酔っ払いと盃と宴

 とある民家での出来事。

 若い夫婦が四歳になる息子と三人で、貧しいながらも平穏に暮らして居た。

 ある日の夕食時、家族三人で夕食を食べている時に息子が障子を指差してこう言った。

「おっとう! 今誰か通ったよ」

 そんなはずは無い、何故ならこの家には三人しか住んでいないからだ。

 息子の言葉を夫婦共に信じなかった。

「三助(さんすけ)きっと何かを見間違えたんだろう」

「本当に通ったよ! おいらしっかり影を見た!」

 あまりに熱心に訴えかけてくる息子に少し気味が悪くなった夫婦は、

「そうか。じゃあ、また通りかかったら教えてくれるか?」

 と言って、夕食を終えた。

 その日、息子が人影を見る事は無かったが、翌日同じ頃に息子は再び障子を指差した。

「おっとう! 今誰か通った!」

 息子の言葉に反応し、障子を見るが旦那には何も見えなかった。

 しかし、障子が視界に入る方向を向いていた彼の妻は青ざめた顔をしていた。

「あ、あなた……本当に今誰かが障子の向こうを横切って行ったわ……」

 妻の言葉に旦那は慌てて障子を開けて左右を見渡すが、人影どころかネズミの一匹すら見当たらない。

 しかし、妻や息子の反応からして、からかい面白がっているようにも思えない旦那は、夕食時には障子の方を見ながら食事を取る事にした。

 翌日も影は障子を横切った。

 背の丈は大人の男程で、速足で横切っているにも関わらず廊下からは足音一つ聞こえない事が、異常な不気味さを感じさせた。

 障子を横切る人影を始めて見た旦那は一瞬戸惑ったが、慌てて立ち上がると障子を開けて人影が通り過ぎて行った方向を見た。

 しかし、やはりそこには誰も居ない。

 まるで妖に化かされている気分だった。

 家族三人しか居ないと思っていた家に知らない何者かが潜んでいると思うと、より一層気味が悪く、夜も眠れない程だった。

 翌日、旦那は影の正体を暴く為に、障子を開けたまま夕食を取る事にした。

 影が通るという事は、何者かが我が家を歩き回っている他ならない。

 障子が開いている為、家族は廊下を見る事に必死で夕食どころでは無かった。

 いつも影が現れる時間帯になったが、何も廊下を横切る事は無かった。

 やはり、何かの見間違いだったのだろうか?

