40 贈り物を、あなたと
ハドリーがラタアウルムに来た翌日、司令部のもとへ向かったノアはコートニーを捕らえるために再び国を出た。ノアが留守にしている間、ハドリーのことは騎士団の一人が護衛することに決まった。名乗りを上げたのはティムだ。レイニーとの仲も順調な彼は、ぜひヘザーの役に立ちたいと申し出たのだ。
ハドリーは申し訳なさからか護衛してもらうことに抵抗感はあるものの、断る方が悪いと判断して彼らの決定に同意した。
事態が落ち着くまで、ヘザーとともに宿屋の一室を借りることになったハドリーを訪ね、ナサニエルはほとんど毎日宿に顔を出していた。そのうち、ナサニエルはティムとも意気投合したようで、三人の楽しそうな姿を目撃する場面が多くなってきた。
緊張感のない光景とも言えた。けれどヘザーはそんな皆の姿を見ているのが嬉しくて、彼らがくれる活力を仕事への意欲へと注ぎ込んでいた。
ハドリーがヘザーに関するナサニエルの誤解を解いてくれたため、ナサニエルのヘザーへの態度も温厚なものになっていた。コートニーがヘザーを使ってヒューバートを脅したこと。ヘザーはただ純粋に、自分のことを守ってくれたのだと説明してくれたのだ。
和解後、ヘザーはナサニエルの穏やかな眼差しにしばらくは慣れなかった。けれど彼の本当の性質はこちらなのだと理解すると、すぐに二人は友人になることができた。
ある日、酒場の準備をしていたヘザーは、珍しく一人でロビーに佇んでいるハドリーの背中を見つける。
「ハドリー、ティムは?」
「レイニーの店に行ってる。最近、僕の相手ばかりで退屈していないかと思って。息抜きをして欲しいんだ」
「そうなのね。ふふ、司令部の方に見つかってしまわないかしら」
「もし見つかっても、僕が責任を負うよ。僕がティムに行くように伝えたのだから。それに、ここにいれば、何も怖がることはない」
「ええ。ここは安全よ。安心して、寛いでほしいわ」
ヘザーはハドリーの隣に立ち、彼が見ている光景を見上げる。
「このモザイクアート、ヘザーたちが作ったって聞いた」
ハドリーは感心した声を出して目の前に広がるモザイクアートに見惚れていた。
「ノアがデザインしてくれたの。上手くできるか不安だったけれど、皆で一つの作品を作るのはとても楽しい経験だったわ」
「ノアが……ふふ、なるほど」
ヘザーの話にハドリーの表情が綻ぶ。端正な唇の端からこぼれた笑い声に、ヘザーは首を傾げた。淡くて、楽しそうな笑顔。何か、面白いことでも言っただろうか。
「やっぱり、君の笑顔はどこにいても希望を咲かす」
「どういう……?」
モザイクアートへの素直な感想を呟いたハドリーに言葉の真意を問うと、彼は視線でモザイクアートに描かれた模様を示す。
改めて、ヘザーは新鮮な気持ちになってモザイクアートを見上げる。作成していた時や、これまでの日々では、こうやってただの鑑賞者としてこの作品を見たことがなかった。
華やかに、けれど慎ましやかに。
ロビーに彩を与え、宿の象徴となったモザイクアート。
その全景をじっくりと瞳に入れたヘザーの瞼が、ゆっくりと開いていく。
「これ……」
彼女の驚きに満ちた息遣いに、ハドリーはくすりと笑う。
「うん。これはきっと、ヘザーの花だよ」
ハドリーの言葉がヘザーの胸に滲み出した感情に答えを与える。
ずっと傍にあったのに、ちゃんと意識して見ようとしないとなかなかに全貌は見えてこないものだ。
モザイクアートに描かれている数々の花々。その全てを俯瞰して見ると、花々が繋がって新たな花を創り出している。
前にその花を見た時には、まるで自分を鏡映ししているように地面に横たわっていた。が、今、目の前に広がるのは、生き生きとした美しい花の模様だ。
どうして今まで気づかなかったのか。ヘザーは自分の視野の狭さを不思議に思う。
同時に、胸の奥底で、ずっと大人しくしていた甘い痛みが目を覚ます。
ヘザーはアトリエで見たノアの数々のデザインスケッチを思い出す。あの場所で、彼はこのデザインを描いたのだ。その光景を想えば、彼女の鼓動が早くなる。
