に弾け、中から四体の式神が現れた。

 天を舞う青い龍。

 火の粉を散らし飛翔する火の鳥。

 全身が震えるような咆哮を上げる白い虎。

 如何なる攻撃にも動じない丈夫な甲羅を背負った緑の亀。

 噂に名高い四神を全て同時に召喚出来る陰陽師なんて、聞いたことが無い。

「さぁ、行きなさい青ちゃん達! 今度こそあの妖怪を滅するのです!」

 多美子さんの号令によって、一斉に土蜘蛛に襲い掛かった。

「子供騙しにすら、なっていませんよ」

 しかし、土蜘蛛の吐き出した糸に三体の四神が捕らわれ、俊敏さを有する白虎のみがその糸の拘束を逃れた。

 糸に拘束された三体の四神は、じわりじわりと土蜘蛛に引き寄せられ、土蜘蛛の巨大な爪に引き裂かれ呆気なく消滅した。

「そんな……青ちゃん達が手も足も出ないなんて……」

「多美子様、私が妖怪の足止めをしますので、多美子様は一度祓堂へ戻り応援の要請を」

 天狗の少女は多美子さんを地に下ろすと、土蜘蛛と向き合う。

「……分かりました。すぐに応援を連れてきます!」

 そう言って、多美子さんは出現させた白虎の式神に跨り、校門を出て行った。

 到着から数秒で撤退した多美子さんに、僕は彼女の自己紹介に疑問を感じざるを得なかった。

 応援を呼びに行く多美子さんを止める様子の無い土蜘蛛は、敵を前に本来の姿から東雲さんの姿へと戻っていた。

「応援を呼びに行った者を追わないとは、随分とお優しいのですね」

「勘違いしないでくださる? わざわざお肉がお肉を呼びに行ったんですもの、止める道理などありません」

「なるほど……強者の余裕という訳ですか」

「ところで、貴方は妖怪の身でありながら、どうして人に与しているのですか?」

「私だって、好きで与している訳ではありません。山の仲間が人質にされているのです」

 天狗の少女は無表情ながらも、すこし強張った口調で言う。

 そんな天狗の少女に東雲さんは妖しい笑みで囁く。

「知っていますか? 明後日の晩、妖怪の総大将と鞍馬天狗が率いる百鬼夜行がこの町を襲います。あなたの仲間を人質に取っている者達も皆殺しにされるでしょう」

 東雲さんの言葉に、天狗の少女は一瞬目を見開く。

「そんな楽しそうなお祭り、貴方も参加したくありませんか?」

 そう言って、東雲さんは天狗の少女に手を差し伸べる。

 土蜘蛛の姿から人間の姿に戻った理由が僕はようやく分かった。

 一目見た時から、東雲さんは天狗の少女を仲間に引き込むつもりだったのだ。

「駄目だ! その妖怪は危険過ぎる!」

 二階から叫ぶ僕を睨む東雲さん。睨まれた僕は体が硬直してしまい、言葉を発するどころか身動き一つ取れなくなる。

 差し出された東雲さんの手を見つめる天狗の少女は東雲さんに歩み寄り、差し出された手を腰から抜いた短刀で切り落とそうとした。

 しかし、人間の姿をしているとは言え、大妖である土蜘蛛に短刀では傷一つ付かない。

「それが答え? 失望したわ。死になさい」

 まるで虫を叩き潰すように、手の平で絶望に歪んだその顔面をビンタされた天狗の少女は凄まじい勢いで、校門まで続く並木の一つに衝突し、意識を失った。

 その勢いから、もしかしたら首の骨が折れて死んでしまったのかもしれない。

 土蜘蛛が命を奪う瞬間を目にした時、僕の中にある絶対に譲れないものを思い出した。

 歯を食いしばり、校舎の一階へと降りて童切丸の元へと駆け寄る。

 僕は何を腐っていたんだ。童切丸が一か八かに掛けたんだ。

