座敷童の怪

 遥か古の時代より、病は妖の仕業とされる事が多々あった。

 原因不明な恐怖を妖の仕業だと決めつける他無かったから、かもしれない。

 医学が進歩するに連れて、病の原因は妖などでは無く細菌やウィルスが原因だと判明した。

 しかし、医学の進歩は思わぬ弊害を齎した。

 人々から妖への恐れが薄れる事に他ならない。

 妖や妖怪、物の怪が度々目撃される現代には、妖狩屋という職業が存在する。

 彼等の存在は人々を安心させると同時に、傲慢にさせた。

 未知の存在を恐れなくなった人々の信仰は薄れ、今まで崇めていた神や仏すら蔑ろにする人が目に見えて多くなった。

 私は怒らせてしまった。

 決して怒らせてはいけない、彼女を怒らせた私に下される罰はきっと計り知れない恐怖と絶望なのだろう……。


 私がまだ五つの頃、一人っ子だった私に両親が弟か妹が欲しく無いか、と聞いた事があった。

 はっきりと覚えていないが、当時の私はこう答えたそうだ。

「ううん、だっていつもお姉ちゃんが遊んでくれるから、僕は全然寂しく無いよ!」

 両親は首を傾げたが、幼少期特有の空想癖だと思って深く気にしなかった。

 誰も居ない部屋の片隅で、誰かと会話する幼い私に母は尋ねた。

「栄(えい)君は、一体誰とお話してるのかな?」

「お姉ちゃんだよ!」

「お姉ちゃんはどんな子なのか、教えてくれる?」

「うん! 顔と服が真っ赤で、おかっぱ頭の女の子だよ!」

 私の言葉を聞いた母は、父に相談し妖狩屋を自宅へ招く事にした。

 我が家に来た妖狩りは法衣を着た法師だった。

 法師は僕とお姉ちゃんの前に立つと、両親にこう言った。

「この妖怪は座敷童ですな。非常に珍しい妖怪で、幸運を齎すと言われています。祓ったりせず、大切にもてなすのが良いでしょう」

 両親は法師の言う通り、座敷童にお供え物をするようになった。

 それから、座敷童のおかげか父の事業が日の目を浴びて、私達家族の生活は裕福になった。

 私が高校に入学する頃、両親が共に流行り病で命を落としてしまった。

 父が残してくれた遺産があった為、金銭的な不自由は無かったが、思い出が多く、尚且つ一人で住むには広すぎる家を売却し、私は大学進学と同時に上京した。

 不思議だった事は、子供にしか見えないと言われる座敷童が高校生の私にも見えていた事だ。

 しかし、口を利かない座敷童は私からすると、同居していると言うよりも部屋の隅に『居る』という表現が正しかった。

「私は東京へ行かなければならない。座敷童、お前も来るか?」

 座敷童は相変わらず無口で言葉を発しなかったが、私の言葉に頷いた。

 両親を亡くした後も、大学へ進学した後も、私は座敷童へのお供え物を欠かす事は無かった。

 私には夢があった。

 それは、両親を奪った流行り病の特効薬を開発する事だった。

 大学も無事卒業し、製薬会社を立ち上げた私の事業は成功し、今では私の作った大栄製薬は大日本帝国一の製薬会社と言われるようになった。

 病に蝕まれる命を一つでも多く救いたいという、一心だった。

 成功に溺れ、座敷童へのお供え物をしなくなっていた。

 いつからお供え物をしていないのか、それすら忘れた頃。一人の男が通りを歩く私を呼び止めた。

「もし、貴方は大曾根栄作(おおぞね えいさく)殿とお見受けする」

 黒いマントを羽織り、まるで宣教師のような姿をした長身の男を不気味に感じたが、彼は私を呼び止めるとこう言った。

「自宅に珍しい妖怪が居るでしょう」

 誰一人として座敷童の話をしていないのに、この男が私の家に座敷童が居る事を知っている事に、私は驚きを隠せなかった。

「一体、何の事かな?」

 妖怪への風当たりが厳しい時代で、私は座敷童の存在を隠していたのだ。

「心当たりが無いのなら、結構。座敷童の妖力は我々の界隈では高値で取引されています。妖力が最も含まれるのは、血液。座敷童の血液をお持ちであれば、壱百圓で買い取りましょう」

 長身の男はそう言って、姿を消してしまった。

 新たな薬の研究開発には、金はいくらあっても足りない。

 この時、私はふと考えた。

 まだ、座敷童は私の屋敷に居るのだろうか?

 座敷童が見えなくなったのでは無く、多忙な日々の中で私は彼女の存在を忘れつつあったのだ。赤い着物に赤い肌をした童女の姿を思い出すも、どこか朧だった。

 帰宅後、私は屋敷の中で彼女を探した。すると、客間の隅に座敷童を見つけて安堵した。

 魔が差した私は、彼女の着物の袖を捲り注射針を彼女の腕へ――。

「――災いあれ」

 座敷童の赤かった顔はまるで血のように赤黒く変色し始め、鬼のような恐ろしい形相、憎悪に満ちた眼で私を見上げた。

「災いあれ。災いあれ。災いあれ。災いあれ」

「やめろ、やめてくれ」

「災いあれ。災いあれ。災いあれ。災いあれ。災いあれ。災いあれ。災いあれ。災いあれ。災いあれ。災いあれ。災いあれ。災いあれ。災いあれ。災いあれ。災いあれ。災いあれ」

