第9話
この学園の家庭科室は、仕切りを挟んだ反対側が小さな倉庫スペースとなっており、そこに調理器具や、裁縫道具、ミシン、長期保存ができる粉系の食材などが保管されている。それができない材料は、各自で持参というルールだ。無論のこと、俺は調理器具が収納されているスペースにいる。お菓子づくりって何が必要なんだ……?
ずずず……と足元の重い箱をずらして、奥に行くための歩道を確保しようというときに、俺のすぐ脇に人の気配を感じた。そこを見れば、高色がいた。
「あの、手伝うよ」
窓から差し込む眩しい日の光。しゃがんだ姿勢から見上げる高色の背中には、その光が当たり、後光の輪が広がっていた。その様相でかけられた救いの言葉に思わず俺は、床に片膝をついて、両手を合わせ、高色を仰ぎ見た。
「ああ、女神様」
「……なにを言ってるの」
恥ずかしそうに俺から目を逸らし、頬をほんのりと赤らめた。あら、かわいらしい。
「まあ、そうは言うが、何を作るんだ。じゃないと道具が決まらん」
「そうだよね……速水くんも、来栖くんも、あたしが作りたいものでいいって、言ってたけど」
「丸投げじゃねえか」
思わず頭を抱える。そう、それは作るお菓子が決まっていないってことだ。あれ? でもみんな材料をいくつか持ってきていた気がする。先日速水が言っていたことを思い出す。
「速水さんはクッキーが好きって言ってたぞ」
「へ? ええ、そうなんだ、へえ……」
高色の声が心なしか、
「クッキーにしよう。失敗しにくい。何より速水さんも喜ぶ」
「それなら、そうしたほうがいいよね。速水くんが喜ぶかはわからないけど」
「ぷっくく!」
「なんで笑うの!?」
あら、かわいらしい(2回目)
道具を適当に見繕い、高色とともに速水たちの元へ戻った。
※※※
「……ということで、クッキーを作りたいと思います!」
「押忍」
腰に両手を当てた高色が、気合の入った声でそう告げる。それに応えるかのように、来栖がそう返す。なんだかんだでこの二人、相性ピッタリなんだよなあ。
高色の目の前には、俺が事前に図書室から持ってきた、レシピ本が広げられている。材料も道具もそろっている。あとはレシピ通りに作るだけだ。クッキーは手作り菓子の中では王道だと思う。まあ失敗はしないだろう。俺作ったことないけど。
「まずは薄力粉を用意します……!」
「最初はバターと砂糖を混ぜるって書いてあるよ」
「え! ふえ!?」
ガチャン! コロンコロン……。慌てて本を確認しようと伸ばした手が、ボウルに当たり、床に落ちて転がる。高色は「ふぁあ」とか「ふええ」とか言葉にすらなっていない、言葉を発して床に転がるボウルを取ろうとし、そのおでこをテーブルにぶつけ悶絶した。うっわ、マジ天然……。じゃなかった、おそらく人前での実演作業で緊張しているのだろう。速水がいるというのも、更にプレッシャーなのかもしれない。
その速水はこれまでの出来事を、終始笑顔で見守っていた。いや、あなたは助けてあげてくださいよ……。床にへたり込み、痛む額をおさえながら「うえぇぇん……」と泣き出す高色。もう片方の手の指で地面に「の」の字を書いてイジけてしまっている。その様子をオロオロしながら右往左往する来栖。なんだこのカオス……。やだ、もう帰りたい。
「ほら高色さん、バターと砂糖混ぜてくれ」
俺は床のボウルを拾い上げ、薄力粉をふるいにかけて、ボウルの中に粉を落としていく。いじけていた高色も、やがて元気を取り戻したのか、俺の指示に応じる。……なぜその手に卵を持っているのだろう。
「高色さん、卵はまだ使わないぞ」
「あ、うん、ごめんなさい……」
「いいから、バターと砂糖を混ぜてくれ」
「は、はい……!」
「違う! それ砂糖じゃなくて薄力粉だ!!」
「ふえぇ……」
「泣くな! 仕事しろ!」
「えぇぇぇん……」
なにが、ふえぇだよ! 泣きたいのはこっちだよ! 思わず語気を強めてしまったせいで、周囲の人たちが俺のほうを見る。俺の横には泣きそうな顔をした高色。その視線が訝しいものを見る目に変わっていく。良くない傾向だと思った。現に女を泣かせているしな……。俺でも軽蔑する。周囲からの視線のおかげで、少しだけ冷静になることができた。何をムキになっているのだろう。別に失敗してもいいじゃないか。そもそも俺には関係のないことだ。
『実はね、いま、……気になってる人がいるの……』
いつか高色が言った言葉を思い出した。なんでこのタイミングなのだろう。それはもう捨てたはずだ。未だに未練がある、自分に嫌気がさす。手に持つ裏ごし器をテーブルに置いた。横にいる高色に小さな声で囁く。
「自分の手作りを、食べてもらいたい人がいるんだろ」
「う、うん」
高色は自信なさげに俯いてしまう。ここで追い打ちを掛けたら、今度こそ泣くだろう。だからどうした。そんなことお構いなしに続ける。
「だったら、いつまでもグダグダしてねえで、作業しろよ」
「でも……」
「『でも』も『だって』も聞く耳持たん。つべこべ言わず、とにかく作れ。どんな形でも、カタチになっていれば問題ないだろう」
「でも、それじゃ……」
俯いた顔を上げ俺に目を合わせる。今にも泣きだしそうで、何かを思い詰めた表情。よく見れば、目元にはうっすらとクマができていた。おそらく昨日は眠れていないのだろう。
「お前は上手いクッキーを届けたいのか? ならば市販のものでいいだろう。素人がプロに敵うと本気で思ってんのか?」
「思ってない……よ。でも……そっか」
何かを納得したようだ。先ほどまでは暗かった表情が、少しだけ明るくなった。自信なさげに淀む目の奥に見えた、わずかな
「あたしは、あたしの『手作りな気持ち』を伝えたい」
その言葉を聞いた俺は、何も言わずその場を離れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます