39 ふりかえれば

 部屋を出てきたヘザーを見れば、これからすべきことは明らかだった。

 ノアは彼女の後ろにいるハドリーに微笑み、改めて挨拶をする。


「ラタアウルム国で騎士団に勤めてる。ノアだ。よろしく」


 彼が伸ばした手と握手をし、ハドリーは清白な声とともに笑顔を広げる。


「こちらこそ。よろしく」


 ヘザーはノアとも目を合わせ、心の中でお礼を言う。後でまたきちんと言葉に出して言うつもりだ。が、その時が待ち遠しくて、先行する気持ちを表情に押し込めた。

 一階に下りた三人は、診療所の主であるターナー家に事情を説明する。ちょうど診療所の休憩時間だった。ヘザーたちを迎え入れてくれた娘は昼寝をしていたが、ハドリーがソファで眠る彼女の頭をそっと撫でると、微かに目を覚ました娘は愛らしい笑みを浮かべた。


「おにいさん、もう、かなしくない?」


 寝言のような声で娘がハドリーに訊く。ハドリーが朗らかな微笑みでしっかり頷くと、彼女は安心したように笑う。

 娘と握手を交わしたハドリーが立ち上がると、ヘザーが彼を迎えに来た。彼女の無言の問いにハドリーの口角が緩やかに持ちあがる。もう、準備は整っているようだ。


「帰りましょう」


 ヘザーの温かな声は、心地の良い柔らかな空気の中へと溶け込んでいくようだった。




 ベツィアを出たヘザーたち。来た時は三台あった車も帰りは一台のみ。ノアは運転手とともに前列に座り、ヘザーとハドリーが後列に座った。

 ラタアウルムまでの道のりは順調で、物騒な出来事に遭遇することもなかった。が、旅の日程の半分を越えたところで、ヘザーはふと妙な違和感に気づく。


 そういえば、今回ベツィアに向かい、ハドリーと接触した目的は彼にコートニーとヒューバートの話を聞くことだった。コートニーの行方を突き止める手掛かりを探していたはずだ。

 けれどノアとハドリーの様子を観察していても、ハドリーがノアに丁寧なお礼を言っていたことしか聞こえてこない。ハドリーとともにラタアウルムへ戻ることになった時、ノアが無事に帰るまでが任務だからまだ安心することは出来ないと言っていたことは覚えている。


 ハドリーのことを保護し、ライダイ帝国から守れるように尽力すると意気込んでいたが、やはりその時もコートニーの話は出てこなかった。

 前列に座るノアのやけに穏やかな表情を覗き、ヘザーは難しい顔をして小首を傾げた。


「ねぇ、ノア」


 ラタアウルムに着く一歩手前で最後の休憩を取ることになった一行。ヘザーはここぞとばかりにノアに小声で囁く。ハドリーは運転手と車の仕組みについて楽しそうに話していた。

 水を飲んだノアはハドリーたちの様子を微笑ましく見守りながら和やかな声でヘザーに応える。


「ヘザー、どうかした?」


 妙に落ち着いていて、ラタアウルムを出発した時に纏っていた厳格な雰囲気も今は消え失せている。ヘザーの疑問がますます濃くなっていく。


「ハドリーを守ってくれると言ってくれてありがとう。だけどコートニーの話を、まだハドリーに訊いていないでしょう? それが主な任務だったはず。もうラタアウルムに着いてしまうわ」


 ヘザーの真剣な眼差しにノアはケロリと笑ってみせた。


「大丈夫。先に帰った騎士たちはとっくにラタアウルムに着いている。あの盗賊たちがいるから、情報はそこからでも取れる。だから、ハドリーに訊くのも急がなくていいかなって」

「え? それで、大丈夫なの? 司令部に、叱られたりしない……?」


 やけにあっさりした彼の態度。まるで端からハドリーに話を聞くつもりなどなかったかのように迷いのない語調だ。

 騎士団という一国の軍組織に所属しているからには、それはそれは規律も厳しく、任務をしっかりと遂行しなければ叱責もやむなし。

 騎士団のことを表面的にしか知らないヘザーの印象はそんなもので、彼の何も問題なさそうな飄々とした調子に面を食らってしまった。もしや自分が思うほど、そこまで厳しい組織ではないのだろうか。

 ヘザーの目が丸まると、ノアは少しだけ考える素振りを見せる。


「んー……まぁ、ハドリーは一緒に帰るし。多少は大目に見てくれるはずだ」


 ほんの僅かに彼の眉が困ったように垂れる。その口ぶりから、やはり騎士団の司令部はある程度の規律を備えているようだ。ということは、ヘザーの想像もあながち間違いではない。が、ノアはヘザーの心配をよそに清々しい笑みを浮かべる。


「でも、任務は無事完了した。上々だよ」

「……そう?」


 彼の晴れやかな態度を見ていると、本当に何も問題がないように思えてきてしまう。疑問が解消されたような、されていないような。ふわふわとした感覚であることに変わりない。


「うん。だから心配しないで──っと、あっちはちょっと心配だけど」


 ノアはくすりと笑った後で、ハドリーたちの方に視線を向けて若干顔を強張らせる。ヘザーが同じ方向を見ると、ハドリーが車の運転席に座っているのが見えてきた。どうやら運転手の計らいで運転に挑戦するらしい。