 呪詛を唱える座敷童の声は老若男女、全て異なる声で複数人から同時に言われているように聞こえた。それはまるで、この世界から呪われたような感覚に陥った。

「やめろぉーーーっ?」

 座敷童の呪詛が恐ろしくなった私は、大声を上げ、耳を塞ぎながら私の屋敷を飛び出した。

 取り返しのつかない過ちを犯した私に待っている末路とは、一体――。


 春の天気は安定しない。

 三日ぶりの雨が降る学校終わり、僕は伍拾圓という多額の借金を返済する為に今日もキヨ商店へと向かう。

 僕は雨が嫌いじゃない。

 雨が降っている日は人の通りも少なく、雨音が傘を叩く静けさがここ最近の慌ただしい日々で疲れた心を洗い流してくれるから。

 しかし、この雨によって桜の花弁が散ってしまうのは、少し勿体ない気持ちになる。

 そんな事を考えながら大通りから離れた小さな通り、更にその路地裏を通る。

 大通りを歩くよりも、圧倒的にキヨ商店への近道なこの路地裏は昨日童切丸に教えてもらった道だ。

 傘を差したままギリギリ通れるような狭い路地で、何か落ちている。

 路地を進むにつれて近づき、落ちている物が物では無く、人だと気付いた時に僕は慌てて駆け寄った。

 民家の高い塀を背もたれにして、ぐったりと力なく座っている女性は雨に打たれ、身に纏っている青と白を基調とした着物のみならず、全身がずぶ濡れだった。

 歳は二十歳前後だろうか、長い黒髪に雨水を滴らせている女性は意識を失っているようで、目を閉じている女性に駆け寄ると僕は急いで呼吸と体温を確認した。

「信じられないぐらい、冷たい。それに、呼吸も薄い」

 手遅れなのか。嫌な思考が脳裏を過るが、まだ助けられる命かもしれない。

 学生とは言え、医者の卵なのだ。

 目の前で失われそうな命を黙って見過ごす事など、出来るわけが無い。

 ここからだと、病院に行くよりもキヨ商店の方が近い。

 まずは体温と呼吸を正常に戻す事が先決と判断した僕は、傘を捨てて女性を担ぎキヨ商店へと走った。


 雨の日のキヨ商店は商品が雨で濡れてしまわないように、戸が閉められていた。

 慌てている僕が乱暴に戸を開くと、戸が木枠にぶつかる音が鳴り響き、中に居た三人が驚いた表情で入り口を開けた僕を見た。

「平助様、一体どうされたのですか?」

「おはつさん! この人の体を拭いてあげてください! 僕はお湯を沸かします!」

「は、はい!」

 僕の逼迫した様子を察したおはつさんは、事情も聞かずに女性を支えながら二階へと運んでくれた。

「キヨさん! 台所お借りします!」

「かーっ! 好きにしな!」

 僕は商店の奥にある台所を借りて、大量の水を入れた鍋に火を掛けた。

 台所で火を見守る僕に童切丸が声を掛けた。

「おい、スケベエ。あの嬢ちゃん一体どうした?」

「分かりません。この雨の中、路地裏で倒れていたのを見つけたんです」

 童切丸は何も言わず、二階への階段を上って行った。

 直後、二階からおはつさんの悲鳴が聞こえた。

「童切丸様! 急に戸を開けるのはお止め下さいと、あれ程申したではありませんか!」

 きっと、おはつさんが女性の服を脱がし、体を拭いてあげている所を童切丸が入ってしまったのだと、その声だけでおおよそ想像が付いた。

 童切丸は左の頬に平手された跡を付け、一階へ降りて来た。

「いつつ、おはつの奴、ビンタするこたねぇだろ……」

 湯が沸き、鍋を手拭いと一緒に二階へ持って行く。

 僕は童切丸と同じ轍を踏まないように、閉められた戸の前でおはつさんに声を掛けた。

「おはつさん。湯が沸いたので持ってきました。入っても良いですか?」

「平助様、ありがとうございます。どうぞ」

 僕の両手が塞がっている事を予想したおはつさんが戸を開けてくれると、意識を取り戻していた女性が白装束を着て畳の上で正座していた。

 僕は沸かしたお湯が無駄になるよりも、彼女を救えた事に安堵した。

「君が平助。倒れてたウチの事、助けてくれたんでしょ?」

「いや、あんな路地裏で人が倒れていたら、た、助けるのは当たり前の事ですよ!」

 正座をしたまま、笑顔で微笑む彼女に僕は緊張のあまり視線を逸らして、早口で喋る。

 こんな美人にお礼を言われて、照れない男は童切丸ぐらいだろう。

 そんな僕の耳元におはつさんは手を当てながら、小声でこう言った。

「平助様、この方の体を拭う時に見てしまったのですが、彼女は人ではありません。妖怪です」

「はい?」


 まだ乾いていない着物を着た彼女は、僕達四人の前で自己を紹介した。

「ウチの名は、つゆと申します。見て分かる通り、濡れ女子と呼ばれてる妖怪です」

 そう、おつゆさんは妖怪だった。

 おはつさんが冷えた体を拭っていた時に、何度拭いてもすぐに濡れてしまう彼女の髪や体で人間では無く妖怪だと気付いたらしい。

 その為、どうせ着物もすぐに濡れてしまうから、という理由で本人がまだ乾いていない元来ていた青と白の着物をすぐに着てしまったのだ。

 妖怪と聞かされても室内でも髪や肌が濡れている事を除けば、普通の人間にしか見えない。

「おつゆさんは、どうして雨の中あそこに倒れてたんですか?」

「実はウチ、憑りついてた彼に騙されて祓堂に連れて行かれて、今も払堂の連中から逃げてる最中なの」

 祓堂という名前は僕も知っていた。

 何故なら、僕が物々に医学書を奪われた時に最初に駆け込んだ妖狩屋が、この町最大手と言われる祓堂なのだ。

 結果としては、門前払いをくらって酔っぱらった童切丸に助けて貰ったんだけど……。

「商売仇の追ってる妖怪とは……。平助、あんたこんな厄介なもん拾って来て、どうするつもりだい?」

「待ってください! 僕は人助けと思って彼女を連れて来たんです! まさか、こんな事になるとは思ってなくて……」

