38 サイセイ

 二階には四つの扉が並んでいた。一つは見るからに物置で、あとの三つは部屋に続いているものだ。三つのうちの一つは扉が開けっ放しで、中には小さなベッドが見える。扉は残り二つ。どちらの戸を叩くべきか。ヘザーは直感で分かっていた。


 片方の扉は他のものと比べて比較的大きく、家主のものだということが一目瞭然だからだ。残された一つの扉の前に立ち、ヘザーは硬くなった拳を持ち上げていく。

 ノアはすべてを彼女に委ね、物言わぬ護衛として彼女の傍についていた。

 やはり目の前にすると気持ちが騒ぎ出すのは避けられない。ヘザーは心音に揺られながら、ゆっくりとしたリズムで扉を叩いた。


「はい」


 扉の向こう側から声が返ってくる。たった一言。だがその声が、遠い日々の記憶と重なりヘザーの胸を切なく締め付ける。


 返事をしなくては。


 頭では分かっていても、閉ざされた口は開こうとしない。固く結んでしまったわけではないのに。ヘザーはその瞬間、すべての言葉を忘れてしまっていた。


「君に少し助けてもらいたい。ターナー夫人に、こちらにいると聞いたので。直接訪ねて申し訳ない」


 声を失ったヘザーの代わりにノアが部屋に向かって明朗な声をかけた。すると、部屋の中からはバタバタと何かが落ちる音が聞こえてくる。音の具合から推測するに、積んでいた本が床に落ちてしまったようだ。


「ああああ。ごめん。ちょっと待ってください。あ、入ってきても大丈夫ですよ」


 本を拾っているのか、少し慌てた声が続く。ノアはヘザーをちらりと見やり、硬直したままの彼女の横から手を伸ばして扉を開いた。

 部屋の窓が開いていたからだろう。ノアが扉を開けると、待ち構えていたかの如く涼やかな風が駆け抜けていく。

 眩い光が目の前に広がり、視界が覚めていく感覚だった。

 ヘザーが真っ直ぐに前を見ると、机の前で拾った本を胸に抱え込んでいた青年が急いで立ち上がる。


「ごめんなさい。机にぶつかって、本を崩してしまって──」


 彼は本を抱えたまま、廊下に立つヘザーとノアに視線を向けた。が、二人の姿を見た刹那、彼の声も失われてしまう。


「…………ハドリー」


 自分が声を出せているのかまだ実感が沸かなかった。ただ空気の振動が自分の口から出ていったことだけは辛うじて分かる。強張って乾いていたはずの瞳がじんわりと熱に滲んでいく。潤んだ瞳が映すのは、陽日を纏い、部屋の中央に立つ彼の姿。


 最後に会った時よりも痩せていて、服も継ぎ接ぎだらけの物だった。もともと大柄というわけでもないが、布がよれるほど着倒された服を着ているせいか、余計にそのシルエットが儚く見える。

 髪も最低限にしか整えておらず、なるべく手をかけないようにしているのが明白だった。が、それでも彼の雅やかな雰囲気は隠されることもなく、むしろ無骨な身なりが余計に彼の端麗な容姿を際立たせていた。


「俺は廊下で待つから。何かあったら呼ぶように」


 陽炎を目にしたかのように見つめ合う二人を交互に見たノアは、ヘザーにそう伝えて部屋の扉を閉める。部屋の中にはヘザーとハドリーの二人だけになった。


「……ハドリー、私……」


 そこで、ヘザーは自分の頭を覆うブルネットの髪にふと意識を向ける。前髪を見上げ、ヘザーは静かな呼吸で瞼を閉じた。

 次に瞼を開けたヘザーは、それと同時にカチューシャを外してウィッグを手で掴む。ゆっくりとウィッグを下ろしていくと、まだ駆り立ての芝生ほどに短い地毛が露わになる。

 ヘザーはウィッグを完全に外し、カチューシャとともに床に置いた。


 彼にこの姿を見られることを、王国の馬車に乗っていた時の自分ならばどれだけ恐れただろうか。きっと、こんな姿を見られるくらいならば死んでしまいたいと思ったかもしれない。何にそんなに怯えていたのか。今は、そんな惧れの影も形もない。

 ヘザーは真っ直ぐにハドリーを見つめたまま、糸に吊り上げられたかのようにしっかりと胸を張っていく。


「ヘザー……?」


 再び聞こえてきた彼の声に、ヘザーの涙腺がぐらりと緩む。泣いてはいけない。伝えるべきことをまだ何も言えていないのだ。彼にまた会えるのならと、幾度となく願ったことを。