「あ、あなた……」

 顔面蒼白の妻が指差し小さく震えていた。

 恐る恐る妻の指差す方に目を向けると、息子の姿が無い。

 つい先程まで夕食を頬張っていた息子が音も立てず消えていたのだ。

 いくら廊下に注目していたからと言っても、厠に用を足しに行ったのであれば立ち上がる気配や足音で分かる。

 物音一つ立てず姿を消した息子を夫婦は必死で探した。

 家の中の隅々まで探し、家の外も探し続けた。

 深夜まで探しても結局見つからなかった夫婦は、警察所へ捜索願を出した。

 障子を横切る人影のせいなのだと、夫婦は薄々感づいていた。

 しかし、息子が消えた時に人影は姿を見せなかった。

 息子が見つからないまま、翌朝を迎えた夫婦は心労から何も手が付かず、ただひたすらに息子を探す。

 しかし見つからないまま日が暮れ、いつも障子を横切る人影が姿を現す時間になった。

 夕暮れ時、障子に人影が現れた。

 人影はいつものように足早に横切るのではなく、障子の途中で立ち止まると、ゆっくり夫婦を見た。

 人影を見た夫婦は言葉を失った。

 何故なら、昨日の晩からずっと探していた息子がそこに居たからだ。

 人影は二つあり、成人男性程の背丈のものと、小さな子供。まさに四歳になる夫婦の息子と同じような背丈の子共の影が手を繋いでこちらを見ている。

 二つの影は『こっちにおいで』と言うように、夫婦を手招きした。

 あまりの恐怖に体を小刻みに震わせた旦那は隣に居る妻を見るが、そこに妻は居なかった。

「うわぁああああああああああああ?」

 旦那が悲鳴を上げた理由は、妻が姿を消していたからでは無い。

 障子の人影が『三人』になっていたからだ。


「それじゃあ、伍拾圓払って貰おうか」

 学校の帰り、童切丸に昨晩の礼を言いにキヨ商店へ入った僕に、店主であるキヨさんから浴びせられた第一声がそれだった。

「えっと、どういう事でしょうか?」

「かーっ! どうもこうも無いさね! 昨日の晩、うちの童切丸が物々を切った事をこの儂が知らないとでも思ったのかい!」

 激怒する老人、床に正座させられている童切丸が顔面に大きな晴れ傷を作っている。

 どうやら昨晩の出来事を見ていた人の口から、キヨさんの耳に入ったのだと悟った。

「でも、童切丸さんが支払わなくて良いって言ったんですよ」

 僕の言葉にキヨさんは手に持ったキセルで童切丸の後頭部を強打し、心地の良い打撃音を鳴らした。

「いってぇ!」

「こんの馬鹿もんがっ! タダで仕事を受けてたら、どうやって飯食うってんだい!」

 酒の入っていない童切丸は大人しく、不満そうな顔をしながらもキヨさんに何も反論はしなかった。

「あのー、御免下さい」

「はーい! いらっしゃいませ!」

 男性客の声に反応し、おはつさんが入り口の方へ向かった。

「ほれ、お客様さね。馬鹿者共は邪魔にならんように隅にでも立ってな」

 僕も馬鹿者認定されている事は遺憾だが、僕と童切丸さんは肩身を狭くして会計処の隣に並び立つ。

 おはつさんに連れられてやって来たお客様は、三十代前半の男性。

 しかし、彼の顔は酷くやつれており、一睡もしていないのか目の下に深いクマが出来ている。

「あの、ここに妖狩屋があると聞いて来たのですが……」

「あんた、酷い顔さね。話を聞こうじゃないか」

 ふぅ、と口から白い煙を吐いたキヨさんに男性は言い淀みながらも、語り始めた。

「じ、実は、数日前から、妻と息子が行方不明になっております。妖の仕業と言って、警察や他所の妖狩屋に行っても、うちじゃ扱えないと言われ、もう、ここしか無いんです! お願いします! どうか、どうか妻と息子を妖から、取り戻して下さい!」

 鬼気迫る表情で語る男性にキヨさんは落ち着いた様子で尋ねる。

「どうして、妖の仕業だと断言出来るんだい?」

「み、見たんだ! 障子の影が妻を連れて行く瞬間を! こ、この目で見たんだ!」

 影が人を連れ去る妖の名前を僕は知っていた。

「……影招き、ですね」

 ぽつりと呟く僕にキヨさんのみならず、童切丸とおはつさんも少し驚いた顔をした。

「ほぅ、あんた知ってるのかい?」

「あ、はい。昔本で読んだ事があります。障子や壁に現れる人影のような妖。その姿を三度目にすると影の世界に連れていかれるとか」

「ま、待って下さい! 確かに妻は三度を通る影を見ましたが、息子が消えた時は障子を開けていたんです。その日は人影も現れなかった! 二度しか影を見ていない息子は何故消えたのですか!」

 切羽詰まった様子で両肩を掴んで問い詰められるが、そんな事僕に聞かれても知る訳が無い。

 助け舟を出すようにキヨさんが口を開いた。

「障子を開けていたのなら、天井さね。影招きは壁だけじゃなく、天井や床にも姿を見せるもんさ。子供の方が霊的な感覚は鋭い、きっとあんたが気付かない位置に居た影を見たんだろう」

「そんな……」

 崩れ落ちる様に地に手を着く男性が、不憫で仕方ない。

 昨日の体験から、より僕は彼に共感出来た。妖は理不尽に現れて大事な物を奪っていく。

「確かに、相手が影招きなら他所が受けたがらないだろうね」

 どうして受けたがらないんだろう?

 確かに、影招きは厄介な妖だが対処法も簡単な妖のはずなのに……。

「……妖から妻と息子を取り戻すのは、そんなに難しいのですか?」

「まだ影に連れて行かれていないのなら、対処するのは簡単さね。影招きに鏡を見せてやれば、影招きは鏡の中に封じる事が出来る。ただ……」

 その先の言葉を少し言い淀んだキヨさんは、キセルを吸った。

「ふぅ……影の中に連れて行かれちまったのなら、話は別さね。一度影に連れて行かれた人間を取り戻すのは絶望的。不可能と言っていい」

「…………そんな。うちは貧乏でお世辞にも良い暮らしなんて出来ません。だけど、妻と息子と貧しいながらも幸せな生活だったんです。それが、何の前触れも無く現れた障子の影を見てしまったばっかりに……こんなの、あんまりだ……」

「確かに、気の毒さね。気の毒だが、それが現実さね」

 キヨさんの言葉が厳しいが、誰にも言えない言葉をはっきりと伝える事も、キヨさんなりの優しさのように感じた。

「うちは貧乏で大した依頼料も払えません。変わりとして、曾祖父の代から受け継いだ家宝を持ってきたのですが、こんな玉なんの役にも立ちやしない。神様は私達家族を見放されたんだ」

 そう言って、男性が手に持っていた風呂敷を広げた。

「「「――っ?」」」

 風呂敷の中に包まれていたのは、薄紫色の煙が中で妖しく動くガラスのように透明な玉。

 両手で収まるぐらいの大きさの玉を見た瞬間、キヨ商店の三名が驚愕に目を見開いた。

 途端に、この場の空気が一変した。

「勘違いして貰っちゃ困るさね。絶望的とは言ったが、不可能とは言ってないよ」

 ついさっきまで、説得して断る流れで話していたキヨさんは手の平を返した。

 キヨさん、不可能って言ってなかったっけ?

「ほ、本当ですか! 妻と息子を取り返して貰えるんですか!」

「当たり前さね。キヨ商店を舐めて貰っちゃ困るよ。この程度の依頼、朝飯前さね」

「おう! この童切丸様に任せてくれや旦那!」

「はい! 私も全力でサポートします!」

 な、なんでこの人達、気持ち悪いくらいやる気になってるんだ?

 僕が依頼に来た時とは、対応が雲泥の差だ。

「ありがてぇ、ありがてぇ。神様は見放してなかったんだ……」

 感謝する男性にキヨさんは小さく咳をしてから言う。

「報酬は……その玉で良いかい?」

「もちろんです! 妻と息子が帰って来るなら、この玉は差し上げます!」

「交渉成立さね。準備が出来たら向かうから、家で待ってるんだね」

 おはつさんに住所を伝えた後に店を出た男性は、入店時よりも遥かに明るい表情で店を出た。

 男性を笑顔で送り出したキヨ商店メンバーは、男性の気配が店から離れた途端にその笑顔を怪しく歪めた。

 悪党が浮かべるような悪い笑顔をする三人に、僕は唐突な手の平返しの理由を尋ねる。

「あの玉を見てから、急に対応が変わりましたけど、一体あの玉は何ですか?」

「ばっかスケベエ、テメェそんな事も知らねーのか!」

「あれは、紫雲の玉(しうんのたま)と言って、使えば妖の力を何段階も進化させられると言われておる。妖怪界隈では戦争のきっかけになりかねない程の秘宝中の秘宝さね。百年前に使われたのを最後に、もう存在しないと言われておったのだが、まさかまた目にする時が来るとは……長生きはするものさね」

