妖を狩る駄菓子屋

 唐突だが、皆さんは物々(ぶつぶつ)という妖怪を知っているだろうか?

 道を歩いていると、背後から声を掛けられる事がある。

 幼子のような高いその声に油断して振り返ると、そこには三度笠を目部下に被り、着物姿の子供が立っている。

 手に何か持っている子供は、呼び止めた人に申し出る。

「いいなーいいなー。兄ちゃんの持ってるソレいいなー。おいらのコレと交換してくんねーかなー」

 ソレと指さされた物を差し出すと、物々は満足して既に持っていた物を渡して姿を消す。

 もしも、ソレと指さされた物以外の物を渡したり、物々交換の申し出を断ると人食い鬼へと姿を変え、断った人間を食べてしまうのだとか。

 既に物々が持っている物というのは、他の誰かから同じやり方で物々交換した物であり、物々が何故そのような行動を取るのかは誰も知れない。

 一説によると物々は生前、持っていた何かを物々交換で手渡してしまい、ソレを探しているのだとか……。

 物々交換さえ断らなければ、命に支障が無い妖怪だが迷惑な事には変わりない。

 特に、普段持ち歩かないような高価な物を持って歩いている時には、絶対に出会いたくない妖怪である。

 そう、出会いたくない時に限って僕は出会ってしまった。

 図書館で調べ物をした帰り道、日も沈み始めたばかりでまだ明るい町中。民家の前に立つ男の子に声を掛けられた。

「――もし、眼鏡の兄ちゃん」

 民家の前、それも玄関前に立っていたので、その家の子共かと思って立ち止まった事に心底後悔した。

 何故なら、その男の子の特徴が物々と呼ばれる妖怪にあまりに酷似していたのだ。

 目部下に被った三度傘、紺色の着物を着た男児。手には折りたたまれた布を持っている。布の厚みからして衣服の類だろう。

 呼び掛けに反応し、立ち止まった僕を見上げた男の子はニヤリと口角を上げた。

 物々の顔を見た途端、その顔の異様さに僕はゾッとした。

 人間離れした青白い肌に白目の無い真っ黒な瞳。明らかに人では無い事がはっきりと分かる。

 決して人通りの少なくない道端での出来事に、通行人達は触れぬ神に祟りなしと言わんばかりに、僕を見て見ぬフリして足早に通り過ぎる。

 誰一人、妖怪に出会ってしまった不幸者を助けよう、などという酔狂は持ち合わせていないらしい。

「いいなーいいなー。兄ちゃんの持ってるソレいいなー。おいらのコレと交換してくんねーかなー」

 僕がソレとして指さされた物は、よりにもよって大枚をはたいて買ったばかりの医学書。

 小脇に抱えていた医学書を隠すように体の角度を変えて、僕は思考を巡らせた。

 どうにか、この窮地を脱する方法は無いのだろうか?

