邂逅



寝坊した。時計を見ると午前11時と書かれている。今から行くと、3時間目の途中からか――今日は行くのはやめよう。隣のテーブルからスマホを取って3回叩くと、耳に着けていたイヤホンから音楽が流れだす。音楽は好きでも嫌いでもない。ただ、静寂が怖いだけ。私はベッドからもぞもぞと這い出して、床へ転がり落ちた。制服が私の下敷きになる。部屋着は――玄関だっけ。立ち上がって壁伝いに歩きながら玄関へと赴き、部屋着に着替える。玄関から離れ、台所へ。パンを取り出し、トースターへシュート。スマホを操作して、ニュースを適当に流し見する。えーと、LGBT防止条例?SPS隔離法案?バカバカしい。世界はおかしくなってしまった。救いなのはこれらの条例やら法案やらが可決されていないことか。提出されているだけ馬鹿げてる。腕を擦って、とげとげし始めた心を抑える。病的に白い素肌が見える。私には関係ないって思えたらよかったのに――

チン、とかすかに音が聞こえて、そちらの方へ向くとパンが美味しそうな焼き目を付けていた。私はそれをパクパク食べながら、今日は何をしようかなと考えた。




『世界の端』私がそう呼んでいる高台へは数十段の階段を登らなければいけない。運動不足気味の私にとってはこれがかなりの重労働だ。昔は、その重労働の先に町を見下ろせるいい景色があったのだが、今はもう、『黒い靄』に覆われてしまっている。だけど、その景色もなかなか悪くない。




しばらく歩いて、頂上へと着いた。柵に持たれて、眼下を見下ろす。真っ暗だ。地球がもし平面だったら、その端っこはこんな風に見えるのかもしれない。いつものように、ポケットからたばこを取り出し、火をつけようとすると――


「ここから落ちたら、死ねるかな」

「え?」


小さな、震える声が聞こえた。透き通った鈴の音みたいな声。

振り向くと、女の子が立っていた。『黒』に侵食されて、よく見えないけれど、たぶん女の子だ。近づいて、目を凝らす。口をパクパクさせて何か言っているようだけどよく聞こえない。たばこを仕舞い、声が聞こえるように近づくと、彼女はさっと後ずさって端の柵にぶつかった。そして、彼女は怯えたように自分の体を抱きしめている。私は悪いなと思いながらも、彼女の声が聞こえるように、もう少しだけ近づいて、


「どうしたの――」

「あ........、や.........やめてください!」


この時初めて彼女の姿がはっきり見えた。大きな瞳、丸くて小さな顔、ショートにしたさらさらとなびく茶髪、小柄な体躯を縮こませて怯えている......かわいい。自分の体を抱くようにした彼女の手首には腕輪がついていた。蒼い宝石のようなものがついている。あれは、DS《ダス》?


「ご、ごめん、耳が悪くてさ」

「それなら――それならそうと言ってくださいよ!もう!なんなんですか!ふざけないでください!もう嫌です!全部嫌い!なんでなんでなんでなんで!嫌嫌嫌嫌」


突然彼女は怒りだした――と思ったら、すぐに、頭を抱えしゃがみ込んだ。助けて、嫌だと呟く声が聞こえてくる。面倒だなと咄嗟に思ってしまう私は薄情なんだろうか。たぶん、溜まりに溜まっていた負の感情が、私をきっかけにして、あふれてしまったんだろう。そう考えると申し訳ない気持ちもわいてくる。こんな時、どうするのがいいんだろう。昔、母さんが私にしてくれたことを思い出し――私は彼女のそばでしゃがみ込み、抱き寄せた。


「へ?」


彼女は驚いたように、呆けたような声を出す。


「大丈夫。大丈夫だから」


私は彼女の背中を優しく擦る。しばらくすると、体の震えは収まってきて、腕がだらんと垂れ下がる。その手首には、蒼い宝石を付けた腕輪。やっぱりDS《ダス》だ。そう改めて認識し、罪悪感が胸の中を埋めていく。そして、面倒だと感じてしまった自分を恥じた。