「かーっ! 全く、浅い考えで行動するのは相変わらずさね。男なら覚悟決めて責任取るさね」

「せ、責任を取る?」

 キヨさんの言葉に僕とおつゆさんが顔を真っ赤にする。

「ああ、そうさ。厄介な事になる前に、祓堂さ行って、この小娘を返してくるさね」

 口から煙を吐くキヨさんの至極真っ当な意見に、僕は反論の余地が無かった。

 しかし、キヨさんの言葉に彼女は俯いた。

「確かに、ババアの言う通りかも」

「あんた、今すぐ祓われたいかい?」

「ウチが居たら、きっとまた祓堂の奴らが追ってくるし、ウチの事を匿ってる事がバレたら平助も危ない目に遭うかもしれない」

「…………おつゆさん」

「だけど、ウチまだ死にたくない! ようやく運命の人に会えたんだもん!」

 おつゆさんの言葉に、この場に居る全員が言葉を失った。

「えっと、運命の人? 誰?」

「なにとぼけてんの? さっき二階でウチが笑った時に照れたよね? 責任取れってババアが言った時も顔赤くしたよね? それってもうウチの事好きって事だよね? ウチら両想いって事だよね? 平助は前の彼みたいにウチの事裏切ったりしないよね?」

 おつゆさんの僕を見る目が、完全に妖怪のソレだった。

 僕の手を包み込むように両手で握る、おつゆさんの手はじっとりと湿っている。

「は、はは……」

 乾いた笑いしか出来ない僕は思い出す。濡れ女子という妖怪の性質を――。

 確か、雨の日に男に笑いかけて、笑い返すと取り憑かれる妖怪。

 つまり、僕はもうおつゆさんに取り憑かれてしまった。という訳か。

「で、結局スケベエはこの嬢ちゃんをどうしたいんだ?」

「僕は……」

 痺れを切らしたように尋ねる童切丸、僕は言葉を詰まらせる。

「僕は、おつゆさんを助けたい! 僕は医者になる男です。人も妖怪も関係無い、今ここでおつゆさんを見放してしまったら、僕は僕の理想とする医者になれない!」

「…………カッコよ過ぎて、濡れる」

「助けるっつってもよ、どうするつもりだ?」

「キヨ商店で匿って頂けませんか?」

「無理なものは無理さね。妖怪からは、妖気と言って常に特有の気が出ている。他所の妖狩り連中が見つけるのも時間の問題さね。増してや、他でも無い祓堂の連中に追われてる妖怪を置いておくのは、リスクが大きすぎるさね」

「だったら、僕の家で彼女を預かります!」

「スケベエ、テメェその意味分かって言ってんのか?」

「確かに危険かもしれませんが、僕が助けたんです。責任を持つべきなのはキヨ商店では無く僕のはずです」

「全然分かってねーな。良いか、この妖怪を匿うって事はスケベエの家族にも危険が迫るって事だ」

「危険が迫るなんて大袈裟な……。いくら祓堂でも、民間人に危害を加えるような事をする訳無いでしょう」

「……攫われるでしょうね」

「家に火を付けられるだろうな」

「殺されるさね」

 この人達、一体過去に何があったんだ……?

「この世で平助と一緒になれないなら、いっそあの世で……」

 僕以外の誰にも聞こえないような小声で物騒な事を言いながら、袖から小刀を取り出すおつゆさん。

「あの、キヨさん。やっぱり彼女をここに置いて頂く事は出来ませんか? 半年、いや、三か月で良いので」

「かーっ! あんた、人の話聞いてたのかい? リスクが大きすぎるって言ったばかりさね」

「承知の上です! 僕、一生懸命働きます! 働いて、働いて、いつか、祓堂に行っておつゆさんを祓う依頼を取り下げて貰います! ですから、それまでの間、おつゆさんをよろしくお願いします!」

 今までで一番深く、僕は頭を下げた。

 思いつきだけの言葉、考えが足りない。それらは重々承知で頭を下げた。

 僕は僕の儚い命を今日から、少しでも遠い未来へ繋げたかった。

 キヨさんはキセルを吸って、息を長く吐いた後にこう言った。

「……そろそろ、頃合いかもしれないね」

 キヨさんは珍しく会計処から立ち上がると、奥の台所へ歩いて行った。

 そして、右手に持った油揚げを高々と放り投げた。

 突然のキヨさんの奇行によって放り投げられた油揚げ。僕は、意味が分からず見守る。

「――――っ!」

 宙を舞う油揚げを颯爽と攫う一人の女性。

 その正体は、おはつさん。

 頭には狐の耳を生やし、お尻には興奮して揺れる狐の尻尾。両手足を床について、まるで犬のお座りのようなポーズで油揚げを咥えたおはつさんは、化け狐だった。

「――っは! み、皆様見ないでください! こんなはしたない姿を見ないで下さい!」

 油揚げを食べ終え、正気に戻ったおはつさんは慌てて耳と尻尾を隠し、赤面した顔を両手で覆い隠す。

「見ての通り、おはつは妖怪さね」

「キヨ様! 私が醜態を晒す必要はありましたでしょうか!」

「平助。おはつを見て、どう思った?」

「可愛いです」

「平助様?」

「平助、ウチの目の前で早速浮気?」

「おー、モテモテだなスケベエ」

 小刀を抜いて刀身をチラつかせるおつゆさん。

 命の危機が迫っている僕に対して、他人事のように囃し立てる童切丸に殺意が沸く。

「童切丸も半分は鬼の血が流れておる。儂らは妖怪を狩りながらも、妖怪と共存しておる。お前さんは、妖怪と共に生きる覚悟があるかい?」

 真剣な眼差しを向けるキヨさんに、僕の返答はずっと前から決まっていた。

 というか、童切丸の人間離れした技や、おはつさんの言動から、正直言うと僕は薄々彼らが人では無い事に感づいていた。

「キヨさんの言う通り、妖怪との共存が今の世でどれだけ難しいかは想像もつかないです。妖怪の中には物々や影招きみたいな、人に害を及ぼす妖怪も居ます。だけど、童切丸さんやおはつさんみたいな、人を助ける妖怪が居るのも僕は知りました。なので、僕はこれからもっと妖怪の事を知ってから、その答えを出したいと思います」