もう偽ることは苦しい。いや、そもそも、彼の前で偽ることなどもう出来ない。
ヘザーは自覚する。
この気持ちを、自分はずっとずっと前から知っていた。
真正面から見つめる想いは、苦しくも優しい。
これは愛だ。間違いなく、自分は彼のことを愛している。
ノアが国に戻ってきたのはハドリーがラタアウルムに来てから二週間が過ぎた頃だった。宿に駆け込んできたジェイデンに彼の帰還を聞き、ヘザーは作りかけの試作カクテルをよそに宿を飛び出した。
幸い、まだ酒場の営業は始まっていない。ヘザーが宿を飛び出す際にすれ違ったマクシーンも、彼女の表情を見て何も言わずに送り出した。珍しくマクシーンが緩やかな微笑みを浮かべていたのでジェイデンがからかってみると、彼女はすぐにいつもの立場を取り戻し、彼を自分の仕事に戻るようにと追いやった。
一方、街を駆け抜けるヘザーは、彼がいる場所を訊くのをすっかり忘れていたことを思い出す。が、自然とその足は決まった道を進んでいく。
パン屋を通り過ぎ、秘密基地のように隠されたあの場所へ。ヘザーは迷わず走っていく。
「ノア……!」
息を切らして彼の名を呼べば、アトリエに荷物を運ぼうとしているノアが振り返る。ちょうど、彼もこの場所に着いたばかりのようだ。
「ヘザー? もしかしてハドリーに何かあった?」
全力で走ったせいで、ヘザーの呼吸はなかなか整わない。ウィッグも乱れ、ヘザーは慌てて顔にかかった髪をよける。
「ううん。何もないわ。ハドリーは大丈夫」
まだ平常では喋れないが、ヘザーは彼に余計な心配をかけぬようにすぐに答えた。するとノアは、ほっと胸を撫でおろして安堵の笑みを浮かべる。
「良かった。ライダイ帝国にさっそく裏切られちゃったのかと思った」
ノアは手に持っていた荷物を地面に置き、どうにか呼吸を整えようとするヘザーに寄り添った。彼が優しく背を撫でると、落ち着き始めていたヘザーの鼓動がまた乱れだす。ヘザーは彼に気づかれぬよう、少しだけ恨めし気にノアを見た。
「コートニーは無事帝国軍に引き渡された。その引き換えに、ハドリーを解放するように約束した。彼は最後、ヒューバートに罪人として扱われていた存在だ。帝国側も最初は難色を示したが、彼もまたコートニーの策略の被害者だと知れば、要求を受け入れてくれたよ」
ヘザーの背を撫でる手を止め、ノアは誇らしげに任務の成果を語る。ヘザーは彼の手が離れたことに安堵し、今のうちにと呼吸を完全に平時に戻した。
「コートニーは、どうなるの?」
コートニーが帝国の牢にいることはヘザーも新聞で知っていた。が、その後の報道はまだない。訊くのが恐ろしいが、それでも気になってしまうのが人間の性だ。
「まだ帝国の審判待ちだ。けど、厳しいだろうな」
結局、ノアがハドリーにコートニーのことを訊く展開にはならなかった。盗賊たちが口を割れば彼女の居場所はすぐに突き止めることができたからだ。
偶然の巡り合わせが彼女を捕らえる道筋を与えてくれた。
「もともと、美術品の闇取引を始めたのはコートニーだった。ハドリーの婚約者になったのも、ヒューバートと取引のパートナーになったからだ。コートニーもハドリーのことが好きで、彼女から持ち掛けたと聞いた。家族になれば隠れた商売がしやすくなるからさ。でも破談になり、彼女は大事な商売での立場も危うくなった。彼女は、ハドリーとヘザーの婚約はヒューバートへの復讐にはかえっていい隠れ蓑になったと言っていたらしい」
ノアは大都会に紛れて身を潜めていたコートニーと対峙した時のことを振り返りながら、今回の彼女の暴走について改めて話す。ヘザーもちゃんと知りたかったようだ。彼の話に真剣に向き合っていた。
「彼女はなんとかして、自分の商売を自分のものとして取り戻したかった。運よくハドリーの重大な秘密を突き止めたコートニーは、それを脅しの材料にしてヒューバートに取引から手を引くように求めた。が、前に盗賊から聞いた通り、ヒューバートは約束を裏切って大量の品を国外に持ち出そうとした。コートニーに潰されたが、そのことが彼女の逆鱗に触れたんだろう。怒ったコートニーは国家転覆を企んで、帝国に真実を語らず助けを求めた。その裏で、彼女はライダイ帝国の遺品をも盗んで、関わったすべての人間を裏切っていたんだけど」