「妖の力を進化させる? そんな危ない物は早く処分しないと」

「妖の力を進化させるって事は、強い妖怪が使えば神すら超える力が得られるって話だ」

 人間である童切丸が、なぜか興奮気味に語る。

「人間からしたら確かに、処分するべき物かもしれません。しかし、妖からしたら、今の人間主体の世界を覆す手段になり得るのです」

 まるで、妖怪が主体の世界を望んでいるような、おはつさんの口ぶりに僕は少し面食らってしまった。

「紫雲の玉をどうこうする話の前に、まずは確保しない事には話にならないよ。あんた最初依頼に来た時、金が無いから何でもするって言ってたね?」

「ええ、言いましたけど」

「なら働いて貰おうか。伍拾圓分、きっちりと!」

「えぇ! 僕なんて力になれませんよ?」

「黙りな! 拒否なんぞ許さないよ。分かったら童切丸と一緒に依頼者の家に行ってきな!」

 トンデモない手の平返しの果て、僕は晴れてキヨ商店の従業員となってしまった。

 強引な借金を背負わされた事は遺憾だが、美人なおはつさんと妖狩りの童切丸と肩を並べるのは、僕にとって嬉しい出来事でもあった。

 おはつさんから依頼者の住所をメモした紙を受け取ると、僕は童切丸と一緒に依頼者宅へ向かった。

「今回の依頼、失敗は許されないからね」

 僕達の尻を叩くキヨさんの言葉は、それはもう恐ろしく感じた。


 依頼者の住む家はキヨ商店からさほど離れていなかった。

 依頼者に会いに行く途中、僕はどうしても拭いきれない一抹の不安を抱えていた。

 キヨさんが不可能と言っていた、影招きに連れて行かれた人間を連れ戻す手段についてだ。

 依頼者宅へ向かう道中、童切丸に尋ねてみたが「まぁ、なんとかなんだろ」と不安をより一層色濃くする返答しか得られなかった。

「あれ? 童切丸さん、依頼者の家はそっちじゃないですよ?」

 もうすぐ到着という道で、依頼者の家の方角とは真逆の道を行く童切丸を呼び止める。

「ちょっくら、寄る所があるんだ」

 まさか、影招き対策の道具でも買うのだろうか。

 さっきはまるで無策のような事を言っていたのに、童切丸はやはり侮れない男なのだ。

 なんの迷いも無く歩く童切丸が向かった先は、軒下に大きな酒林を吊るした酒屋だった。

「おうオヤジ! いい品入ったって聞いたぜ!」

「よぉ童切丸。昨晩は随分暴れたらしいじゃねぇか。町でちょっとした噂になってるぜ?」

 頭に手拭いを巻いた白髪の店主はいかにも堅物そうな外見だが、子供のような笑みを浮かべて童切丸を嘲笑した。

「げっ、どうりで鬼婆がカンカンな訳だぜ……」

「新しく入った酒だったな。西洋から来たワインって酒の新しい銘柄だが、興味あるか?」

「ワインかよ……日本酒以外は酒じゃねぇって。しゃーねー、いつものくれ」

「あいよ。風吹(ふぶき)な」

 酒屋に来た時、もしかして影招き対策として清めの酒でも買いに来たのかと期待したが、当然そんな事は無く童切丸は自分が飲む為の酒を買いに来た。

 とてもこれから仕事をする人間の行動とは思えない。

「まいど。酒買うって事はこれから仕事か?」

 童切丸から代金を受け取った店主の言った、耳を疑うような言葉。

 なんと、童切丸は仕事前にいつも酒を買いに来ているらしい。

「まぁな。また来るぜ」

 いつも飲んでいる酒を手に上機嫌な童切丸は来た道を戻り、依頼者の待つ家へ向かう。

「いやいや! おかしいでしょ? ずっと黙って見てましたけど、おかしいでしょ?」

「急に大声出して、一体どうしたスケベエ?」

「仕事前に何で酒買ってんですか! 僕達宴会しに行く訳じゃ無いんですよ!」

「いつ酒飲もうが、俺様の勝手だろうが」

「少なくとも仕事前はダメだろ! あっ! こら、飲むな!」

 僕の説教を右から左へ聞き流し、酒瓶を開けた童切丸はそのまま飲み始めた。

「――師匠!」

 通りで飲酒を始めた童切丸から酒を取り上げようと、揉み合っていると背後から少女の声が聞こえた。

 僕達に駆け寄って来た少女は忍者の恰好をしていた。

 忍び装束に身を包み、黒い布で口元を隠す。腰に小さな巻物を付けている少女は忍者、またはくノ一という表現しか出来ない。

 忍ぶ者と書いて忍者と呼ぶが、真昼間のこんな往来で出会うと違和感が凄い。

 日本刀を下げた童切丸と言い、僕は江戸時代にタイムスリップしてしまったのかと錯覚する。

「拙者、酒屋の近くで待っていれば師匠に会えると思い、お待ちしていたのでござる!」

「え、童切丸さん。こんな小さな女の子に師匠って呼ばせているんですか?」

「ばっ、ちげーよ! これはこいつが勝手に呼んでるだけだ!」

 言葉を発した事で、ようやく彼女の視界に僕が入ったのか、忍者の女の子は片膝を突いて僕に挨拶をした。

「ご挨拶が遅れて申し訳ないでござる。拙者、名を兎々(とと)と申す。妖退治の師である童切丸殿の弟子一号でござる」

「これはご丁寧に。僕は平助と言います」

「平助殿。僭越ながら、師匠とはどのようなご関係でござるか?」

「コイツは今日から入ったキヨ商店の一員だ」

「そうでござったか! これからよろしくお願い申し上げる!」

 兎々さんは、童切丸の知り合いにしてはまともそうな人だった。

 まぁ、忍び装束着ている時点で常識とはかけ離れてるんだけどね。

「俺様を待ってたって、なんかあったのか?」

「拙者、本日は師匠に鍛錬をお願いしたく参った次第でござる」

 童切丸を師匠と慕う忍者は少女らしい笑顔で詰め寄るが、師匠はどうやらその兎々を使えると判断したらしく、悪い笑みを浮かべた。

「丁度良い所に来たな。俺様達はこれから妖退治に行くところだ。簡単な妖だから良い修練になるだろ」

 屑だ。こんな小さな女の子を簡単な妖だとか嘘を言って巻き込むなんて、正真正銘の屑だ。

「妖退治でござるか! ぜひ同行させて頂きたいでござる!」

 こうして、急遽忍者娘である兎々さんを加えた三人で依頼者の家へ向かう運びとなった。


 自らを貧しいと言っていた依頼者宅は中庭のある木造平屋で、とても貧乏とは思えない程に広く立派な建物だった。年季の入ったその住居は代々受け継がれてきたのだと感じる。

「キヨ商店だー。開けてくれー」

 ぶっきらぼうな口ぶりで玄関戸を叩く酔っ払い、もとい童切丸。

 今後はこの役目を僕がやろう。

 戸を開いた依頼者の男性は、玄関戸をまるで借金取りのような横暴な叩かれ方をしたにも関わらず、笑顔で僕達を出迎えてくれた。

「お待ちしておりました。どうぞ中へお入りください」

 外観から想像はついていたが、中も広く一本の廊下から居間や寝室、客間や厠に行けるようになっており、廊下は障子を隔てて縁側にもつながっている。

 廊下と各部屋はそれぞれ障子で仕切られており、家の中は中庭側から差し込む日差しでとても明るい。

 歩く度に軋む音を立てる廊下に年季を感じながら、僕達は居間へと通された。

「毎日、ここで夕食を取っています」

 居間には、三人分の箱膳が部屋の片隅に置かれたままになっている。

 依頼者は、この部屋と廊下を区切る障子に影招きが現れたと語った。

「影は毎日、夕食時に現れました」

 悔しそうに話す依頼者の話を興味無さげに聞く、童切丸のふてぶてしい態度に僕は内心の苛立ちを抑えながら質問した。

「貴方は影招きを何度見ましたか?」

「実はもう、二度見てしまっています。もし、今日もう一度あの影を見たら私も……」

 夕食時はもう近い、あと半刻もすれば影招きと対峙する事になる。

「あちらさんが来てくれなきゃ、俺様達はどうする事も出来ねぇ。障子を閉めて待たせて貰うぜ」

 童切丸は居間と廊下を隔てる障子を閉めると、まるで我が家のように胡坐をかいて座った。

「あの、大変失礼ですが……本当に大丈夫でしょうか? もし失敗したらと考えると……どうにも怖くて……」

「旦那は心配性だな! 大船に乗ったつもりでドーンと構えときなって!」

「師匠の言う通り、安心するでござる。師匠は百戦錬磨の妖狩りでござる」

 さっきから、隙を見ては飲酒している童切丸は上機嫌でそんな事を言うが、その自信が根拠の無い見せかけだと知っている僕は、依頼者同様に心配で仕方が無い。

 気まずさから、無言で居間にて影招きを待ち続ける。

 静寂に包まれる中でどれだけの時間が経ったのだろう。ふと視線を泳がせた時、視界に入った障子に人影のようなものが居た。

 障子に浮かぶ三つの人影、彼等はこちらを見て手招きをしていた。

 物音や気配を微塵も感じさせず、不自然な程自然に現れた影招きに僕は一瞬反応が遅れた。

「ど、童切丸さん! 出ました! 影招きです!」

 驚きのあまり、単語を無理やり繋いで童切丸に知らせると、童切丸の行動は迅速だった。

「旦那は障子を見るな! 兎々は奴を逃がすな!」

「は、はい!」

「承知したでござる! 忍法、影縛りの術でござる!」

 依頼者は咄嗟に俯き、兎々さんは札の付いたクナイを影招きの頭部に当たる部分、障子の木枠へ投擲し刺した。

 兎々さんの投擲の正確さ、素早さは一級品で、ここだけの話だが彼女が本当に忍なのだと僕はこの時初めて信じた。

 兎々さんの影縛りが効いているらしく、手招きの動作を途中で止めた影招きはその場で指先一つ動かせなくなっている。

「上出来だ兎々。旦那、もう顔上げて良いぜ」

 童切丸に言われた通り、依頼者の男性が顔を上げると感嘆の声を漏らした。

「凄い。影招きを封じたのですか?」

「なぁに、影縛りは一時的な術に過ぎねぇ。奴が身動きできないうちに宴会すっぞ!」

「おい、ふざけてる場合じゃないだろ! 早く奥さんと息子さんを助けないと!」

 遂に堪忍袋の緒が切れた僕は、童切丸へ怒声を浴びせた。

 僕の怒りが本物だと感づいた童切丸は、いつもみたいに耳を塞ごうとせず真正面から僕を睨み返すと、真顔で反論した。

「どうやってだ?」

「は?」

「だから、スケベエならどうやって助けるって聞いてんだ」

「そんなの! 僕が知ってる訳無いだろ!」

「なら黙ってろ。いいかスケベエ、影招きって妖は寂しがりなんだよ。だから奴らは人間を影に誘う。なら、逆の事をしてやれば良いんだよ。身動きできない奴が目の前で楽しそうにしてる様を見せられたら、混ざりたいか、腹を立てるかのどっちかで、あちらさんから出てくるって寸法だ」