 この医学書は両親が僕を医師にするために貯蓄を切り崩して買ってくれた、言ってしまえば僕にとって命よりも大事な本だ。

 それをこんな突発性の事故みたいな妖怪に、この本の価値も分からない化け物に奪われるなんて許せる訳が無い。

 物々はソレを差し出さなければ、人食い鬼に姿を変えて食べられてしまうらしい。

 もし、本当にこの本が命よりも大事ならば、僕は本を渡さずに逃げるべきなのだ。

 分かっているのに、恐怖に足が竦んでこの場から一歩たりとも離れる事が出来ない。

「兄ちゃん、早くソレくれよー」

 痺れを切らした物々が催促する。

 変わらず、医学書を隠すように身構えたまま沈黙を貫く僕。

 短気な性格らしい物々は、異様な動きを始めた。

 人食い鬼へと変化する為なのか、男児の姿が徐々に膨張し始めたのだ。

 顔面から始まった膨張は、胸、腕、胴、足へと進み、その姿を変え始める。

 周囲の人々が悲鳴を上げながらこの場を離れ、当事者である僕はまるで混乱の原因を生み出している張本人のような気持ちになる。

 いや、何一つ語弊は無く張本人なのだが……。

 僕が一番の被害者であると言うのに、罪悪感に胸が苛まれる。

「わ、分かりました! 差し上げますから!」

 完全な変貌を遂げる前に、僕は命よりも大切な医学書を差し出した。

 自分がこれ程までの臆病者だとは知らなかった。もっと勇気のある人物だと自負していた。

 少なくとも、窮地に陥った時の妄想をしていた時の僕はもっと勇敢な男だった。

 しかし、現実の僕は暴力に屈した臆病者だ。

 ソレを差し出された物々は、変化を止めて元の男児の姿へ戻った。

「ありがとう兄ちゃん! 代わりにこれやるよ!」

 僕から医学書を奪い取った物々は手に持っていた布を僕へと渡した後、立ち去る訳でも無く煙のように姿を消した。

 物々から受け取った布を広げて見ると、それは女性物の羽織だった。

 なんという理不尽かつ無慈悲な物々交換だろう。

 大切な医学書を妖怪に奪われ、両親に合わせる顔が無い。

 帰るに帰れなくなった僕は奪われた医学書を取り戻す方法を探す為、この町で一番有名な妖狩屋(あやかしがりや)に向かった。


 『キヨ商店』という看板を掲げた駄菓子屋の前に僕は立ち尽くしていた。

 建物自体は一般的な二階建ての民家だが、一階が駄菓子屋になっており、入り口は常に解放されていて半身程度の高さに吊るされた暖簾があるだけだ。

 もしかしたら二階が妖狩屋になっているのかもしれないが、妖狩屋の看板が出ている訳でもなく、外観からは二階は住居にしか見えない。

「本当に、ここで合ってるんだろうか……」

 僕が立ち尽くしていた理由は、妖狩屋がここにあると聞いた場所に駄菓子屋しか見当たらず、困惑していたのだ。

 店の前で手書きの地図を睨みながら、この場所で間違い無い事を再確認する。

「あのー、どうかされました?」

 目の前から聞こえた声に地図から顔を上げると、店の入り口から大変美しい女性が心配そうな顔を覗かせていた。

 若葉色の小袖を着た茶髪の女性は店の従業員だろうか、見た目の若さからして店主では無いだろう。きっと僕の二つか三つ上に違いない。

 それにしても、綺麗な茶髪とは珍しい髪色だ。胸当たりまで伸びた長髪はしっかりと手入れをされているし、立ち振る舞いからもまるでお金持ちのお嬢さんのようだが、着ている小袖は庶民的でお金持ち特有の近寄りがたい雰囲気が無い。