 取り繕っていない本心からの言葉だが、長くなるとどうも言い訳じみて聞える。

 僕の言葉を聞いたキヨさんは一服した後、

「一月拾圓さね」

「え?」

「出世払いでも何でも良い。一月預かる毎に家賃として拾圓あんたが払いな」

「ありがとうございます!」

「ありがとう、ババア」

「シバかれたいのかい!」

「おいおい、良いのかよ鬼婆」

「かーっ! 儂が良いって言ってんだい! 誰にも文句は言わせないよ! それに、儂だって祓堂の連中には散々仕事を持って行かれて腹が立ってんだ。連中を潰すいい機会さね」

 怒りか恥じらいかで顔を赤くするキヨさんを見て、おはつさんはクスりと笑った。

「では、つゆ様。後程私がお部屋をご案内しますね」

「ウチ、あんたの事認めてないから」

「え? え?」

「こらおつゆさん! これからお世話になる人にそんな態度はダメだろう」

「……平助がそう言うなら、仲良くする。だから、お願い、ウチの事嫌いにならないで?」

「ならないから! ちゃんとおはつさんの言う事聞くんだよ?」

「私も、つゆ様と仲良くなれる気がしません……」

 結局、その日は雨という事もあって依頼者どころか、駄菓子を買いに来る子供すら来ないまま、キヨ商店は営業を終えた。

 帰宅後、僕はおつゆさんがキヨ商店のみんなを困らせていないか、それだけが心配だった。

 キヨさん。怒りっぽくて守銭奴だけど、良い人だよな……。

 僕は今日の出来事を日記のように書き記し、眠りについた。


 翌日、キヨ商店にお客様が来店した。

 駄菓子を買いに来た子供では無く、妖狩りの依頼者だ。

 今回の依頼者は珍しく、事前にキヨ商店へ手紙を寄越していたようで、来る日時は既にキヨさんが把握していた。

 来客前、キヨさんは僕達三人にこう言った。

 おつゆさんの姿が見えないのは、どうやら昨日の疲労からまだ眠っているらしい。

「いいかいあんた達、今日は東京から社長様が来る。かなりの大金持ちさね。粗相の無いように気を付けるんだよ」

 キヨさんの言葉に僕達は各々に適当な返事をして、東京から来るという依頼者を待った。

「東京ってハイカラな人が多くて、憧れちゃいます!」

 待っている間、おはつさんがそんな可愛い事を言った。

 やはり年頃の女性、最近よく聞くハイカラだったり、和洋折衷という言葉が好きなのだろうか。今日のおはつさんの服装も最近流行っている、小袖の上に茶色の行燈袴を履いた和洋折衷スタイルだ。

 しばらくすると、人力車が店の前で止まる音がした。

 その音に反応したおはつさんは、ピンと背筋を伸ばした。

 それと比べ、やる気という言葉とは縁が無い童切丸の背筋はいつも猫背だ。

 ガラガラと音を立てて、キヨ商店の戸が開かれる。

「いらっしゃいませ!」

「ここに腕の良い妖狩りが居ると聞いたのだが、合っているかね?」

 誰かから紹介されてキヨ商店に来たらしい初老の男性は、シルクハットを被り、スーツを着た、いかにもお金持ちそうな風貌の紳士だった。

 やっぱりこの店、駄菓子屋にしか見えないよね。

 キヨさんに、何故駄菓子屋と妖狩屋を兼業しているのか聞いたことがある。

 祓堂という大手を始め、様々な妖狩屋が近隣に出来た事で、今の時代妖狩屋だけでは食べていけないという、なんとも世知辛い理由だった。

「遠くから、よくぞお越しになられました。儂がキヨ商店の店主を務めております。キヨと申します」

「おぉ、貴方が噂に名高い妖狩りのキヨ殿でしたか」

 老紳士はシルクハットを取り、キヨさんに頭を下げた。

 てっきり、キヨ商店の妖狩りは童切丸だけだと思っていた僕は、キヨさんも妖狩りだった事に驚いた。

 確かに、キヨさんは老人とは思えない身のこなしを時折見せるが、まさか妖狩りだったとは。

「よして下さい。儂が妖狩りと呼ばれていたのは、もう五十年も昔の事さね」

「お戯れを、その眼光は悪鬼羅刹と呼ばれていた頃より少しも劣っていないように見えます」

「かーっ! あんたは昔話をしに来たんかい! 早く用件を言うさね!」

 粗相をしないようにと釘を刺していた本人が、粗相をした瞬間である。

「これは失礼。私は大栄製薬の代表取締役しております、大曾根栄作と申します。ご依頼したい内容は、妖怪との関係修復なのですが可能でしょうか?」

「妖怪の名前を言ってみな」

 化けの皮が剥がれたと言わんばかりに、笑顔を取り繕うのを止めてキセルを吸い始めたキヨさん。

「座敷童です」

「座敷童って、あの幸運を齎すと言われてる稀少な妖怪ですね」

「おっしゃる通りです」

「なぁスケベエ、お前やたらと妖怪に詳しいよな。ちょっと気持ち悪ぃぞ」

「理不尽!」

「かーっ! あんたらは黙ってな! 大人で座敷童が見えるなら、友好的な関係だったはずさね。あんた、何かしたね?」

「…………はい。実は、ある男に座敷童の血が高く売れると聞いて、欲望に目が眩んだ私は座敷童から採血しようとしました。すると、座敷童は鬼のような形相で憤怒し、呪詛を唱え始めました。恐ろしくなった私は、それ以来屋敷に帰る事が出来ていません」

