37 キャンディ

 ハドリーがいるのはベツィアでも数少ない診療所だった。ベツィアは国土面積がラタアウルムでいう一つの街程度しかない本当に小さな国だ。人口も少なく、他国ではあって当たり前の施設も必ずといって備わっているわけでもない。


 怪我や病気の治癒の面倒を見る診療所は国民にとっても貴重な施設の一つとなる。ロノネア王国を離れたハドリーは今、そんな人々の救いの場所で医療活動に励んでいるらしい。


 水面が揺れる滑らかな音を聞きながら、ヘザーは事前に聞いたハドリーの現在の状況を思い深呼吸する。

 運河を渡った舟を降り、ヘザーはノアとともに診療所までの道を歩きはじめた。ヘザーたちを乗せてきた車はベツィアの検問所で預かってもらっている。こんなに小さな国で車を走らせては必要以上に目立ってしまう。そもそも、ベツィアでの主な移動手段は馬車や自転車ではなくボートだ。


 豊かな緑の中を流れていく網の目に広がる川が、住人たちにとっての道となるからだ。

 しばらく歩いても、ヘザーは自分の身体がまだ波に委ねられ、微かに揺れている感覚に包まれていた。まるでゆらゆらと心が凪にたゆたうようだ。そのせいか、彼女の心は奇妙なほどに穏やかだった。


 川を使って移動していることもあり、道を歩いてもすれ違う人は少ない。たまに近くに家がある住人が歩いているくらいだ。彼らは皆、ヘザーたちのことを見て慎ましやかな笑顔を浮かべるとともに会釈をしてくれた。異国から来たことは一目瞭然なのに、彼らはヘザーたちのことを警戒する様子もなく、温かく迎え入れてくれる。


 想像以上に緩やかな時が流れるベツィア。きっと、外部の人間がこの国を訪れる動機の多くが観光だろう。ヘザーはそう思い、彼らの温厚な微笑みに僅かな罪悪感を抱く。自分たちの場合、観光、とは決して言えないからだ。


 今回の旅の目的はあくまでもハドリーから情報を得ること。もう一つ、可能であれば彼の身を保護することだった。

 ある意味で、今のハドリーの存在は時限爆弾のようなもの。彼の居場所が帝国に伝われば、そこがどこだろうと瞬く間に戦場に変わってしまう。


 彼自身がヒューバートと国王の暴走に関わっていようとなかろうと、彼が生きていると分かれば帝国軍は必ず彼を捕えに来る。彼を捕える理由など、ロノネア国王と血縁があるというだけで十分だ。

 ロノネア王国を支配下に置いたライダイ帝国の名誉にかけて、旧体制の人間を放置するなどあり得ない。


 ヘザーの前を行くノアの歩みが緩やかに止まっていく。足元を見つめていたヘザーがそっと顔を上げると、湖のほとりに淡い水色の建物が見えてきた。二階に見える窓枠は白く縁取られ、屋根は濃い茶色に塗られている。


 ベツィアの言葉をヘザーはこれまできちんと学んだことはない。が、建物の前に立つ看板に書かれたイラストを見れば、ここが診療所だということは理解できた。

 この場所にハドリーがいる。


 理解した途端に脳に落ちてきた雷鳴のような衝撃に、ヘザーはぎゅっと拳を握って唇を柔く噛みしめた。

 ヘザーは最後の深呼吸をした後で一歩大きく足を出してノアよりも前に出る。


「大丈夫」


 診療所をしかと見つめ、自分に言い聞かせるために呟いた彼女の独り言だった。けれど彼女の後ろにいるノアにもきちんとその声は届いていた。

 彼女の表情は、斜め後ろに立つノアには見えていない。それはヘザーも同じことだ。だが、見えずともヘザーは彼の微笑みを感じ取っていた。その眼差しが、彼女のしな垂れそうな勇気をほんのちょっと上に向けてくれるのだ。


 診療所の戸を叩くと、中から一人の幼い娘が飛び出してくる。ノアの格好を見上げた娘の口がぽかんと丸く開いていった。恐らく、彼が着ている軍服に似た形式的な服装を実際に見る機会がベツィアではほとんどないのだ。物珍しさからか、娘はノアを指差し「大将!」と楽しそうに笑う。


 彼女の無邪気な声に、ヘザーは思わず頬を緩めた。 

 もしかしたら、本などで軍服を着た人間のことをそう呼ぶと書いてあったのかもしれない。ノアを見れば、彼は娘の期待に応えるように彼女と目線を合わせてサッと敬礼を披露する。俊敏な動きが可笑しかったのか、娘はキャンディーの如く甘く弾けた声で笑いだす。

 すると、長身の女が奥から現れ、満面の笑みを浮かべる娘を抱き上げて申し訳なさそうに会釈した。入り口から聞こえてくる娘の笑い声に気づいたらしい。


「ごめんなさい。何か、迷惑はかけていないかしら」

「いいえ。全く。温かい歓迎を受けました」


 ノアは女に向かってにこりと笑い、改めて頭を下げる。ヘザーも彼に続いてお辞儀をした。


「話には聞いているわ。彼なら、二階の部屋にいる。……長旅、ご苦労だったでしょうね」


 二人が顔を上げると女は優しく目を細めて微笑む。ヘザーがノアに眼差しで問えば、彼はヘザーにだけ見えるようにウィンクする。どうやら、自分たちがここに来ることを密かに彼女たちに教えていたようだ。

 用意周到。確かに、自分たちが来る前に彼が移動してしまえば意味がない。

 二人を出迎えてくれた娘が母の肩に頭を預けてヘザーに柔らかな笑みを向けた。ヘザーと目が合うと、彼女は二階に続く階段を指差す。


「おにいさん、ずっと、かなしそう」


 そう呟く娘の声は、先ほどの笑い声とは打って変わってどこか物悲しかった。

 ヘザーは階段に目を向け、そっと手すりに手をかける。上階を見上げても、途中にある窓から麗らかな明かりが降り注いでいるだけ。その光が境界線となり、階段の上と下を切り分けているかのようにも見えた。


 光に導かれながらヘザーは一歩一歩足を上げていく。見えない何かに呼ばれている。そう錯覚するくらい、足取りは重力を忘れてふわりと軽い。

 ノアも彼女の続いて階段を上がっていった。階下で二人を見送る娘とその母は、静かに彼らの背中に声援を送る。

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