ノアはため息を吐いて空を見上げる。
「彼女は、誰かに媚びを売るのも嫌っていた。自分が軌道に乗せた商売をヒューバートに横取りされたことが何より許せなかったんだろう。犯罪に変わりはないけど、彼女にしてみれば成功の証拠だ。きっと、ハドリーのことも横取りされたと思ったはず。捕らえた時、彼女はやけに開き直っていた。自分を嘲った人たちに報いを受けさせ、果てはヒューバートが滅んで満足している、と、堂々と微笑んでいたよ」
そこまで話し、ノアは上に向けていた視線をヘザーに戻す。ノアの話を聞いたヘザーはコートニーへの想いを巡らせているようで、地面を向いて何かを考え込んでいた。そのひたむきな思慮深い眼差しは、決してコートニーのことを恨んではいなかった。懸命に、彼女の立場を考察しているようにも見える。
ヘザーの実直な反応に、ノアは最後の問いに答えたコートニーの言葉をふと思い出す。
何故、ハドリーの秘めたる恋に気づいたのか。
そんなの簡単よ。彼の隣にいるヘザーの表情を見ていれば、彼女が愁いに満ちていることはすぐに分かるもの。単純で、愚かな女。彼女のことは嫌いだけど、そこは同情してあげてもいいかもしれないわ。だって、憐れだもの。
噂通り見目麗しく、ただ屋敷で座っているだけでも豊かな人生が約束されていたはずの彼女。コートニーが闇に手を染めたのは、彼女なりの世間への抗議だったのか。
ノアはライダイ帝国軍に自由を奪われていくコートニーの姿を思い返し、寂寥を想う。
けれどヘザーの素直な眼差しを見ていると、そんな侘しい情も溶かされていくようだった。
「ヘザー」
ノアの声にヘザーは顔を上げ小首を傾げる。彼の次なる言葉を待っているのだ。が、ノアは次の言葉を用意しているわけではなかった。ただ、想いのまま、彼女の名を呼びたかっただけなのだ。
口にするだけで多幸感が身体中を駆け巡り、最上の喜びを知る。
同様に、ノアを見つめる彼女の表情は二週間前にはなかった幸福に満ち溢れていた。ハドリーと共に過ごし、ナサニエルと和解し、ジェイデンたちと忙しない日々を送る。そのすべてが、彼女の心を輝かせているようだった。
「あ。そうだ、ノア。宿のモザイクアートなのだけど、あれは、もしかしてヘザーの花を描いているの?」
何も言わないノアの代わりにヘザーが思い出したように口を開く。
「うん。気づかれちゃったか。ヘザーたちのことを想えば、自然とあのデザインが浮かんできたんだ。せっかくの大役を得たんだし、キャルムさんやマクシーンさん、そしてヘザーへの贈り物になればいいなって思って」
「ふふ。素敵な贈り物ね」
「そう言ってもらえると、すごく嬉しい」
ノアは気取ることなく素直に笑みをこぼす。彼の無防備な笑顔を直視できないヘザーが視線を僅かに落とすと、彼の軍服の胸元のポケットに刺さる小さな赤い実のついた小枝に気づく。
「それは?」
「ああ。これは、コートニーのところへ行く道中で拾ったんだ。木陰で休んでいたら頭から落ちてきた。もう出発しようとしてた矢先で。何事かって気を取られていたら、ちょうど俺たちが行こうとしてた道を暴走した馬車が通り過ぎていって。もし枝が落ちて来なかったら、あの馬車に轢かれてただろうな。それで、命を救ってくれたこの枝を今回の任務のお守りにしてたんだ」
ノアは小枝をポケットから取り出そうと腕を曲げる。が。
「あ。そうだそうだ。忘れるところだった」
途中で何かを思い出したらしく、慌ててアトリエの前に置いた荷物のもとへ駆けて行く。
「これ。ラタアウルムの遺品がないか探しに帝国軍と一緒にロノネアを視察する機会があってさ。その時に見つけたんだ」
ノアはヘザーの隣に戻ると、手に持ってきた髪飾りを彼女に差し出す。