「……ふぅ、自業自得さね。座敷童は妖怪と呼ばれているが、神様に近い存在さね。その怒りに触れたら最後、怒りが鎮まるまで災いが訪れ続けると言われている」

「そんな……。座敷童との関係を修復する事は不可能なのでしょうか?」

「それは、お前さん次第さね」

「私次第……? 一体、私は何をすれば良いのですか?」

「謝ったのか?」

 困惑する紳士に対して、童切丸が少し腹立たしそうに問うた。

「確かに……変貌した座敷童を恐れるあまり、私は一度も謝っていない」

「人も妖怪も関係無い。相手を怒らせて、こちらに非があるなら謝るべきだぜ」

 凄い、童切丸が至極真っ当な事を言っている。

「私が謝罪の言葉を述べて、頭を下げれば許して貰えるだろうか?」

「それだけじゃ、難しいだろうね。相手は神様だと思った方が良い、神様に誠意を伝えるには儀式を用いた祈祷が必要さね。討伐と違って、祈祷は成功するかも分からないし、費用も高いがやるかい?」

「費用は惜しまない、座敷童との関係を修復できる可能性が少しでもあるのなら……ぜひお願いしたい」

 頭を下げる紳士にキヨさんはニヤリと笑った。

 きっと、キヨさんには紳士は人では無く、札束にしか見えていないのだろう。

「商談成立さね。今回はおはつ、あんたも行って来な」

「良いのですか!」

「祈祷に長けてるおはつが行った方が、野蛮な男連中に任せるよりずっと安心さね。男連中はおはつの用心棒だ。じめじめして鬱陶しいから、おつゆも連れて行きな」

「でも、それじゃあお店にはキヨさんしか残らないじゃないですか」

「儂一人じゃ、何か問題あるって言いたいのかい?」

「いえ、そういう訳じゃ」

「分かったなら、とっとと行って来な! あんたら、依頼者に迷惑掛けんじゃないよ!」

 こうして、僕達は座敷童の怒りを鎮める為、東京にある大曾根氏宅へと発つ事となった。


 刺繍が施された柔らかいソファー。豪華絢爛な内装、先頭車両から聞こえてくる汽笛の音。

 人生で初めて乗る蒸気機関車に恥ずかしながら、僕は興奮を隠しきれなかった。

「見てみろよおはつ! 早すぎて景色がスゲー勢いで流れてくぞ!」

「見て下さい童切丸様! あっという間に京都を出てしまいました!」

 窓から見える景色を食い入るように見ている、この二人程じゃないけど……。

 童切丸のテンションが高いのは、酔っぱらっているからである。

 というか、童切丸はいつの間に酒を買ったんだ? いつの間に飲んだんだ?

 気が付くと、いつも手に酒瓶を持っている気がする。

「平助~。ヒマ~。かまって~」

 まるで子供のように駄々をこねるおつゆさんは、蒸気機関車に全く興味が無さそうだ。

「キヨ商店の皆様が、蒸気機関が初めてとは意外でした」

「あんま遠くから依頼って来ないからな。東京からの依頼はおっさんが初めてだぜ」

 誰に対しても平等に失礼な態度と言葉遣いをする。童切丸に僕は尊敬の念すら抱きつつある。

「東京にも妖狩屋はありますよね? どうして、わざわざキヨ商店にお越し頂いたんですか?」

「実は、東京の妖狩屋にも何件か相談したのですが、事情を話しただけで断られてしまいまして。断るのならまだ良いのですが、適当なお祓い道具を売りつけようとしてくる詐欺紛いの連中ばかりでして……」

 そう言って髭を触りながら渋い顔をする紳士、栄作氏に僕は同情した。

「ところで、皆様は凄くお若いようですが、どういった経緯で妖狩屋になられたのですかな?」

 栄作氏の雑談変わりの疑問だったが、童切丸やおはつさんが何故キヨ商店で働く事になったのかは、僕も気になっていた。

「俺様はガキの頃、妖怪に親を殺された所を鬼婆に拾われた」

「それは……配慮が足らず申し訳無い」

「弱い奴は強い奴に殺される、親父と母親が弱かったから死んだ。それだけだ」

 窓の外に流れる景色を見る童切丸の目は、景色では無く遠い過去を見ているように思えた。

「おはつさんは、どうしてキヨ商店に来たんですか?」

「えっ! え、えーっと……昔の事なのですが、ついつい村を滅ぼしてしまった事がありまして……」

 言い淀むおはつさん。僕と栄作氏の開いた口が塞がらない。

 まさか、こんな美女がついつい村を滅ぼしてしまうとは、想像もつかない。

「はははっ! 面白いお嬢さんだ」

 僕はおはつさんが妖怪だと知っているが、おはつさんが只の人間だと思っている栄作氏は冗談だと思ったらしい。

「はぁ~。自慢うざっ」

「うざっ?」

「こら! おつゆさん! おはつさんにそんな口効かない!」

「だってー」

「だってじゃない!」

 不貞腐れたおつゆさんは、そっぽを向いてしまう。

「君はまだ学生だね? 一体どうして妖狩りに?」

「僕は物々という妖怪を童切丸に退治して貰ったので、その依頼料を支払う為に働いていると言いますか、働かされていると言いますか……」

「その若さでしっかりしている。将来が楽しみだ」

「いやぁ……」

 栄作氏の言葉に照れてしまった僕は、頭を掻きながら視線を逸らした。

「お嬢さんにも聞いていいかな?」

「ウチは平助と一緒に居たいだけだし」

 そう言って僕の腕に抱き着くおつゆさんは、やっぱり湿っていた。

 苦笑いを浮かべる栄作氏からは、この四人に任せても大丈夫なのだろうかという、不安の色が透けて見えていた。

 京都から東京までの長い旅路は、まだ始まったばかりだと言うのに。

「だ、大丈夫ですか童切丸様? 顔色が優れないようですが……」

「うぷっ、ちょ、ちょいと酔った……」

 酒の酔いと乗り物酔いを併発した童切丸が口元を抑えながら、フラついた足取りで後部車両へ歩いて行った。

 本当にこの人はブレないな!


