第16話
「職員室に行ったとき、採点済みの答案用紙が見えたの。そのとき、つい魔が差して……」
堤防の上の歩道から、石の階段をつたって下った川のほとり。目の前の川を見ながら、感傷的になる和泉。やがて彼女は語る。
「―――成績があまり、良くなかったの。いままでそんなこと気にしたことなかった。別に良かった。可もなく不可もない。現状に満足していたの。でもね……
『へえ、頭いいじゃん!』
わたしの答案用紙を見て、わたしよりも点数が低い男の子が笑顔でそう言う。そんなこと言われたのははじめてだった。わたしの成績は下から数えた方が早い。客観的に見たら、わたしは頭が悪い方。それはそうだけど、目の前の男子の、この屈託のない笑顔。彼は心の底から、あたしを褒めてくれていた。
『そんなことないよ。君だってやればできるじゃない』
『そうかな。わかんねえんだよなあ……』
『どこがわからないの? 教えてあげる』
『本当? まじ助かる!』
彼は満面の笑みでそう言う。
『和泉のおかげで、ここだけ解けたぜ!』
『へえすごい。やればできるじゃん』
『なに言ってんだよ。和泉が頭いいからだろ』
彼はにししと白い歯を見せて笑った。―――」
「そうか、和泉は来栖が好きなのか」
「あれおっかしいな、わたしは来栖くんなんて一言も言ってないよ?」
和泉の話の途中で、俺はつい口をはさんでしまった。彼女は口を尖らせる。なんだ、かわいいところもあるじゃないか。
「隠せてると思ったか? 先週図書室にいただろう」
「バレてたか……」
そのときは名前を知らなかったが、和泉の顔は以前から知っていた。先週の来栖との勉強会のとき、彼女も図書室に頻繁にいたのだ。なぜか視線を感じていたが、それは来栖のことが気になって見ていたのだろう。彼女は話を続ける。
「―――そうね、白状すると、わたしは来栖くんのことが好き。来栖くんはわたしのことを褒めてくれた、わたしの話を聞いてくれた、見てくれた。こんな、なんの取り柄もないわたしのことを。それが頑張るきっかけになった。それからはちゃんと勉強しようと思った。邪なんだだと思う。それでもよかった。成績が上がったから。嬉しかった。それが唯一の自信だった。
でもわたしはすぐに思い知るの。はじめは順調に上がっても、すぐに壁にぶち当たる。点数には上限があるもの……。でもわたしの壁はそれよりも早く立ち塞がった。」
和泉の表情が曇る。苦しそうに見えた。微かに聞こえる嗚咽。今にも泣きだしそうだった。
「嫌なら、無理して言わなくていい……」
俯いた彼女が、首をふるふると横に振る。彼女は苦しいが、吐き出したいのだ。
「わたしね、高色さんに嫉妬してたの―――」
俺は何も言えなかった。その気持ちがわかるから。俯いた彼女の顔から、雫がいくつも足元に落ちる。鼻を啜る音が聞こえる。
「来栖くんはきっと、高色さんが好き。いや絶対。わかるもん。だってわたしは来栖くんが好きだから」
彼女は顔を上げて俺を見た。その目は泣き腫らしていた。顔は赤かった。病人のような顔だった。病気だとすれば、それは恋の病だろう。
「ねえ、教えて。なんでわたしだってわかったの?」
無言で彼女を見続けた。なんと言ったものだろう。話すべきではないと思った。
「わかった、ていうのは。ちょっと違う。俺ならそうするって感じに近い」
「どういうこと?」
「俺が答案用紙を盗むとしたら、その動機は『嫉妬』だよ」
俺は速水と来栖に嫉妬している。俺は彼のようにはなれない。そんな俺がする行動なんて単純だ。彼の功績を無かったことにすればいい。手に入らないものは盗めばいい。まさに犯罪者の論理。俺は善人じゃない。
「それで解決しちゃうんだ……」
「それはどうでもいい。質問に答えてくれ。なぜ答案用紙を盗もうとした?」
「高色さんに勝てないと思ったから。悔しかったから」
「それはある。それだけではないだろ」
「うーん……手に入らないなら、もう全部壊しちゃえー理論かな」
「それで、はい次」
「いや、ないよ……」
「あるだろう。言え」
「えー……やだ」
俺から目を逸らす。心なしか、顔がさらに赤くなっている気がする。それが本当の本心なのだろう。
「観念しろ。もうバレてる」
「もう……はあ、」
心底嫌そうな顔をする。だが諦めたように口を開く。
「もしかしたら、ないかもしれないけど、わたしが1位になれば、来栖くんにまた見てもらえるかもしれないと思った」
彼女の告白に、つい笑ってしまった。彼女は憤慨する。高色の答案用紙が紛失すれば、もしかしたら2位の人が、暫定で1位になるかもしれない。和泉はその可能性に、気持ちが揺らいでしまった。あり得ないかもしれない、けどもしかしたら在るかもしれない、恋する少女のささやかな願い。そのやり方は間違っていたかもしれない。でも誰かを好きになる気持ちは罪なのだろうか。
「いや普通に頭いいだろ。全然あり得ただろう」
「無理だよ……今までずっと2位だったんだよ? 壁が高すぎるよ……」
「あの二人は別格だろう。比べる人を間違えた。あと、強いていうなら、先生が悪かったな。あの人は神経質すぎる」
「だよねえ……」
たった一枚の答案用紙が紛失するだけで、あそこまで騒ぐのだ。しかも臨時の小テストで。2位の人を1位に繰り上げなんて、楓原先生は絶対にしないだろう。加えて、その先生には速水に高色という超人的な生徒がいる。凡人には越えなければならない壁が大きすぎる。俺は初めから、上を目指そうなんて考えてない。平和に生きられればそれでいい。
速水が俺に向けて言った言葉は、本来は彼女に届けるべきだろう。学年順位を2位でキープしているのだ。可能性がある。だから俺が代わりに届けよう。
「君は、君が望めば、来栖の隣を歩けるだろう。だからもう、こんなことはするな」
「うん。もうしない」
彼女の顔はもう晴れやかな色をしていた。
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