 初対面でも彼女の穏やかさが伝わって来る、不思議な雰囲気の女性に呆けてしまった僕は返事もせずに、ぼーっと立ち尽くしてしまった。

「あの、聞こえていますか?」

「あ、はい! すみません! 実は、その、僕、妖狩屋を探しておりまして! どこにあるのかご存じ無いでしょうか?」

 美女に耐性の無い僕は両手と背筋をピンと伸ばし、緊張した口調で何かを宣誓するかのように話す。

「妖狩屋をお探しであれば、ここで合っていますよ。どうぞ中へ」

 暖簾を手で上げる彼女に通され、僕はキヨ商店の中へと足を踏み入れた。

 外からでも見える店内には、所狭し並んだ駄菓子。

 夕暮れ時という事もあり、店内には子供どころか僕以外の客は一人も居ない。

 店内奥には会計処があり、会計処に座している高齢の女性がキセルを咥え不機嫌そうな顔で僕を睨んでいる。

 赤い着物を着た高齢の女性はこの駄菓子屋の店主だろう。お団子のように結った白髪。しわの深い顔が持つ眼光は凄まじく、この老婆が只者では無い事が僕でさえ分かる。

「キヨ様、どうやら妖狩りのお客様だったそうです」

「かーっ! だったら早く入って来るさね! 店の前で立たれたら邪魔で仕方ないよ!」

「す、すみません」

 老婆の怒りに僕は何度も頭を下げる。

 僕の低姿勢な態度に少し怒りが静まったのか、老婆は二度キセルを鳴らした後に「妖怪かい?」と尋ねた。

「はい、実は妖怪に大事な医学書を奪われてしまって、代わりにこれを……」

 そう言って、僕は物々から押し付けられた女性物の羽織を見せる。

 すると、横から従業員の女性が感嘆の声で興味を示した。

 女性の方へ振り向くと、彼女は恥ずかしそうに視線を逸らした。

 どうやら衣服に興味があるらしく、彼女の可愛らしい仕草に僕は内心で悶えた。

 男である僕が女性物の羽織を持っている事に老婆は驚く様子も無く、

「物々さね」

 ふぅ、と口から煙を出してそう言った。

「物々と会ったのはいつだい?」

「つい今さっきです。お願いします! どうか医学書を取り返して下さい!」

「伍拾圓」

「え?」

「伍拾圓で受けてやるって事さね。分かったならさっさと出しな」

 物々に取られた医学書は僕の両親が拾圓で買った物だ。それを含めても伍拾圓という大金は割に合わない。

「伍拾圓って、そんな大金出せませんし、そもそも持ってないですよ!」

 僕の言葉に老婆はキセルを吸うと、ゆっくりと煙を吐き出した。

「そうかい。それなら自分で取り返す事さね」

「そんな、どうかお願いします! 両親に買ってもらった大事な医学書なんです! 今すぐに支払うのは無理でも、なんとか支払いますから、お願いします!」

「そんなに大事なら何で妖怪なんぞに取られちまうのかね~。かーっ! これだからガキは嫌いだよ。考えが甘いったら無い」

「下働きでも何でもしますから、お願いします!」

 キセルを咥える老婆に何度も、深々と頭を下げる。

 すると、会計処の横にある階段からギシギシと誰かが降りてくる足音が聞えて来た。

 黒い着物を適当に気崩した男は寝起きなのか、赤毛が部分的に混ざったボサボサの黒い髪を掻きながら、おまけに大きな欠伸をしながら降りて来た。

 二階から降りて来た男の歳は僕よりも一回り上ぐらいだろうか? 適当に伸ばされた髭に乱れに乱れた髪や服装からは、とても同世代には見えない。

「その口ぶり、お前他所でも断られたクチだろ」

「そ、それは……」

 階段の柱にもたれ掛かって薄ら笑いを浮かべる男の言う通り、僕はこの町で一番有名な妖狩屋である祓堂(はらいどう)で既に門前払いを食らった後だった。

 門前払いの理由は同じ、依頼料が支払えない事だった。

 大小に関わらず、妖狩屋という商売である以上利益を求める事は当然の事だ。慈善事業では無い事を痛感されられた。

 図星を点かれた僕は言葉を失ってしまう。

「なんだい童切丸(どうきりまる)。あんた居たのかい?」

「ああ、ちょっくら出掛けてくる」

「あ、童切丸様! ついでにお醤油を買って来ては下さいませんか?」

「あいよ。醤油ね」

 ひらひらと手を振って、駄菓子屋を出ていく童切丸さん。

 彼の腰に日本刀の鞘のような物が下げられているように見えたが、何かの見間違いだろう。

 侍じゃあるまいし、銃や刀の所持が禁止された現代に日本刀を下げて出歩くなんて正気の沙汰じゃない。

「さ、あんたも帰んな。どれだけ頭を下げたところで、壱銭にもなりゃしないんだよ」

 厄介者を追い払うように手の裏で払う老婆に、僕はこれ以上食い下がっても無駄だと判断して、今日は大人しく帰る事にした。

 しかし、医学書を持たず女性物の羽織を持って帰る訳にもいかない。

「あの、これ……もし良かったら貰ってください」

「え! 良いのですか?」

「はい。男の僕が持っていても、しょうがないですから」

 従業員の女性は驚いた顔をした後に、僕から女性物の羽織を受け取った。

「ありがとうございます!」

 結局、物々から医学書を取り返す術はまた考えないといけないが、この人の笑顔が見られただけでも、僕はこの駄菓子屋に来て良かったと思えた。

「良かったじゃないか、おはつ」

「はい!」

「だが、依頼料については壱銭だってまけやしないよ」

「分かっています。失礼しました」

 最後にもう一度頭を下げてから、駄菓子屋を出ようとした時、

「待ちな」

 店主の老婆に呼び止められて振り返る。

「せっかく来たんだ。菓子の一つでも買って帰るのが礼儀ってもんさね」

 僕は一つどころか、伍銭分の駄菓子を押し付けられるような形で買って帰るはめになった。


 日もすっかり沈み、夕食時に僕は帰宅した。

 本当は医学書を取り戻すまで帰るつもりは無かったが、頼みの綱であった妖狩屋で悉く門前払いを食らい続け、帰宅せざるを得なかった。

 我が家は古い木造平屋で、両親と妹との四人で暮らして居る。

 去年まで祖母も一緒に暮らして居たが、妖怪の起こした事故に巻き込まれ亡くなった。

 珍しく帰りの遅い僕を心配してか、妹の小春(こはる)が玄関に顔を覗かせた。

「兄さんどうしたの? 今日は珍しく帰りが遅いけど」

 小春は僕の二つ下の妹で現在中学二年生だ。

 父さん似の僕と違い母さん似の小春の外見は整っており、周囲には兄妹と紹介しても信じて貰えない事がある程だ。

「それは……後で話すよ。腹が減って死にそうなんだ」

「お母さんがもうすぐご飯出来るってさー」

 食事は必ず全員で食べる。それが我が家のルールだ。

 麦飯に大根の味噌汁、それに塩鰯という、いつもとあまり変わり映えしないメニューだが、罪悪感から僕は夕飯を食べる事を申し訳なく感じている。

「どうした平助(へいすけ)? あまり食欲が無さそうだな」

 僕の暗い表情を察してか、父さんが心配そうな声でそう言った。

「実は…………」

 自分の勇気の無さを露呈するようで少し、話す事を躊躇ったが僕は今日起きた出来事をありのまま話した。

「そうか、妖怪に出くわすとは災難だったな。本はまた買えば良い、平助が無事で何よりだ」

 父さんの声が少し震えているのが分かった。

 物々に取られた医学書を買う為に、父さんと母さんがどれだけ苦労をしたのか僕は知らない。

 だけど、高価な医学書を何冊も変える程、うちが裕福では無い事は知っている。

 医者になる事で戦争が起きた時でも最前線に行かなくて済むように、学が無く大変な職に就かないように、そんな親心から購入を決心した医学書だった。

 僕が医学書を失くした事は、きっと父さんも母さんも同じぐらい絶望しているだろう。

 そんな絶望を悟られないように、平気なフリをする父さんを僕は直視する事が出来なかった。

 物々という妖怪を目の前にして、怯えてしまった。その結果、僕はむざむざと医学書を奪われてしまった。

 駄菓子屋で店主に言われた、考えが甘いという言葉を思い出した。

 僕が弱いせいで奪われた医学書を他人に取り返して貰おうなんて、確かに虫が良いにも程があったのだ。

「父さん、やっぱり医学書を取り返しに行くよ」

「何を言っているんだ! 馬鹿な真似はよせ!」

 妖怪の被害が後を絶たないこのご時世、万が一の時に備えて置いていた木刀を手に、僕は家を飛び出した。

「待ちなさい、平助!」

 僕を呼び止める母さんの声は聞こえないフリをして、物々を探しに夜の町へ飛び出した。


 普段出歩かない時間帯の町は予想外な活気に満ち溢れていた。

 昼間の時間帯は締まっている食事処が酒や肴を提供していたり、通りの彼方此方で酒瓶片手にどんちゃん騒ぎしている大人達は、僕の知っている厳格な大人達とは似ても似つかない陽気に包まれていた。