 正直、腹が立った。

 何に腹が立ったのか、僕にも分からないけど何かに八つ当たりしたくなるほど、どうしようも無く腹が立った。

 童切丸に会ってから、自分がこんなに怒りっぽい性格だと知った。

 または、童切丸が僕を怒らせる達人なのだ。

 童切丸は妖の性質を踏まえ、しっかり考えた上で行動していた。

 途中で酒を買ったのも、兎々さんと合流したのもきっと偶然じゃない。

 もし偶然なら、こんなに童切丸の想定通りに事が運ぶ訳が無いのだ。

 童切丸は酔っ払いを演じながら、しっかりと依頼をこなしているのだ。

 それに比べて僕は、真面目を演じて何の役にも立っていないじゃないか。

 これでは、まるで僕の方が道化だ。

 童切丸が凄いから、僕が劣っているから、そんな理由以前に、僕は現状に腹を立てている。

 己が胸に沸き立つ怒りを手の平に込めて、僕は自分自身の頬を音が出る程に強く叩いた。

「童切丸さん! やりましょう、宴会!」

 僕の言葉に童切丸はニッと笑うと、酒瓶を畳の上に置いた。

「旦那! 名前を聞いても良いかい?」

「む、村岡次郎(むらおか じろう)ですが」

「よっしゃ次郎! 人数分の盃を持ってきてくれ! ガキ二人には水を注いでくれ!」

 ガキ二人と言うのは、僕と兎々さんの事だろう。

 童切丸に言われた通り、次郎さんは四つの盃を持ってきた。

「よっしゃ、それじゃあ宴だ! 乾杯!」

「「「かんぱーい?」」」

 こうして、影招きを影の中から誘き出す為の宴が始まった。

 最初は緊張していた次郎さんも、酒には弱いらしく酔いが回ると童切丸と肩を組んで歌を歌い始めた。

 兎々さんと僕は雰囲気を盛り上げる為に、慣れない酔っ払いを必死で演じた。

 宴会が始まって半刻程経った頃、影招きの動きに変化が現れた。

 まるで怒りに打ち震えるように、小刻みに震えながらなんとか身動きを取ろうと影縛りに抗い始めたのだ。

「童切丸さん、影招きが動き始めました」

「あっちを見るなスケベエ。宴会に集中しろ」

 鋭い眼光で言う童切丸に僕は小さく頷いた。

 その後、しばらく宴会を続けると遂に影招きの右腕が動き始めた。

 その小さな変化を童切丸は見逃さなかった。

「兎々、影縛りを解け!」

「承知したでござる!」

 童切丸の合図と共に影縛りを解くと、なんと影招きが障子から這うようにして出て来た。

 影のように黒い右手が障子から伸びて、右手が畳へ触れる頃には頭部も出て来ていた。

 影招きは影から這い出ると、畳の上に立ち上がった。

 その姿はまるで人影が実体化したようで、影のように全身が黒く表情などは一切分からない。

 しかし、小刻みに全身を震わせている影招きは表情など分からなくても激怒している事は伝わってきた。

「あの、童切丸さん。聞いても良いですか?」

「なんだスケベエ」

「なんか、影招き本人は出て来たんですけど……奥さんとお子さんがまだ障子の中です」

 てっきり、影招きと一緒に奥さんと子供も出てくるとばかり思っていたらしい童切丸は、尋常じゃない程の冷や汗をかいている。

「スケベエ、兎々。お前ら二人に重要な任務を与える。影に手を突っ込んで女房とガキを引っ張り出せ!」

「肝心なトコで締まらないなぁ!」

「承知したでござる!」

「いいか、俺様が影招きを消滅させる前になんとしても救い出せ!」

「出来るだけ時間稼いで下さいね!」

 そう言って、僕と兎々さんは二人の影が残る障子に手を伸ばした。

 影招きはと言うと、妖は己のルールを破れないらしく僕達二人を無視して、酔いつぶれていた次郎さん目掛けてその手を伸ばした。

 童切丸は影招きの腕をすかさず日本刀で切る。

 しかし、日本刀は影招きの腕をすり抜け、畳に深い切り傷を付けるだけだった。

「ひぃぃ!」

 影招きに左足首を掴まれた次郎さんは、短い悲鳴を上げる。

 こちらからは触れられないのに、向こうからは触れられるなんて反則だろ!