 それは、僕達キヨ商店の皆を守る為でもあるが、僕達妖狩りが敗北すれば妖怪は一般人にその牙を向ける。

 僕は自分の命ばかり気にして、事の重大さをまるで理解してなかった。故に、簡単に諦めてしまった。

 もっと足掻くべきだったのだ。

 相手がどれだけ強くても、童切丸が倒れたとしても足掻くべきだったのだ。

 転げ落ちるように二階から一階への階段を駆け下り、校舎を出る。

 校舎を出た僕は、酒瓶を大事そうに抱いて眠る童切丸の尻を蹴っ飛ばした。

「起きろ? このド阿呆?」

 丁度こちらに向き直っていた東雲さんは、疾走した僕がそのままの勢いで童切丸を蹴っ飛ばした事に目をぱちくりさせる。

 酒瓶を抱いたまま、器用に二回転半転がった童切丸は擦り傷だらけの顔で怒鳴る。

「ってぇな? 何しやがる?」

「黙れ酔っ払い? 状況を理解しろっ? 自分が今何と戦ってるのか思い出せ?」

 しかし、負けずと僕は童切丸の胸ぐらを掴み怒鳴り返す。

 童切丸は一つ大きな欠伸をした後、周囲を見渡して顔面蒼白した。

「俺様はまた、失敗したのか」

「そうだ? だから、今度は絶対成功させろ?」

「成功させろって……簡単に言うんじゃねぇよ。さっきの見たろ、たったの一口でこの様だ」

「一口で飲み過ぎなんだよ? 強い酒ならいつもと同じような飲み方すんじゃねぇ?」

 頭に血が上った僕の言葉に童切丸は、ハッと何かに気付いたような顔をする。正に阿呆だ。

「ありがとよスケベエ。テメェのおかげで気付いたぜ」

 そう言って、僕の肩に手を置く童切丸に僕は童切丸の両肩を掴んで送り出す。

「……信じてるからな、童切丸? 今度寝たら尻が猿みたいになるぐらい蹴ってやるから、覚悟しとけ?」

 必死な僕を見てケタケタ笑う童切丸は、東雲さんに向き合う。

「待たせたな嬢ちゃん。三度目の正直って奴だ。最後に一回だけ俺様に付き合ってくれよ」

「うふふ、おじさまは本当に面白いわ。ちゃんと抵抗してくれないと狩りは面白くないものね」

「多分、次は成功する。呆気なく終わるなよ、嬢ちゃん」

 そう言って、童切丸は「桜火」を少し口に含むと、目を瞑る。

 火酒を飲んだ童切丸は鞘に納めた刀の柄を握ったまま、しばらく硬直した。

 直後、まるで火打石のように歯軋りで火花を散らした。火の粉は脈打つ童切丸の心臓に引火し、心臓は小さな衝撃を放つと共に熱燃料となり、沸騰した血液を全身へ送る。

 瞑っていた目を開いた瞬間、童切丸の姿が消えた。

 童切丸の赤い眼光は残光となり、彼の奇跡を空気中に残す。

 東雲さんも突如消失した童切丸の姿を追えていないらしく、背後に現れた童切丸は上段に構えた日本刀を振り下ろし、東雲さんの右腕を切断した。

 自らの腕が切断された事に、遅れた激痛で気が付いた東雲さんは本来の土蜘蛛の姿へと変貌し童切丸を探す。

 しかし、探すまでも無かった、何故なら童切丸は土蜘蛛の眼前に居たのだ。

 童切丸は深く息を吐くと、頭上に構えた日本刀を土蜘蛛目掛けて振り下ろした。

「斬鬼流参ノ型――金剛戦鬼?」

 童切丸の放った斬撃は土蜘蛛が持つ四本の右腕のみならず、背後にある我が学び舎の校舎すら両断した。

 災害級の衝撃を受けた校舎は見事に半壊し、明日の休校が確定した。

 常軌を逸した反射神経を持つ土蜘蛛が刀を振り下ろされる直前、咄嗟に左へ飛んでいなければ、きっと真っ二つにされていただろう。

 凄い、これが斬鬼流奥義……。只でさえ人間離れしている童切丸の身体能力が、たった半口の酒で爆発的に増幅されている。

「んだよ。天下に名高い大妖土蜘蛛様が、この程度なんざ白けるぜ」

「半妖風情が、調子に乗るなぁ?」

 四本の脚を失った土蜘蛛は態勢を崩しながらも口から吐いた糸で、童切丸から日本刀を取り上げて、そのまま校舎の残骸に蜘蛛糸で張り付けた。

「これでおじさまは私の体に傷一つ付けられない。さぁ、どうするの!」

「喧嘩なんざ、拳一つで十分なんだよ?」

 嘲笑う土蜘蛛を童切丸は、右手の拳で殴った。

「ぎぃいいいいい?」

 青い血を吐きながら、土蜘蛛は口から血が混ざった糸を吐き童切丸の右腕に巻き付ける。

 右腕の自由を奪われた童切丸は、今度は左手で殴ろうとするが、すかさず左手も糸で自由を奪われる。

 しかし、童切丸の猛攻が止まる訳も無く、歯で右腕に巻き付いた蜘蛛の糸を食い千切ると、土蜘蛛の目、牙、顎の三か所を連続で殴る。

 糸で手を塞がれたのなら頭突きを食らわせ、首に糸を巻かれたのなら両腕に絡まった糸を力任せに振り回し、態勢を崩させると糸を食い千切り殴る。

 なんとか拘束しようとする土蜘蛛と、拘束を食い千切りながら殴り続ける童切丸。

 いつの間にか、攻防が逆転していた。

 そんな二人の攻防を僕はただ傍観していた訳では無い。

 校舎の残骸を上り、先程童切丸から取り上げた刀に巻き付いた蜘蛛の糸を引き?がしている。

 なんとか、柄の部分に絡まった糸だけでも解けた僕は鞘から刀を引き抜くと、そのまま転がり落ちないように駆け下りた。

 童切丸に反撃の牙が迫っていた時、僕は童切丸を拘束している蜘蛛の糸を横から切断した。

「肉が、邪魔をするなぁあああああ?」

 童切丸を拘束していた糸が全て切断された土蜘蛛は、僕目掛けて蜘蛛の糸を放ち、僕は為す術も無く繭のような糸に全身が包まれる。その前に、刀が蜘蛛糸に巻き込まれないよう、投げ捨てる様に手放した。

「スケベエ。少し見ない間に男前になったじゃねぇか」

「嫌味言ってる暇があるなら、トドメを刺して下さい!」

 簀巻き状態にされている僕を嘲笑する童切丸に対して、僕は彼を睨むことしか出来ない。

「さて、じゃあこの技で終わりにするぜ。蜘蛛の嬢ちゃん!」

「ぎぃいいいいいいいい?」

 僕が投げ捨てた愛刀を拾った童切丸は、むき身の刀身を下段に構え、

「斬鬼流奥義――」

「――妖術、黒羽の旋風」

 土蜘蛛目掛けて振り上げようとした瞬間、目隠しをするような無数の黒羽が童切丸と土蜘蛛を仕切るように舞い上がった。

 黒羽に視界を完全に奪われる前に、土蜘蛛目掛けて刀を振り上げた童切丸だったが、その刃は空を切るのみ。

 既に人間の姿に戻った土蜘蛛は、遥か上空へ天狗の少女が連れ去っていた。

 きっと、トドメの一撃を妨害した黒羽を出したのは、土蜘蛛の攻撃で意識を失っていた天狗の少女なのだろう。

 しかし、僕には彼女が土蜘蛛を助ける理由が分からない。

 土蜘蛛は大変に危険な妖怪だ。今ここで逃がす訳にはいかない。

「童切丸さん! 急いで追いましょう!」

 土蜘蛛の糸に全身の自由が奪われている僕は、童切丸の返答が無い事に疑問を感じた。

 そして、何かが倒れる音が聞こえた時に、倒れたのは童切丸なのだと気が付いた。

 結局、土蜘蛛の逃走を許してしまった僕達は、しばらくして駆け付けた祓堂の人達に救助されるような形でキヨ商店へ戻った。


 それから二度目の夜が訪れ、百鬼夜行が京都の町を襲った。

 土蜘蛛との戦闘で意識を失ったまま、童切丸は目覚めなかった――。

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