 僕達子供は大人から、夜は妖怪や妖が出るから外出してはいけないと教えられていたが、それが嘘なのでは無いかと思う程の賑わいだ。

 しかし、丸っきり嘘という訳でも無く、昼間以上に夜間は多くの警察官達が巡回している。

 まるで別世界に迷い込んでしまったかのような町の中で、物々を探し歩いている僕を二人の警察官が呼び止めた。

「君、学生だな。夜間は妖の活動が活発になる。外出は禁止されているはずだが、保護者は一緒かね?」

 警官帽を被った二人の警察官は腰に軍刀を帯刀している。

 警察官の制服を気崩す事無く着ている二人は、仕事に真面目な警察官らしく子供の僕が夜中に出歩いている事に違和感を覚えたようだ。

 後ろめたい事など無いが、未成年である僕が夜間に外出している事自体が問題なのだ。

 しかし、物々が誰かに僕の医学書を渡してしまう前に取り返す必要がある。今夜を逃してしまえばきっと手遅れになるだろう。

「はい! 大丈夫です!」

 事情を説明しても、理解が得られないと思ったので嘘を吐いて全力で逃げる事にした。

「おい! 君!」

「放っておきましょう」

「もしも彼が妖怪に襲われでもしたらどうする!」

「その時は自業自得ってことで」

「お前なぁ……」

「どのみちもう追いつけませんて」

「そんな適当な仕事してると、いつか減給されるぞ……」

「……それも自業自得ってことで」


 警察官の二人から全速力で逃げ遂せた僕は、息を切らして大通りから離れたうす暗い通りを歩いていた。

 普段勉強ばかりして運動を怠っていたせいで、木刀を持ったまま走るのはかなり辛い。

 乱れた息を整えながら歩いて小道を抜けると、僕は突然の絶景に目を奪われた。

 月明りのみが照らす幻想的な桜並木。

 既に桜の咲く季節だという事は知っていたが、学校と家の往復で見る機会が無く、わざわざ見に行くつもりも無かった。

 花に興味の無い僕でさえも、ただ美しいと目を奪われる桜並木であった。

 珠川(たまがわ)という川に沿って植えられた桜並木をより近くで見る為に歩み寄ると、川に架かる大きな橋が目に入った。

 珠川橋という名を彫られた赤い橋。

 きっと橋の上から眺めるこの桜並木は、遠目から見るよりも美しいに違いない。

 物々の事などすっかり忘れ桜に魅せられた僕は、珠川橋を渡る。

 橋の上には既に先客が居た。

 橋の欄干に腰掛け、盃に酒瓶を傾けているその男を僕は知っていた。

 というより、今日駄菓子屋で出会ったばかりの人だった。

「童切丸さん?」

「ん? 誰だテメェ?」

「覚えて無いですよね。今日物々の依頼をしに行ったんですけど」

「あー! 女物の羽織を持ってたスケベエか!」

「っな! 初対面の相手に失礼だろ!」

 僕の言葉なんか、盃を傾けながら酒と一緒に流す童切丸。

「で、スケベエはこんな所で何してんだ?」

「スケベエじゃなくて、平助です!」

「一緒じゃねーか」

「全然違う?」

 平等に人を助けなさいという思いから両親が付けてくれたこの名前を侮辱される事は、僕にとって到底我慢出来ない。

「いちいち大声出すなよ。せっかくの静かな夜が台無しだぜ」

「ったく、誰のせいですか。僕はこれから自分の力で物々から医学書を取り返しに行きます」

「その木刀でか?」

「はい。命懸けで取り返します」

「っぷ! こりゃ傑作だ! ガリ勉ぼっちゃんが木刀片手に妖怪退治ってか! くぅー! 腹いてー!」

 僕はようやく理解した。この男とは根底から合わない事を。

 この男が言葉を発する度、むかっ腹が立ってしょうがないのだ。

「笑ってもらって結構、僕は行きますから」

「まぁ待てスケベエ。目の前には桜があって、空には三日月がある。そして右手には酒がある」

「……はぁ」

「こんな夜は俺様の機嫌が良い。そして俺様はスケベエの馬鹿さ加減が気に入った」

「……はぁ」

「この童切丸様がスケベエの妖狩りを手伝ってやるってんだ。もっと喜べよ」

「えぇ! ほ、本当ですか! 僕、依頼料払えないですけど」

「んな、みみっちい事俺様は言わねーよ! 鬼婆にバレなきゃ良いんだよ」

「あ、ありがとうございます!」

「そうと決まりゃ妖狩りだ。ついて来い」

 僕はどうやら、この男を勘違いしていたようだ。

 欄干から飛び降りて右手に酒瓶、左手に盃を持つ童切丸の背中は確かに男の背中だった。


 ふらふらと歩く童切丸の背中を追う途中で、僕は尋ねる。

「当ても無く歩いてるようにしか見えないんですけど、物々の居場所を知っているんですか?」

「あ? 心配すんな。こう見えて俺様は鼻が良いんだ。妖怪の臭いを追うなんて訳ねーよ」

 自らの鼻を指差して、自慢する童切丸。

「凄いですね。妖怪と言っても沢山の種類が居るのに、それを嗅ぎ分けられるなんて……」

「あ? 馬鹿野郎かテメェ。そんな事俺様にとっちゃ朝飯前よ。ほれ、この角曲がった先に居るぜ」

 真面目な顔で言う童切丸を信じ、生唾を飲み込んで覚悟を決めた僕は曲がり角を進んだ。

 曲がり角の先には、鬼と犬を合わせたような不気味な見た目をした妖怪が、四つん這いで民家の壁に張り付いていた。

 それは精螻蛄(しょうけら)と呼ばれている、民家の屋根を歩き回る妖怪。

 精螻蛄は僕の視線に気が付くと、壁に貼り付いたままこっちをじっと見て動かなくなる。

 何で僕は精螻蛄と見つめ合っているのだろうか?