 次郎さんの安否が気になるが、僕達は僕達のやるべき事をやらないと童切丸にドヤされてしまう。

「平助殿! 拙者はどうすればよろしいでござるか!」

「えぇ? え、えっと、僕が奥さんを引き上げますから、兎々さんはお子さんを引き上げて下さい!」

「承知したでござる!」

 急に指示を求められてテンパった僕の、大人より子供の方が軽いよね。という引き上げる想定重量しか考えていない指示に兎々さんは、何の躊躇も無くお子さんの影に右手を突っ込んだ。

 まともな神経であれば、障子に手を突っ込んだら障子紙が破れるのを恐れてしまうが、兎々さんの行動には一切の迷いが無かった。

 結果的に、障子紙は破れず兎々さんの右腕は子供の形をした人影の中へと入った。

 影から攫われた人を引っ張り出す事は、童切丸の妄言では無く本当に可能かもしれない。

 兎々さんの真似をして、僕も恐る恐るではあるが大人の形をした影に右手を入れた。

 影の中は不思議な感触だった。熱くも無く冷たくも無い。かと言って、何も感じない訳でも無く影の中は空気に似た何かがまとわりつく感じがして、動かす右手が少し重く感じる。

 まるで、サラサラな泥の中に手を突っ込んでいるみたいだった。

 手から伝わる感覚のみを頼りに、影の中を探ると人肌のような物に触れた。

 もしかして、と思い僕は一瞬触れたものを掴むと全力で引きずり出した。

「うぉりゃぁあああああああああ?」

 影の中で掴んだ何かを勢いよく影から引っ張り出すと、一本釣りの要領で着物を着た女性が影の中から出て来た。

 隣を見ると、兎々さんも小さな男の子を抱いていた。

「童切丸さん! 奥さんとお子さんは救出出来ました!」

「でかしたスケベエ? さて、スケベエが男見せたんだ。俺様が次郎の旦那を連れて行かれる訳にはいかねぇよな」

 次郎さんの両足を掴んで、僕達が居る障子とは反対側の壁に引きずり込もうとしている影招きに向かい、童切丸は日本刀を鞘に納めると大きな深呼吸をした。

 日本刀を鞘に納めたという事は、童切丸は抜刀術を繰り出そうとしている。

 しかし、こちらからは触れられない影招きに日本刀が通用するのだろうか?

 鞘に納めた日本刀の柄を握り、集中し構える童切丸に僕と兎々さんは生唾を飲み込んで魅入った。

「斬鬼流弐ノ型――影鬼断絶(えいきだんぜつ)」

 あまりに一瞬の出来事に僕は何が起こったのか理解出来なかったが、影招きの頭部が畳の上に転がった。

 後から兎々さんに聞いた話だが、鞘から抜き放たれた日本刀に反射する微かな光が明確な刃となって射出され、童切丸の間合いの外にいるはずの影招きの首を刎ねた。のだとか。

 うん、意味が分からない。

 頭部を失った影招きの胴体諸共、影招きは跡形も無く姿を消した。

「さてと、妖退治も完了した事だし、帰るか」

「師匠の一太刀、誠にお見事でござる」

「ったりめーだろ。童切丸様だぜ」

 ドヤ顔をする童切丸に僕は少しも腹が立たなかった。

 何故なら、彼にはそう豪語するに相応しい実力がある。

 僕は今回の一件で、童切丸がどういう男なのか理解を深める事が出来た。

「スケベエ、兎々。二人共よく頑張ったな」

 まるで子供を相手にするかのように、僕と兎々さんの頭を撫でる童切丸。

 その行動には、正直イラっとしたのはここだけの話。

「妖狩り様。この度はなんとお礼を申し上げていいやら……」

 奥さんとお子さんを抱きしめた次郎さんは、涙ながらに僕達へ頭を下げた。

「こっちも報酬貰うんだ。礼ならそれで充分だぜ、次郎」

 友達か?

