35 求めていたのは

 車での移動と宿への立ち寄りを繰り返し、ヘザーと一行はついにベツィアの国境付近にまで辿り着く。

 夕暮れで、辺りは薄暗く、視界がぼやけてくる時間だ。今日はベツィアで一泊し、翌日にハドリーが身を寄せているという診療所へ向かう予定になっていた。


 ノア曰く、ハドリーは国内の反乱で牢の警備が手薄になったところで自らの力で牢を抜け出し、はじめは革命軍の一角で匿われていたようだ。

 が、コートニーに率いられた革命軍が帝国軍に協力を要請したタイミングで、国王と血縁関係にある彼の身の危険を案じた一部の革命軍の人間に逃がされ、国を出る機会を得た。

 一箇所に留まるのも得策ではなく、彼は人の伝手を追いつつ、各地を転々としたらしい。


 次第に彼の居場所も曖昧になっていくが、ノアたちは情報網を駆使して彼の所在を探し出し、ベツィアにいることが判明したという。

 帝国軍側は彼が死亡したという話を信じている。そのことが幸いし、今は彼を探す人間も限られているはず。コートニーもその一人だが、彼女自身も行方をくらましているのだ。自分のことで忙しいだろう。

 いくつもの条件が重なる今の間だけは、ハドリーが別の誰かに捕らわれてしまう心配も少ない。


 彼に会える今の機会を逃してしまえば、次は見つけ出せるのかも怪しい。

 ノアからハドリーに関する話を聞いたヘザーは、その言葉の重さを痛いほど理解していた。だから、彼に会わないという選択はもはやあり得ないのだ。


 あともう、ほんの少しでハドリーに会える。

 ラタアウルムを出発した直後に感じていた緊張が再び蘇り、ヘザーは無意識のうちに表情を強張らせていた。しかも出発直後とは違い、今はまさにベツィアが目の前にあるのだ。ハドリーに会う実感がふつふつと全身を沸かせる。余裕が削られていくと同時に気道も細くなっていく。


 詰まった息をごくりと体内に押し込めば、息苦しさに呼吸のリズムが止まってしまう。

 座席から伝わる振動すらも、地面を隆起させるほどの力に圧されている気分になる。全身に必要以上の力が入っているのか、ヘザーの姿勢はピンと張り、両手はソファを握りしめるように丸められていた。


 人形のごとく感情が薄れていく彼女の顔色。内臓が口から逃げていきそうな感覚に陥るのは初めてだ。ここまでの神経への圧迫感をヘザーは知らなかった。

 期待と不安が同じくらいの勢いで押し合うと、他に何を考える余裕もなくなるのだと。


 ベツィアの検問所まではまだ距離がある。ベツィアは河川や湖が多々ある水郷で、のどかな景勝地として知られている。小さな国で目立つような動きもなく、国際的な交流は少ない方だ。

 草原の中に作られた簡易的な道路を進む車はベツィアの隣国を走っている。曲がりくねった道を越えるまで、ベツィアの欠片さえもまだ見えてこないというのに。


 ヘザーは既に耐えられないほどの緊張に心が潰れてしまいそうだった。

 こんなことで、ハドリーに会うことができるのだろうか。

 彼の微笑みを頭に思い描きつつ、ヘザーは重苦しく瞼を伏せる。記憶の中でも彼の笑顔は一際輝いていた。けれど実際に再会した時、その完璧な笑顔が塗り替えられてしまうかもしれない。そう思うと胸騒ぎが止まらなくなるのだ。


 姿勢を保ったまま、顔だけが下を向いてしまったヘザー。彼女の視野は極端に狭くなっていた。視界の中央に向かい、徐々に暗闇が迫っていく。瞬きも忘れ、ぼうっと一点だけを見つめているせいだ。