 ヘザーは涙を堪えて深く頭を下げる。


「ハドリー。ごめんなさい。私、あなたのことを助けると言って、反対にあなたを危険に晒してしまったわ。わた、私……ずっと、言いたくて……」


 まだ涙は外に出ていこうと抗ってくる。ヘザーは両手でスカートの表面を掴んでどうにか耐えようと努力した。力の限りに布に縋り、スカートには皺が寄っていく。


「ごめんなさい。ハドリー。きっと謝っても足りない。でも、言わせて欲しいの。あなたにずっと、謝りたかったから」


 自分の拙い言葉が憎らしかった。ヘザーは感情を上手く言い表せないことが悔しくて顔を歪ませる。深々と頭を下げ過ぎたせいか、少しでも間違えれば頭からひっくり返ってしまいそうだ。

 彼女の心情とは裏腹に、爽やかな風が部屋の中を無邪気に駆け回る。


「ヘザー」


 びくりと、ヘザーの上半身が大きく跳ねた。肩に目を向ければ、傷痕の残る痩せた手がそこに触れていた。その手を見たせいだろうか。ついにヘザーは涙腺との戦いに負けてしまう。

 堰を切ったように涙が溢れだし、瞬く間に彼女の頬は涙に濡れていった。


「謝らないで。それは、君の言葉じゃない。僕が言う言葉だから」


 さっきよりも近くで聞こえる声。視線を上げていくと、すぐ傍にハドリーの苦悩に歪んだ表情が広がっていた。


「ヘザーはいつも、僕を守ってくれた。父に本当の自分を告白できなかったのは僕だ。ずっと分かっていた。ヘザーに背負わせてはいけないって。でも、僕はヘザーの優しさに甘えていたんだ。僕の弱さが、一番大切な人を傷つけてしまった。ヘザー、赦してくれなんて言わない。僕が、君を守るべきだったのに」


 ハドリーの誠意のこもった語調に、ヘザーは知らず知らずにうちに首を振っていた。イヤ、と幼子が駄々をこねるように。


「いいえ。ハドリー。あなたはいつも、私を守ってくれたわ。私がここにいるのは、あなたの言葉があったからだもの。あなたがいなければ、私はとっくにすべてを諦めていた」


 身体を上げ、ヘザーはハドリーを見上げて涙一杯の表情に力を込める。盗賊に捨てられたあの時、彼の存在が自分の足を立たせてくれたのだ。しかしハドリーは首を横に振って否定する。

 近くで目が合えば、彼の瞳に刻み込まれた罪の意識が見て取れた。ヘザーは肩に置かれた彼の手を取り、壊れてしまわないように優しく握りしめる。


「ずっと前に、教えてくれたでしょう?」

「……ヘザー」


 彼の華奢な指先が、微かにヘザーの言葉に応えてくれた。手と手を繋げば、彼がそこにいることが確かに伝わる。ぐしゃぐしゃになったヘザーの顔に、次第に穏やかな笑みが広がっていく。

 彼女の微笑みが彼の張りつめていた心に隙間を空けたのか、ハドリーの目元も柔らかに垂れ、自然な笑顔が覗き始める。


「ここで、医療活動を手伝っていたの?」


 繋いだ手をそっと揺らし、ヘザーは彼に問う。根拠などない。が、追放前に彼と手を重ねた時よりもずっと心が和やかになっていく気がした。以前は、切なくて苦しくて、彼の肌の感触すら分からなくなっていたのに。


「そうなんだ。僕のことを気にしてくれた革命軍の伝手でここまで来て。僕が危険な存在だと知りながら、ターナーさんたちが匿ってくれたんだ。せめてものお礼として、出来ることはやりたくて」


 ハドリーは先ほど崩した本の山を一見して恥ずかしそうに笑う。


「医学の勉強をしていたものね。……ロノネアを出るとき、国は、どうなっていたの?」


 ヘザーの声が微かに強張る。まだ、母国が大変なことになってしまった事実を受け止めきれていないのだ。


「内乱続きで、国は荒れていた。混乱しきっていたよ。僕のことを監視している余裕すらなくなって。それで、革命軍の中でも穏健派の人たちが、僕のことを助けてくれた。コートニーから話を聞いて父が僕を牢に閉じ込めたことを知った人がいて。帝国軍は君のことも殺すだろうが、君は不当に殺される必要はない、そう言って、逃がしてくれたんだ」


「……そうだったのね」


「彼らの気持ちは嬉しかった。でも、父の犯した罪だ。僕に勇気さえあれば、父を止めることができたかもしれない。正直、僕だけがこうやって生き延びていることは、複雑な気持ちだよ。ヘザーは無実だって言っても、誰も聞く耳を持ってくれやしなかった。君の行方も分からなくて……。皆、父の言いなりだ。自分の無力さが情けなかった」