「カスターニュ家を整理している時に出てきたものらしい。ほとんどは帝国軍のもとへ行ったけど、どうにか交渉して、これだけは譲ってもらえたんだ」
彼が手にしているのは見覚えのあるパールの髪飾りだった。ヘザーは髪飾りとノアの顔を交互に見て、信じられない、と目を丸くしていく。これは確かに、ハドリーに貰ったあの髪飾りだ。
「これしか持ち帰れなくてごめん。色々あったけど、ロノネアでの日々は、君にとって幸福なものだったはずだ。その時のことを忘れてしまうのは、やっぱり勿体ないなって」
髪飾りを受け取り、ヘザーはパールを太陽に透かしてみる。きらきらと輝く乳白には一切の穢れがない。国がなくなり、この髪飾りも多くの波乱を乗り越え、傷を負ってきたはず。けれどそんな苦労など見せることもなく、その輝きは、凛とした美しさで見る者を魅了する。
まるで、胸の内を悟られまいと隠すかのように。
ヘザーは髪飾りを胸の前で抱きしめ、静かに首を横に振った。
「ありがとう、ノア。とても嬉しい。確かに、ロノネアでの毎日は楽しいものだった。でも、私、今が幸せ。望んでいた心の自由を手に入れたような気分なの」
一つ一つの言葉を丁寧に紡ぎ、ヘザーはノアをじっと見つめる。
「だから、そのことも覚えていたいの。……ノア、そのお守り、私に譲ってもらえないかしら?」
「え? これ?」
ノアは不意打ちを食らった様子で胸ポケットを指差す。剥き出しの赤い実がふるりと揺れた。
「うん。すごく大事なものだって分かってる。でも、だから、欲しくなってしまって」
「全然いいけど……俺にとってはお守りだったけど、傍から見たら、これ、ただの枝だよ?」
「ふふ。だから欲しいの」
ヘザーのささやかな熱意に押され、ノアはポケットから取り出した小枝を彼女に渡す。ヘザーは嬉しそうにそれを受け取り、胸の前で抱きしめた。
何故、彼女が何の変哲もない小枝を求めたのか、ノアは少し不思議に思っていた。とはいえ彼女が愛おしそうに笑えば、そんな些細なことはどうでもよくなってしまう。
柔い微笑みでヘザーがノアを見上げると、再び二人の瞳には互いの姿が入り込む。
二人が時を止めたのは、ほんの数秒だったかもしれない。
気づけば、どちらからというわけもなく互いに顔を寄せ合い、淡い温もりを享受していた。
「ノア……」
唇を離せばヘザーの口から微かな息が洩れる。切なく揺らした瞳が何かを告げようとした。が、言葉は紡がれるより前にほどなくして塞がれる。
彼の腕の中に誘われ、ヘザーはノアの首の後ろまで手を回す。もっと彼のそばに寄りたい。その一心だった。
彼女に答えるかのように、心地よい安心感が彼女を包みこむ。これ以上の安寧の場所は、きっとこの先にも見つかることはない。
愛惜の想いに圧された踵が浮き上がり、ヘザーはつま先だけの感覚で彼に寄りかかる。ノアの腕がさらに彼女の身体を抱き寄せた。
指先に携えられたお守りが二人の息遣いに合わせてほのかに震える。お守りに少しの力を込めた後で、ヘザーは閉じていた瞼をゆっくりと開け、光を取り入れた。
続けて踵が地面を捉えると、ヘザーはお守りとともにノアの手を握りしめて恥ずかしそうに笑う。
二人で奏でる笑い声が宿す希望に心が躍ってしまうのは、仕方のないことだった。
ふたつの瞳の色が交わえば、想いが溶け合い重なる。
互いの瞳に映る違わぬ夢に自然と頬がほどけていく。
記憶の中に少しでも多くのあなたの表情を映していくことが、最も幸福な喜び。それが全うできたのなら、最期の時も、もう何も後悔はない。
健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも。どんな困難にも切り裂けやしない。
この命ある限り、最愛のあなたを守り抜く。
もはや言葉は必要なかった。
繋いだ手の温もりが教えてくれるのだ。
今、新たな過去がはじまったと。
あなたを生涯変わることなく愛することを 冠つらら @akano321
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