 ほとんどが黒に変わりゆく彼女の景色。しかし、全てが覆われてしまう前に、彼女の手に滑らかな布の感触が触れる。手袋越しに伝わる温度にヘザーの視線がそっと向かう。


 革製の黒の手袋の上を追えば、精悍さに彩られたノアの笑みに辿り着く。

 目が合うと、ノアの手がぎゅっとヘザーの手を握りしめた。柔和ながらも毅然なその具合に、ヘザーは強張っていた心が落ち着いていくのを感じた。


 ヘザーもノアの手を握り返す。自然と、彼女の指先にも力が込められていく。

 まるで、永久の時をかけて求めていたものを手にしたような感覚だった。


 ヘザーの唇が仄かに緩み、弧を描きかけたその刹那。ヘザーたちの前を走っていた車が突如不自然に停車する。その動きに続けて、ヘザーの乗る車も急停車した。


「どうした? 何か問題か」


 ノアが僅かに身体を前方に傾け、前に座る運転手に訊く。繋いだままのヘザーの手も、彼の動きに合わせて微かに前に動く。ノアの凛然とした声に、和らぎかけていたヘザーの緊張が蘇りそうになる。彼女の心模様が伝わっているのか、ノアの指先がヘザーの指に絡む。まるで不穏に揺らぎ出した彼女の心を宥めるようだった。


「団長。前方に、不審な馬車が」


 先導する車に乗っていた騎士の一人がノアのもとまで報告に来る。ノアの身体に隠れ、ヘザーが手を繋いでいることは彼には見えていなかった。


「馬車?」


 報告を聞いたノアが眉根を寄せる。ノアが考え込む素振りを見せると、前の車に乗っていたもう一人の騎士が望遠鏡片手に駆け寄ってきた。


「団長、恐らく、あの馬車は盗賊に襲われたものです。馬車の主は逃げたのでしょう。今は盗賊の姿しか見えません」


 騎士の言葉にヘザーの指先がピクリと跳ねる。盗賊に襲われる馬車。その状況は、まったくの他人事ではなかったからだ。

 夕陽の影で卑しく笑う彼らの姿を思い出し、ヘザーの顔が青ざめていく。


「盗賊か。少し、気になるな」


 今回の任務はハドリーの話を聞くこと。そう思えば、彼らにしてみれば無視をしてもいい問題だった。が、あいにく盗賊たちが行く手を阻んでいる。それに、例えそうでなくとも、ノアの出す答えは一つしかないことをヘザーはなんとなく分かっていた。

 ノアの横顔を見やれば、その予想は間違いないと確信に変わるのだ。


「ヘザー、少しだけ待ってて。ちょっと用事を済ませてくるから」


 こちらを振り返った彼の表情は明るく、まるで今から散歩に行くかのような他愛もない語調だった。


「……うん。でも、ノア」


 彼の飄々とした態度にヘザーは小さく頷く。

 この手を離し、彼を送り出さなければ。

 繋いだ手を離す前に、ヘザーは絡ませた指先にぐっと力を入れて彼を僅かに引き寄せる。


「どうか、気を付けて……お願い」


 小声で囁かれた彼女の小さな祈りに、ノアの瞳孔が僅かに開かれる。


「うん。もちろん。すぐに戻るから」


 ノアは両手で彼女の手を包み込むと、さらりと微笑んでそっとその手を離していった。


「様子を見てくる。こっちは頼んだぞ」


 車を降りたノアは、最初に報告しに来た騎士一人を連れて前方へと歩みを進めていく。残されたのは、ヘザーと車の運転手二人、騎士三人の六人だ。明らかにこちらに残った人間の方が多い。残された騎士三人は、運転手とヘザーを守るように周りを囲む。

 車に座ったままのヘザーは、遠くなっていくノアの背中を心配そうに見つめていた。


 ジェイデンは彼のことを強いと言っていた。けれど、ヘザーは実際に彼の戦う姿を見たことはない。キリキリと、胸が嫌な痛みで締め付けられていく。

 指先の名残を強く抱き締める。ヘザーは胸の前で指を組み、彼ともう一人の騎士の無事だけを切に願っていた。

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