「あの、童切丸さん? どうやら、物々では無いみたいなんですけど」

「あ? んな訳…………誰だテメェ?」

 曲がり角の先に知らない妖怪が居た童切丸は、目を丸くして悪態をついた。

 童切丸さんを見た精螻蛄は怯えた様子で民家の壁を駆けのぼり、あっという間に姿を消した。

「まっ、俺様でも間違える事ぐらいはあるって事だ。気を取り直して次行くぞー」

 悪びれた様子も無く、どこかに盃を置いて来た童切丸は酒瓶を煽って上機嫌に歩き出す。

 駄目だ。コイツただの酔っ払いかもしれない……。

 本当にこのまま童切丸について行って良いものか、一抹の不安を抱えながらも僕は彼の背中を追って夜の街を歩く。

 酔いが回って来たのか、ふらふらと千鳥足で歩く童切丸がふと立ち止まる。

「おっ、物々めっけー」

 半分呂律が回っていない童切丸の言葉を僕は一切信じない。

「どうせ、また適当言ってるんでしょ」

 童切丸が指さす方向を見ると、河川敷で一組の若い男女が誰かと話していた。

 橋の上を歩いて近づき、向こう岸に居る男女と話している相手が見えてくる。

 その男児は間違いなく、僕から医学書を奪った物々だった。

「本当に物々ですよ! 童切丸さん!」

「あったりめーだろ! 俺様の嗅覚を舐めんじゃねー」

 さっき間違えていた事は、どうやらもう忘れてしまったらしい。

「お、ちょうど誰か絡まれてんな。あいつ等にスケベエの本渡すんじゃねぇか?」

「確かに、彼等に事情を説明すれば物々と戦わずに医学書を取り戻せるかもしれません。だけど、僕は彼等が大事な物を奪われるのを黙ってみてるなんて、出来ません!」

「よっ、色男!」

「酔っ払いは黙っててください!」

 茶化してくる酔っ払いを置いて、僕は木刀を持つ右手に力を込めて駆け出した。

 もし物々が交換を終えてしまうと、また姿を消してしまう。

 それはなんとしても阻止しなければならない!

「いいなーいいなー。兄ちゃんの持ってるソレいいなー。おいらのコレと交換してくんねーかなー」

「だ、ダメだ……。これだけは渡す訳には……」

「でも、あんた。物々はソレを渡さないと食われちまうよ。確かに大事な物だけど、あたしゃあんたの命の方が大事だよ……」

 橋の上を走り向こう岸へ渡ると、河川敷までの傾斜を滑り降りて僕は物々と二人組の間に割って入った。

「そこまでだ物々? 僕の医学書を返して貰うぞ!」

 物々の手元を確認すると、まだ僕の医学書を持っていた。

 まだ交換が成立していない事に安心するのも束の間、物々の恐ろしい顔に足が竦んでしまう。

 物々に交換を迫られていた男女は突然僕が現れた事に驚き、言葉を失っている。

「ここは僕に任せて、お二人は逃げて下さい!」

「だ、誰だか知らないが、ありがとう!」

「この恩は決して忘れません」

 両手を広げ、二人を庇うように立ちはだかる僕の背に居た二人の男女は口々にお礼を述べて、一目散に逃げて行った。

 標的に逃げられた物々は腹立たしそうに僕を睨みつける。

「兄ちゃん、おいらの邪魔するのけ?」

「それだけじゃないぞ! 僕はお前に奪われた医学書を取り戻しに来たんだ!」

 ここまで来ては、もう後に引けない。

 決死の覚悟で木刀を構え、負けずと物々を睨みつける。

「おいらの邪魔するなんて、兄ちゃん悪い奴だな。悪い奴はおいら許さねぇ」

 顔から腕、胴体、足と徐々に肥大化する物々は、瞬く間にその姿を青い鬼へと変貌させた。

 鬼の特徴である小さな角、そして僕の三倍はある巨体に鋭い牙と爪。

 鬼と呼ばれている化け物は初めて目の当たりにしたが、確かにこの化け物は鬼という言葉以外に形容する言葉が見つからない。

 こんな化け物を相手に木刀一本で挑もうなんて、童切丸が笑うのも無理は無い。

 巨大な鬼を前にした僕はさっきまでの威勢は消え失せ、膝なんて笑ってしまって、立っていられるのも不思議な程だ。

 こんなの人が勝てる相手じゃない。

 死という単語が脳裏に浮かぶ。そして、その後になんでこんな事をしてしまったのだろう、という後悔の念に苛まれ、僕は戦うなんて選択肢が思い浮かばない。

 物語の英雄じゃあるまいし、無理だ。

 桃太郎が鬼を退治出来たのはフィクションだからに違いない。

 こんな化け物を目の当たりにして、戦おうなどと思うのは狂人の思考だ。

「は……はは……」

 乾いた笑いが口から零れる。

「悪い奴はおいらが食ってやる?」

 馬の胴体と見間違う程に太い物々の腕が伸びて、僕の体を捕まえようとした時、

「――あらよっと!」

 童切丸が振り下ろした日本刀が物々の腕を叩き切った光景が、僕の脳裏に焼き付いた。

 酒瓶を片手に時代錯誤な日本刀を振り下ろす。その様は正に狂人。

 体中に電流にも似た興奮が駆け回り、その姿に痺れた。

「ぐぉおおおおおおおお? いだいぃ! おいらのうでぇ、腕がぁあああああ?」

 腕を切断された物々は、血が吹き出す断面を庇い蹲る。

「童切丸さん!」

「あ? スケベエ、テメェなんで三人に増えてんだ?」

「童切丸さん? 足ふらふらですけど? ?み過ぎじゃないですか?」

「あ? あー、酔ってねぇ酔ってねぇ」

「どこ見て話してるんですか! 日本刀持ったままふらつくの危ないですから!」

 鞘から抜き放たれた童切丸さんの日本刀は月明かりに反射し、青白く輝いている。

 その輝きから相当な業物であるのは間違いないだろう。

 ただ、その持ち主がこんな酔っ払いなのが残念極まりないが……。

 というか、この人は日本が刀の所持を禁止している事を知らないのだろうか?

「おめぇら絶対許さねぇ? おいらの腕返せぇええええええ?」

 右腕を切断された物々は、左腕の拳を童切丸目掛けて振り下ろす。

 足元がおぼつかない童切丸は丸太のような剛腕を避けられない、はず、なのだが。

 まるで風に煽られたチリ紙のように童切丸の体がふわっと舞い上がり、その軽快な身のこなしで難なく回避した。

 右手に日本刀、左手に酒瓶を持った人間の動きとは到底思えない身軽さに目を疑う。

 河川敷の砂利を叩いた物々の剛腕の振動は、まるで地震のような衝撃を周囲に与える。

 こんな攻撃が当たれば、ひとたまりも無いだろう。

「っぶね。危うくゲロ吐くとこだったぜ」

 左手で口元を押さえながら、物々では無く己が吐き気と戦っている童切丸。

「っしゃー! 今度はこっちから行くぜ!」

 気合を入れて高々と日本刀を掲げた童切丸さんは、見当違いな方向へ勢い良く飛び上がると、そのまま川へ落ちて行った。

 童切丸の奇行に僕と物々は目が点になる。

 腰当たりまでの深さしか無い錦川(にしきがわ)で着地時に足を滑らせ、腰を強打した童切丸は激痛に悶え苦しんだ後に川の中で嘔吐した。

 駄目だ。コイツやっぱりただの酔っ払いだ。

 河川敷から酔っ払いの吐く姿を眺めていた僕は、完全に油断していた。

「おいらの腕返せぇええええええ?」

 突然迫る物々の腕に対応出来ず、防御も出来ず僕の体は斜面へ吹っ飛ばされた。

「がはっ?」

 背中を強打したせいか、呼吸が出来ない!