 大曾根邸は想像を超える大きさだった。

 部分的にレンガを取り入れられた白塗りの外壁、曲線を描く窓枠は西洋の建築技術が用いられており、建物内部も暖炉やソファーが栄作氏が保有する財力の豊かさを示している。

「わぁ~。素敵なお家です」

 西洋文化が好きなおはつさんは、目を輝かせて飾られている皿の一枚すら見逃さないように屋敷中を見渡している。

「っけ、こんなデカい家に一人で住むなんざ、俺様は落ち着かねーぜ」

 別に童切丸が住むという話では無いのに、嫌味を言う酔っ払い。

「平助はもっと大きいお家を建てるもんね?」

 蒸気機関車からずっと僕の左腕を離さないおつゆさんは、無理難題を課してくる。

「皆様、座敷童は二階の部屋におります」

 好き勝手に振舞うキヨ商店に汗を拭いながら、栄作氏は僕達を二階へ案内した。

「どうか、座敷童をよろしくお願いします」

 案内をしたと言ったが、栄作氏は階段の場所を案内しただけで二階には僕達だけで行くようだった。

 二階へ上る螺旋階段の途中から、僕は異変に気付いた。

 最初に感じた違和感は、声だった。

 二階から微かにうめき声のような人の声が聞こえてくるのだ、それも一人では無く様々な人の声。

 栄作氏の言っていた、座敷童の呪詛に違いない。

 声が聞こえてくると、僕は苦しみに襲われた。

 まるで、見えない手に首を絞められているような息苦しさ、病に侵されているような全身の気怠さ、平衡感覚が徐々に薄れていき、僕は階段の手すりに捕まって体を支えるのがやっとだった。

 栄作氏が何故、階段を上らなかったのか理解した。上れなかったのだ。

「おいおい、大丈夫かよスケベエ」

「……大丈夫じゃ、無いです。童切丸さん達は、平気なんですか?」

 平然と先行している童切丸とおはつさん、二人を見上げながら僕は疑問を口にする。

「呪詛を唱える妖は珍しくねぇ。まぁ、慣れってやつだ」

 この耐え難い苦痛に慣れとかあるのか?

 朦朧とする思考の中で考えがまとまらない。

「人間の平助様は一階に戻られた方が良いのでは……」

 おはつさんの心配そうな声が聞こえる。

「平助、下りる?」

 耳元でおつゆさんが囁く。

 流石に、今回は僕が出しゃばれる妖怪じゃ無かったらしい。

 おつゆさんに頼んで、一階へ下ろして貰おう。そう考えた時、上から童切丸の声が聞こえた。

「テメェら何言ってんだ? スケベエだって男だ。男には無理も無茶もねぇ。そうだろ?」

 本当にこの男は、いつも自分基準で物を言う。

 きっと、ここで下りたら今後一生、階段も上れない男と馬鹿にされるに違いない。

 そういう所が本当に、腹が立つ!

 童切丸に対する怒りが、僕の心に棲みついていた腑抜けを追い出した。

 歯で口の中を噛み切る痛みで、朦朧としていた意識を覚醒させる。

「……もう、大丈夫です」

 手すりを掴んでいる右手、階段を踏みしめている両足に意識を集中させる。

 座敷童の呪詛で奪われていた感覚が、ほんの少しだが戻って来た。

 左からおつゆさんが支えてくれるから、階段を踏み外す事も無い。

 一段ずつ上り二階に上がると、二階の廊下突き当りのドアの前でおはつさんと童切丸が立ち止まった。

 ドアの中からは、階段からも聞こえていた「災いあれ」という呪詛がよりはっきりと聞き取れる。間違いなく、この中に座敷童が居る。

「皆様、覚悟はよろしいですか?」

 真剣な面持ちで僕達の顔を見て確認した後、おはつさんは座敷童が居る部屋のドアを開けた。

 ドアの隙間から漏れる瘴気に思わず咽る。

 部屋の壁には大量の本が詰められた本棚が並び、本棚を背にするように木製のデスクが置かれている。どうやら、この部屋は元々栄作氏の書斎だったようだ。

 書斎の隅、呪詛を吐き続ける妖怪を目にした途端、まるでこの世の憎悪を集約したような悍ましい外見に僕は嘔吐した。

「……うぉぇ」

 逆流した胃酸と胃の内容物が、口の中で混ざり合い気持ち悪い。

 あれが、座敷童……? 体こそ小さいが、その姿を目にした途端言いようの無い根源的恐怖が込み上げて来た。キヨさんが妖怪よりも神様に近いと言った理由がようやく分かった。

 ……あれは、人がどうこう出来る存在じゃない。

 何も言わずに背中を擦ってくれるおつゆさんの優しさと、自分の情けなさに僕は涙が出た。

「よく頑張ったなスケベエ。あとは俺様達に任せとけ」

 そう言うと、童切丸とおはつさんは座敷童の前に歩み寄ると、おはつさんは座敷童の目の前で、童切丸はおはつさんの後ろで並ぶように正座をした。

 正座したおはつさんは日本語とは少し違う言語で、呪詛を唱え続ける座敷童に語り掛け始めた。

 あれが、神様に対する謝り方なのだろうか?