「本当にありがとうございます! どうぞ、こちらお納め下さい」

 まるで神様に捧げものをするかのように、童切丸に紫雲の玉を渡す次郎さん。

 報酬を確かに貰った僕達は何度もお礼を言って頭を下げる次郎さん家族三人に見送られながら、キヨ商店へと帰る事にした。

 日は既に沈んでおり、ガス灯が照らす通りは仕事終わりの男性や派手な着物を着た女性で賑わいつつあった。

 キヨ商店へ向かう道中、兎々さんが童切丸に尋ねる。

「師匠、今回の修練も誠に有意義で御座った。ところで、師匠が受け取っていたその玉は一体何でござるか?」

「べ、別に何でもねーよ」

 嘘を隠すように酒瓶に口を付けて傾ける童切丸。

「誠に綺麗な玉でござった。もう一度見せて欲しいでござる!」

 そう言って、兎々さんは童切丸が小脇に抱えていた紫雲の玉を包んでいる風呂敷ごと奪うと、風呂敷を広げてしまった。

「あ、バカやめろ! もし誰かに見つかったら」

「――ダーリン!」

 ダーリン?

 可愛らしい女性の声に振り返ると、そこには非常に丈の短い桜色の浴衣を着た美少女が手を振ってこちらを見ていた。

 両サイドに束ねた髪色や吸い込まれそうな程大きく綺麗な瞳さえも、着ている浴衣に劣らない程鮮明な桜色をした彼女は、幼い外見をしつつも出る所はしっかり出ていて、行き交う男性は皆一様に視線が奪われるような美少女。

 彼女を見た途端、僕の胸が高鳴った。

 恋に落ちてしまったのかもしれない。

「やっぱりダーリンだ! もーダーリンったら最近全然会いに来てくれないから、桃ちゃん寂しかったー」

 童切丸に抱き着く桜色の美少女。

 なるほど、つまりはそういう関係らしい。

 童切丸も妖狩りである前に一人の男なのだと納得すると同時に、こんな美少女に抱き着かれるなど、羨まし過ぎて激しい嫉妬心に駆られる。

「だから、変な呼び方すんじゃねー! 誤解されるだろうが!」

「ダーリンったらひどーい! 桃ちゃんダーリンの為に毎日頑張ってるのにー」

「一体何をだよ!」

「ところで、兎々ちゃんが持ってるそれ…………ヤバッ!」

 紫雲の玉を見た途端、桃ちゃんさんが驚愕で固まった。

 どうやら、彼女も紫雲の玉がどういう物なのか知っているらしい。

 既に手遅れだが、童切丸は咄嗟に兎々さんから紫雲の玉を取り上げると風呂敷に包み隠した。

「ダーリン、いいいい今の、まさか……」

「ばっかお前、そんな訳ねーだろ! これは、あれだ。妖をおびき寄せる為の偽物だよ。コイツが作ったんだぜ」

 そう言って、急に僕をガラス職人扱いしてくる童切丸。

「ふーん。そうなんだー」

 桃ちゃんさんは興味深そうに僕に詰め寄ると、上目遣いでじろじろと見てくる。

 彼女からは凄く良い匂いがして、目を合わせると顔から火が出ているんじゃないかと言う程に顔面が熱くなるのを感じた。

 今すぐにでも彼女を抱きしめたい。

 異常なまでに掻き立てられる欲情に僕は戸惑った。

 これが、恋というやつなのか……。

 至近距離に顔を近づけて来た桃ちゃんさんは、小声で僕に耳打ちした。

「ねぇ、あの紫雲の玉って本物でしょ?」

 返事も聞かず悪戯な笑みを浮かべる桃ちゃんさんは、全てを見透かしている。

「おいコラ桃花(ももか)。スケベエを誘惑すんじゃねー。こいつはまだ初心なガキなんだ」

「君、スケベエ君って言うんだ! 面白―い! それじゃあスケベエ君、また今度桃ちゃんと遊ぼうねー」

 手をひらひらと振って、夜の町へと姿を消す桃花さんを僕は呆然と見送った。

 そんな僕の頭を童切丸は引っ叩いた。

「ぼけっとすんな、スケベエ。あいつは妖怪だ」

「えぇ? そんな、嘘、ですよね?」

「なーに絶望してんだ。桃花は飛桃魔(ひとうま)っていう男を垂らし込めて破滅させる妖怪だ。破滅しねーように、十分気を付けるこったな」

 そんな……まさか、僕の初恋が妖怪に奪われるなんて、しかも妖怪の力によって操作された感情だなんて……。

 でも、よく考えたら僕の初恋はおはつさんだから、大丈夫か!

 桃花さんと別れた後、キヨ商店に帰る道中で童切丸が少し心配そうな表情を見せた事が僕は気になった。

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