 苦しい、苦しい、これ……死ぬ……。

 なんとか息を整えようとするが、細く短い呼吸を繰り返すだけで苦しさが増すばかりだ。

 呼吸を整えようと苦しむ僕に、物々の足音が地を揺らしながら近づいてくる。

 衝撃で眼鏡を落とした僕の視界はぼやけているが、近づいてくる足音が物々のものである事は目が見えなくても分かる。

「おめぇみたいな悪い奴は、おいらが食ってやる」

 身動きの取れない僕の体を掴んだ物々は軽々と持ち上げると、大きく開いた口へ近づけ、

「っ痛ぇえなぁ?」

 パリンッと酒瓶が割れる音と共に、僕の体は物々から解放され地面へ落ちる。

 受け身なんぞ取れず、地面に腰を強打した僕は一体何が起こったのか一瞬分からなかった。

 ついさっきまで川の中で嘔吐していた童切丸がいつの間にか物々の背後に立っており、飲み口の部分だけになった酒瓶を放り捨てる。

 この酔っ払い、酒瓶で殴ったのだ。

 右手に日本刀を持っているにも関わらず、何故か左手に持った酒瓶で攻撃したのだ。

 不意を突ける絶好の機会を無駄にした男は清々しい表情をしている。

 酒瓶で殴られた後頭部を左手で擦る物々の顔は、怒りに血管を浮き上がらせている。

「ふぅ、吐いたら楽になったぜ」

 酒瓶の割れる音や物々が地面を殴りつける音を聞きつけたのか、河川敷の上には近隣住民達が集まり始めていた。

「おいらの邪魔ばっかりしやがって! おめぇ絶対許さねぇ!」

 完全に頭に血が上った物々は周囲の人々に気付いていない。その視界に捉えているのは童切丸ただ一人。

「おうおう言ってくれるじゃねぇか! 俺様だって川に突き落とされた事頭にきてんだ。覚悟しろや!」

 いや、川にはあんたが自分で飛び込んだんでしょうが。

「一太刀で終わらせてやる」

「ガァアアアアアアアアアアア?」

 怒りの咆哮を上げ、巨体からは想像もつかない猛スピードで迫って来る物々に対して、目線と同じ高さで日本刀を構える童切丸は深く長い息を吐く。

「斬鬼流壱ノ型――討鬼一閃(とうきいっせん)」

 まさに一瞬の出来事だった。

 巨大な鬼をすれ違い様に切り伏せた童切丸の動きはとても目で捉えられない程早く、その刀線は直線の残光を空中に浮かび上がらせた。

 直後、胴体を真っ二つに両断された物々の上半身が断面から徐々にズレていき、やがて地面へ落下した。

 その瞬間、周囲で見ていた民衆達がドッと歓声を上げた。

 童切丸のカッコいい姿しか見ていない民衆達が僕は羨ましかった。

 だって、こいつただの酔っ払いだし……。

「おい、スケベエ」

 日本刀を鞘に納めた童切丸に声を掛けられ、僕ははっとする。

「何ぼさっとしてやがる。大事な本、取り返したらずらかるぞ」

「あ、はい!」

 落とした眼鏡を掛け直し、物々の落としていた医学書を探して拾うと、

「おい貴様等? 一体ここで何をしている!」

 誰かが通報したのか、警察官達が橋の上から怒声を飛ばしてきた。

「うるさい奴等が来たぜ。さっさと行くぞ」

 酔っ払いのクセに人間離れした逃げ足の速さで走る童切丸の後を追って、僕も警察官達から逃げるように河川敷を離れた。

 逃走中に早すぎる童切丸の姿を見失った僕は、最後にお礼を言い損ねた事を後悔しつつも帰宅した。

 医学書を持って帰宅した僕は両親からこっぴどく叱られたが、清々しい気分だった。

 また明日にでもキヨ商店に行って、童切丸にはお礼を言おう。

 何よりも僕は今夜見た、童切丸の技に魅せられてしまったのだ。

 あんな破天荒な妖狩りは見たことが無い。

 興奮が冷めきらない僕は、今夜の彼の活躍を書き記す事にした。

 書き出しのタイトルは、そうだな『破天荒妖怪異譚』なんてどうだろうか――。

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