「私のことなんかいいの。ヒューバートはあなたを拷問にかけたって……」


 傷痕が滲む彼の肌を見たヘザーの表情が痛みに押しつぶされる。


「ああ。お前は病気だから目を覚ませって、力づくで言い聞かせようとした。だけど父の気持ちも全く分からないわけじゃない。自分が理解できないことを受け入れるのは難しい。だからといって、本来ならば無実だった人たちを苦しめた事実には変わりないけれど。……確かに目は覚めたんだ。僕が、傍観しかしてこなかったこと。立ち向かおうとしなかったことも。そんなことでは、何も変わらないって」


 繋いでいたハドリーの手が離れていく。ヘザーは彼の憂いに満ちた表情をじっと見つめる。一歩ずつ離れていく彼の身体。広がる距離に、ヘザーは不意に不安を覚える。


「来てくれてありがとう、ヘザー。君の顔を見れて、ほんの少しの間、夢を見られたような気がする。でも、もう僕のことは気にしなくていい。僕は自分の罪に向き合い、償わなくちゃ。ヘザー、僕のことなんか忘れて、君には、幸せな場所で穏やかな日々を過ごして欲しい」


「だめ‼」


 彼の願いをヘザーは間髪入れず拒絶する。彼の言いぶりでは、彼はもう全てを諦めているように聞こえたからだ。ひどく後ろ向きな彼の決意に、反射的に大きな声を出してしまった。けれどヘザーは怯むことなく一歩前に出る。ハドリーは彼女の意志の固い返事に驚き、微かに目を丸くした。


「あなたには不可能なんてないはずよ。最大……いいえ、限界の限りまで、あなたには幸せな日々を送って欲しいの。その中で、たくさんの夢を追って欲しいから。あなたの夢は、とても素晴らしくて、私に、幸せを与えてくれるの」


 ヘザーの声は揺るぎなかった。堂々と、自信を持ってそう言い切る。

 彼の背後に見える医学の本の山を見れば、彼女の脳裏にはかつて彼と交わした会話が蘇ってくる。


「ハドリー。私にだけ押し付けるなんて、許さないんだから」


 ほどけていくヘザーの表情は少しばかり楽しそうだった。彼女の頑固な熱意がその表情を豊かなものにしていく。ハドリーは何度か瞬きをした後で、ふと、力が抜けたように吹き出した。吹き出し方すら洗練された仕草だったことに、ヘザーは変わらない彼の素顔を垣間見たようで嬉しくなる。懐かしい宝物に触れた気分だった。


「それは、とんだ期待を背負ったものだな」


 彼の笑い声に混じった言葉に、ヘザーは得意気に笑みを返す。その晴れやかな笑顔を見たハドリーは、ちらりと扉の向こうに目を向け柔く呟く。


「君がここにいるのはきっと、僕のおかげじゃない」

「……え?」

「ううん。ヘザー、髪型が変わって、ますます綺麗になったなって」

「そっ、んな、お世辞なんていいの」


 彼が何を言ったのかちゃんとは聞き取れなかった。急な誉め言葉に素直に誤魔化されてしまったヘザーは、そんな自分の情けなさに眉尻を下げる。


 ハドリーの表情は、再び別れを告げようとしていた先刻よりも軽やかになっていた。もう、暗鬱な重責は感じない。大好きだったその笑顔を見ていると、ヘザーの胸には幸福感が滲んでいく。


 本当はずっと、こうやって彼と向き合えたらと、心の淵では切望していた。かつてそれを阻んでいたのも自分に他ならない。けれど、今は。

 ヘザーは芽生えて間もない感情が照れくさくなりはにかむ。

 その眼差しの形は似て非なるもの。ほんの僅かに違うだけなのに、こんなにも清々しいものなのか。


 ──あなたを生涯変わることなく愛することを


 あの日閉ざされた誓いの言葉。だが、その誓いに辿り着けなかったのは当然のことだったのかもしれないと、今なら思えた。


「ねぇ、ハドリー。あなたに、会って欲しい人がいるの」


 ヘザーの言葉にハドリーは首を傾げる。罪悪感があるから一緒には行けない。そんなことを彼に言わせるつもりもなかった。とはいえ、彼が親友にそこまで意固地になることはないというのも分かりきっている。だからこそ、つい大胆なことも言えてしまう。


 空白の時を経て、ヘザーはただ一つの誓いを胸に刻む。

 ようやく、彼と同じ誓いを望むことができたのだ。


 ──あなたを生涯変わることのない曇りなき慈しみのもと

   友として肩を並べ

   必要なときには何を惜しむことなく支えることを

   ここに、誓います

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