お前にそんな権利ないだろうに。


しばらくすると、彼女が小さく、かろうじて聞き取れる声で呟きながら私の背中に手を回した。


「大丈夫......じゃ......ないです......よ......全然......大丈夫じゃ......ない」


私のTシャツが湿っていくのを感じながら、しばらくの間、背中を撫で続けた。




「で、どうしたの」


ベンチに隣同士に座り、正面を向いたまま、私は問いかけた。


「う、え、え、っと」

「まぁ言いたくないならいいけどさ」

「え」

「めんどくさそうだし」

「で、ですよね。そうですよね。ほんとごめんなさい」

「まぁでも」


立ち上がり、柵に凭れて、


「私、この時間には大体いるから、雑談の相手くらいにはなれるかもね」

「え、あ、えっと、ありがとう、ございます」


私はおもむろにたばこを取り出して吸い始める。あぁ、落ち着くなぁ。


「って、それ、なんですか!たばこ!未成年!違法!」


そう言って彼女は立ち上がり、私に目を合わせた。本当にきれいな瞳だ。宝石みたい。


「私、成人だし」

「ほんとですか?」

「ほんとほんと、君は――ってその制服、森丘高校?」


彼女の着ていた服はよく見知ったもので、つけているリボンから、小柄な体型に見合わず上級生であることが分かった。


「え、なんで知ってるんですか?」

「私も通って.......あ」

「や、やっぱり未成年じゃないですか!?」

「い、いや、留年しまくってるからさ。成人だよもう」

「そんなわけないですよね!?」

「それがあるんだなー」

「とにかくたばこやめてください!」


そう言って彼女は私のたばこを奪おうとする。違和感。たばこを奪おうとしているのに、私から少しも目を離さない。まるで首が固定されているみたいに。私はたばこを奪われないよう、手を挙げて届かないようにする。するとかかとを上げて、プルプルと震えながら、腕を伸ばしてくる。たばこが視界から外れて見えなくなっているだろうに、相変わらず私から視線を逸らそうとしない。いや、これは――


「ねぇ、君って」


問いかけようとして、意識がたばこから離れた瞬間、彼女はジャンプをして、たばこを奪い取り、握りつぶして無理やり火を消した。


「痛っ」

「大丈夫!?」


私は慌てて、彼女の手首を掴んだ。彼女がたばこを握りつぶした手を開くと、そこは赤くなっていた。それでもなお、彼女は私から目を離さない――ってそんなのどうでもいい。とにかく応急処置をしないと。あたりを見回すが、黒い靄に覆われてほとんど見えない。きょろきょろしていると彼女が私の背後を指さして「あっち」と言った。私は手首を掴んだまま、早足でそちらへ向かい、手洗い場を見つけた。彼女を促して、やけどした方の手を流水に当てさせる。


「ごめんなさい」

「なんで君が謝るのさ、私はなにも迷惑してないよ」

「はい......すみません」

「というか私がたばこ吸ってたのが悪いんだし」

「悪いって自覚はあるんですね」


彼女は、ははっと乾いた声で笑う。意気消沈した様子だ。痛みのせいなのか、『副作用』に気づかれたせいなのか。


「さすがにね」

「止める気はないんですか?」

「ないかなー。誰にも迷惑かけてないし......ってごめん。今迷惑かけちゃったよね」

「い、いえ。それは全然――って私、さっきのこと、ちゃんと謝ってなかったですよね。ごめんなさい。いきなり怒って泣き出して。ほんと迷惑でしたよね。たばこも捨てるし。ほんとうにごめんなさい」


そう言って彼女は頭を下げた。いつの間にか視線は外れていて、頭を下げた時も、目を合わせないようにしていた。


「別にいいよ。たばこの件は私が悪いし、突然怒り出したのはびっくりしたけど、人間、そういう時もあるって」


私が本心からそう言って頭をなでると、彼女はびくりと体を震わせて、ごめんなさいと一言こぼした。


「だからさ、こっち向いてよ。ほら、よく言うじゃん。人と話すときは目を合わせましょうって」

「で、でも」

「わかってる。でも私は君の顔が見たいんだ。君のきれいな瞳が、さ」


演技がかった口調でそう言うと、彼女は吹き出すように笑ってから、


「わ、わかりましたよ。仕方ないです、ね」


その声は少し震えていて、おずおずと顔を上げる。顔は少しこわばっていて、宝石みたいに澄んだ瞳が不安げに揺れている。私が微笑むと、彼女も微笑んでくれた。


「名前を教えてくれない?」

「佐伯めぐです、あなたは?」

「それ言ったら先生にチクらない?」

「人聞きの悪いこと言わないでください。言うにきまってるじゃないですか」

「じゃあ秘密」


まぁチクられても構わないけど。彼女は、はぁとため息を吐く。体のこわばりが抜けていて、緊張はほぐれた様子だ。


「じゃあ、たばこやめてください」

「いやだ」

「早死にしますよ?」

「いいよ。たぶんあと1年も生きられないし」

「え」

「冗談」

「じょ、冗談って。もう。心臓に悪いですよ」

「さっき会ったばかりの他人なのに、心配してくれるんだ?」

「しますよ。当然です」

「そっか。いい子だね」


そう言って頭をなでると、「止めてください」と言ってめぐちゃんは私の手を払う。顔を赤くして猫みたいに威嚇していた。



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