 お坊さんが経を読むのとは少し違う、流れるような未知の祝詞は座敷童の呪詛をほんの少しずつだが弱めていった。

 刀を脇に置き、目を閉じて正座している童切丸も相当な集中力を使っているに違いない。

 酒瓶と刀を振り回す事しか出来ない人じゃ無かったみたいだ。

 おはつさんが祝詞を始めて、一体どれだけの時間が流れたのだろうか。

 書斎の窓から見える外は既に、夕日の赤に染まっている。

 体調もかなり回復した僕は二人の邪魔をしない為に、おつゆさんと一緒に書斎の入り口で正座をして、二人を見守っている。

 二階へと上がる途中から聞こえていた座敷童の呪詛は、書斎の入り口でも聞こえない程小さくなっていた。

 おはつさんの祈祷も終わりそうだなと予想した時、突如書斎の窓が割られ、耳を刺すような甲高い音が響いた。

 咄嗟に意識を覚醒させるような高音と共に、窓を蹴り割って書斎へ侵入して来たのは二人組の男だった。

 一人は黒いマントを羽織った、宣教師のような風貌をした男。

 もう一人は人では無く、鬼だった。

 薄暗い青の皮膚をした鬼は頭部に二本の角を生やし、物々のような怪物染みた外見では無く、人に近い体格をしている。黒の小袖をだらしなく着ている為に一見人かと見間違うような鬼。

 童切丸よりも一回り大きい体格をした青鬼は、皮膚がピリピリと痺れるような妖気を放っている。ただの妖怪では無い事は間違いない。

「全く、もう少しスマートに侵入出来なかったのですか。これだから鬼は野蛮で嫌ですね」

「どうせ全員殺すのだ。入り方など、どうでも良い」

 突然の侵入者に誰もが呆気にとられる。その中で唯一動いたのは童切丸だった。

 脇に置いていた日本刀を抜きながら、侵入者へ切り掛かる咄嗟の判断力は流石と言わざるを得ないが、この状況で集中力を切らさずに祈祷を続けている、おはつさんの集中力も常軌を逸している。