 ノアは肩をすくめながら危険がないかを確認するためにハドリーたちのもとへ向かう。呆れたようにも見えるその背中がヘザーには少し楽しそうに見えた。

 ヘザーもハドリーの新たな挑戦を見守るためにノアを追い、残り少ない旅の行方に思いを馳せた。



 ハドリーに会うためにラタアウルムを出て一週間と少しが過ぎていた。国に戻ったヘザーは、ラタアウルムの空気を吸った途端に胸がいっぱいになってくる。

 ラタアウルムを背にした時は、次にここに戻る時の自分の姿が想像できなくて不安に押し潰されそうだった。

 隣に座るハドリーをちらりと見やれば、また涙が出てきそうになってしまう。


 彼と一緒にこの場所に戻ることができた。

 その事実が嬉しくてたまらない。けれどまだ、物語が終わったわけでもない。ヘザーはラタアウルムの街並みを興味津々に眺めるハドリーの横顔を見つめ、次なる物語へと胸を膨らませる。

 車は、出発した時と同じくキャルムとマクシーンの宿屋の前で停まった。ヘザーがここでお世話になっていることを話すと、ハドリーは彼女が過ごしてきたこれまでの生活に興味を示した。


「ヘザー‼ お帰りー‼」


 車の停車音が聞こえたのだろう。ヘザーたちが車を降りる前に、宿屋からはジェイデンが弾丸の如く飛び出してきた。


「ジェイデン、ただい──」


 車を降りたヘザーが彼に笑顔を返すと、ジェイデンは彼女を言葉ごとぎゅうっと抱きしめる。彼のハグの勢いに一瞬呼吸すら止まってしまった。ジェイデンがぐるぐるっと身体を持ち上げて回すので、少し照れくさくてヘザーの顔が赤くなる。


「君がハドリー?」


 ジェイデンは熱烈なハグからヘザーを解放し、ノアの隣で突然のジェイデンの登場に驚いているハドリーに声をかける。


「俺はジェイデン、よろしくなっ」

「こちらこそ。……ヘザー、僕に会って欲しい人って、彼のこと?」


 まだジェイデンの底抜けに明るい調子に戸惑っているハドリーは、こっそりとヘザーに耳打ちをする。ヘザーは彼の問いにはっきりと首を横に振り、「彼は私の恩人なの」とジェイデンのことを改めて紹介した。


「あなたに会って欲しい人は、宿の中で待っているはずよ」

「……誰だろう?」


 ぽかんとするハドリーの手を引き、ヘザーは彼を宿屋へ迎え入れる。入って目の前にあるレセプションにはキャルムとマクシーンが待ち構えていて、二人はヘザーの帰還とハドリーの来訪を歓迎した。

 そのまま左に曲がり、ロビーへとハドリーを誘えば、暖炉の前のソファに座っていた一人の青年が物音に反応して立ち上がった。


「…………………ネイト?」


 彼の顔を見たハドリーがぽそっと呟く。ソファから立ち上がったのはナサニエルだ。彼の帰りをずっと待っていたようで、ナサニエルの目の下には寝不足の痕がしっかり残っていた。


「ハドリー……!」


 ハドリーと目が合った瞬間、ナサニエルの表情が大きく崩れていった。ヘザーも初めて見る彼の表情だった。あまりに脆く、感情が溢れてきて制御など不可能なのが明らかだ。どれだけの間、彼が痛みに苦しんでいたのかが分かってしまう。もはや剥き出しの、ハドリーに対する愛が標されていた。


「ネイト。どうして、ここに」


 何が起きたのかまだ理解が追いつかず、ハドリーの声は震えていた。ヘザーは彼の手を離し、一歩後ろに下がる。


「ナサニエルは、コートニーの警告でロノネアを出ていたの。獣医として、この街の人々を救ってくれたわ」


 ヘザーのささやかな声が固まってしまったハドリーの思考に再び息吹を与える。


「そんな……ああ、ネイト!」


 心が動き出せば、あとは躊躇いなどなかった。ハドリーとナサニエルは互いを強く抱きしめ、奇跡の再会に涙を流す。

 ネイトという愛称を久しぶりに耳にしたヘザーは、なんだかくすぐったくなって思わずはにかむ。ナサニエルのことをそう呼べるのは家族のほかはハドリーだけなのだ。


 二度と会えないと思っていた二人。その喜びの実感は、きっと計り知れないものに違いない。ヘザーは自らがハドリーと再会した時のことを思い、ナサニエルの心情を推し量る。

 ラタアウルムで再会してから、ずっと気を張りつめた顔をしていたナサニエル。ようやく、彼の自らへの呪縛が解けたのかもしれない。


 ハドリーの表情も、ロノネア王国で惜しみなく見せていた笑顔よりも一際柔らかに見えた。彼がナサニエルに笑いかけると、辺りがふんわりと明るくなっていく。天使と呼ばれた彼の笑顔は未だに健在のようだ。


「……確かに、これは惚れちゃうかもしれないなぁ」


 抱き合うハドリーとナサニエルを見守っていると、ふと背後から声が聞こえてくる。ヘザーが後ろを振り返れば、ジェイデンがナサニエルと笑い合うハドリーを眺めて感慨深い顔をしていた。


「それ、絶対にナサニエルには言うなよ。毒を盛られるぞ」


 二人の微笑ましい様子を見て朗らかな笑顔を浮かべるノアがこっそりジェイデンに警告する。


「分かってるって。でも、サンドラの気持ちも分からなくはないかな、と思って。誰かを好きになるのは理屈じゃないんだなぁと」


 ジェイデンは腕を組み、うんうん、と新たな学びを噛みしめるように頷く。

 彼の大人びた眼差しに、ノアとヘザーは顔を見合わせて目を瞬かせた。

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