 侵入者の青鬼は、超人的反応速度から繰り出された童切丸の刀を懐に差していた仕込み刀で易々と受け止める。刀と刀がぶつかった事により、甲高い金属音が響き渡る。

「会いたかったぞ、童切丸?」

「俺様は二度と会いたくなかったぜ、蒼鉄(そうてつ)!」

 初撃を受け止められた童切丸は、後ろに飛び退き間合いを取る。

 そして、ちらりと背後に居る祈祷中のおはつさんを一瞥する。

 侵入者は二人、増しては背後に身動きの取れない仲間を庇っている童切丸は言うまでも無く不利であり、相手は童切丸の太刀筋を容易く受け止めてしまうような実力者だ。

 加えて、宣教者の男の実力は未知数。

 迷わず童切丸に加勢するべきだが、それは彼らに匹敵する程の実力があればの話だ。僕が加勢に行っても、逆に足手まといになる事は目に見えている。

「三年前の無念、ここで晴らす!」

「今度こそ地獄に叩き落としてやるぜ!」

 蒼鉄の刀を真正面から受ける童切丸だが、狭い書斎では刃渡りの短い仕込み刀の方に理が傾いた。

 日本刀を構える童切丸は壁や天井に阻まれ、動きにくそうに舌打ちをしながら、様々な角度から繰り出される蒼鉄の攻撃をなんとか受け流している。

「どうした童切丸! 貴様の実力はこんなものだったのか!」

 間髪入れず、目にも止まらぬ連撃を繰り出す蒼鉄の刀を童切丸は後退りながらも一つ一つ刀で捌いている。

 童切丸のすぐ背後にはおはつさんが居る。これ以上は下がれないと判断した童切丸は、蒼鉄の僅かな隙を付き、腹部に蹴りを食らわせた。

「――っぐ! そうこなくては、面白くない!」

 童切丸の蹴りを受けた蒼鉄は余裕の笑みを見せる。

 状況が悪すぎる。何か、この絶望的な状況を打開する物は無いか……。

「平助……」

 苛立つ僕を心配したおつゆさんが、僕の袖を掴んだ時に一つの策を閃いた。

「おつゆさん、少しの間それを僕に貸して欲しいんだ」

 僕はいつもおつゆさんが袖からチラつかせている小刀を指差す。

「いいけど、どうするの? まさか、平助も戦いに」

 僕はおつゆさんから小刀を受け取ると、小刀を童切丸に向かって投げた。

「隙だらけだぞ! 蒼鉄!」

 僕の声に反応した蒼鉄は、こちらを振り向くと首を傾けて僕の投げ放った小刀を避ける。

「馬鹿者、そんな攻撃がこの蒼鉄に当たる訳無かろう」

「流石だぜスケベエ、よく見てやがる」

 持っていた日本刀を床に突き刺し、僕の投げた小刀を受け取った童切丸はそのまま蒼鉄の右腕を切りつけた。

「なに? まさか、最初からこのつもりで」

 童切丸に切り傷を受けた右腕を庇いながら、蒼鉄は驚愕の表情を浮かべる。

「だが、もう不覚は取らん。そんな小刀で何が出来ると言うのだ!」

「それは、見てからのお楽しみってな」

 童切丸は深く息を吐くと、逆手に持った小刀を眼前に構えた。

「斬鬼流参ノ型――金剛戦鬼(こんごうせんき)?」

「小賢しい?」

 童切丸の放つ太刀筋を逸らそうと、仕込み刀で応戦した蒼鉄だが、刀と刀が触れた瞬間に両者の刀が激しい音を立てて砕け散った。

「――馬鹿なっ!」

「ちっ、この刀じゃ技に耐え切れねぇか」

 童切丸は床に差していた日本刀を引き抜き、蒼鉄に向ける。

 小刀が砕け散った瞬間、隣に居るおつゆさんの青ざめた顔から僕は目を背けた。

「さぁて、降参するなら優しくその首を切り落としてやるが、どうする?」

「ほざけ……この蒼鉄、例え素手でも最後まで鬼として貴様等鬼切りと戦う?」

 童切丸から向けられた刀を掴み、蒼鉄の右手から青い血が床に滴り落ちる。

「――そこまでです、蒼鉄。目的は達しました」

 いつの間にか、姿を消していた宣教師の男が手に持っていたのは、赤宝石色に輝く液体の入った小瓶だった。

 まさかと思い、座敷童の方へ振り向くと、気を失ったおはつさんと、祈祷が不完全で止まった事により呪詛を強める座敷童が居た。

 間違いない、あの小瓶の中身は座敷童の血液だ。一体、いつの間に……。

 僕のみならず、童切丸にも気付かれず背後に回ったなんて、とても信じられない。

 入って来た窓から飛び去った宣教師の男を追う前に、蒼鉄は童切丸に怒気の含んだ声で言い残した。

「その命、しばらく預けておくぞ童切丸! また近いうち、貴様に引導を渡してやる。覚悟しておけ?」

 二人組の侵入者が去った後、座敷童の呪詛が強まる中で童切丸は日本刀を構えた。

「仕方ねぇ。この刀なら多分殺せるだろ」

 日本刀を上段に構え、深い呼吸をする童切丸。

 彼は本能的に、これ以上座敷童を放置する事は危険だと察知したのだろう。

「――お待ちください!」

 息を切らしながら、現れたのは栄作氏だった。

「駄目だ、これ以上放って置いたらこの屋敷の外にも呪いがバラまかれる。呪いは天災になって、多くの人間が死ぬ事になる」

「ほんの数秒で良いのです。どうか、私に謝罪する機会を下さい」

 栄作氏の瞳を見た童切丸は、何も言わなかった。

 僕ですら立つ事が出来ない程に強く、驚異的な速度で危険が増す呪詛の中、ふらつきながらも座敷童の前に歩み寄った。

 体験したから分かるが、きっと座敷童の前に立つ栄作氏は今強烈な眩暈と吐き気に襲われていて、立っているのもやっとの状態に違いない。

 秒毎に強まる呪詛を唱え続ける座敷童の前で膝立ちをした栄作氏は、座敷童を抱きしめた。

「本当に、すまなかった。お姉ちゃんが寂しい思いをしている事を私は、忙しさを言い訳にして見て見ぬフリをしていた。金に目が眩んで、お姉ちゃんの血を採ろうともした。今までお姉ちゃんに受けた恩を仇で返した。本当に、何度謝っても……許されない事をしてしまった」

 至近距離で呪詛を浴び続ける栄作氏は目、耳、鼻から血を流し、言葉の一つ一つからも息苦しさが伝わって来る。

 きっと、今栄作氏の全身には耐え難い激痛が常に走っているに違いない。

「どうか、私だけにして欲しい。私はお姉ちゃんのおかげで十分に生きた。今まで……本当に……ありがとう」

 その言葉を最後に、栄作氏は書斎の床に倒れ込んだ。

 それと同時に座敷童の呪詛がピタリと止まり、今まで「災いあれ」という言葉に包まれていた書斎に静寂が訪れる。

 気が付くと、座敷童の表情が鬼から童子に変わっている。

 体中の穴という穴から血を流し、倒れている栄作氏を見下ろした座敷童は何を思っているのだろうか。

 しばらく、呆然と眺めた座敷童は呟く。

「…………さようなら、坊」

 そう呟くと、座敷童は瞬く間に姿を消した。

 座敷童が去った家には不幸が訪れると言うが、もうこの屋敷に住んでいる者は居ない。

 依頼者の死、という最悪の結果で終わってしまったこの依頼。

 童切丸は僕達に「最悪な結果にならなくて、良かった」と語ったが、それは本心なのだろうかと疑問を感じた。

 帰りの鉄道の中で童切丸が一滴も酒を口にしなかったのは、行きの嘔吐から反省しただけではないのだろと、なんとなく思った。


 間章 「総大将」


 時は遡り、童切丸一行が東京へと発った後、店主キヨが一人で番をしていたキヨ商店には一人の来客があった。

 雨の降る日は閉められている入り口を開けて入って来たのは、異常に発達した頭部が特徴的な老人だった。

 杖を突きながら店の奥にある会計処へやってきた老人は、店主キヨに語り掛ける。

「久しいな、悪鬼羅刹」

「かーっ! 儂をその物騒なあだ名で呼ぶんじゃないよ! 切られたいのかい!」

「あれからもう五十年も経つと言うのに、全く衰えを感じさせない。お主人間か?」

「儂は人間さね。あんたが入って来る事に気が付かなかったんだから、随分と衰えたもんさ」

「悟られずに人様の家に入るのは、儂の専売特許じゃからな。ところで、お前さん最近、紫雲の玉を仕入れたそうじゃないか」

「さぁ? 儂は知らないねぇ?」

「お喋りな女妖怪がお前さんのとこで飼っている坊が持っていたと、そこら中で風潮しておる。それが、火種じゃった」

「……ふぅ、どういう事だい?」

「百鬼が起こると、言っておるのだ」

「…………」

「まるで害獣駆除のように妖を殺す人間の蛮行も目に余る。妖達は紫雲の玉を使い、妖の世を取り戻すと決起しておる。儂でももう止められん程にな」

「一体、何が言いたい?」

 キセルの煙を吐き出しながら、遠い目をするキヨ。

「我ら妖から悪鬼羅刹と恐れられた最強の妖狩りキヨ。全盛期のお前さんなら、百鬼や二百鬼訳無かろう。しかし、お前さんは歳を取り過ぎた。今回の百鬼夜行は誰にも止められんよ。紫雲の玉を渡すのなら、お前さん達は見逃そう」

「……全く、歳を取りたくないねぇ。たかが妖怪の総大将がこの儂に偉く大口を叩いたように聞こえたが、空耳かい?」

「……そうか、血を望むか」

 懐に隠した仕込み刀の刃を見せる、妖怪の総大将ぬらりひょん。

 しかし、キヨが全く動じない素振りを見せると静かに刀を鞘に戻した。

「儂が使うのが不満と言うのなら、お前さんの飼っている坊に使うのはどうじゃ? 父である酒呑童子を超える大妖になるやもしれんぞ?」

 刹那、キヨの放った毒針がぬらりひょんの頭部に突き刺さる。

「三つ目の晩、百鬼夜行がこの京の町へ押し寄せる。良い返事を待っている」

 幻影のように姿を消したぬらりひょん。

 再び、静寂が訪れたキヨ商店の中、店主のキヨは深いため息を吐いた。

「さて、どうしたもんかねぇ……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る