34 紺色の一行

 翌朝、ヘザーはジェイデンとともに宿の前でノアの迎えを待っていた。また数日留守にすることになる。ヘザーが事情を説明すれば、キャルムとマクシーンはハドリーの生存報告を一緒になって喜んでくれた。

 こっちのことは気にしなくていいから。そう言ってくれた彼らの心からの温かい笑顔が、ヘザーの足を軽くしてくれる。


 ナサニエルは獣医の仕事が立て込んでいるようで、この場には来なかった。が、昨日別れ際に交わした眼差しをヘザーはしかと胸に刻み込む。

 彼に会いたいのは自分だけではない。きっと彼だって。

 ヘザーは深呼吸をし、早まる鼓動を抑え込もうと試みる。と、遠くの方から渇いた空気を小刻みに弾く低音が響いてくるのを耳が拾う。聞き慣れない音にヘザーが宿の門に目を向けると、これまた珍しい乗り物がこちらに近づいてくるのが見える。


「あれって……」


 ヘザーが驚嘆の声を洩らすと、隣にいたジェイデンの表情が明るくなっていく。


「ああ。車だよ。ガソリン車だ」

「本物は、初めて見たわ」


 ジェイデンの言葉にヘザーは好奇心を帯びた息をこぼした。

 紺色に塗られた車体には、二人掛けの座席が二列前後に並んでいる。前面には透明なガラスが窓のように配置され、座席部分を覆う屋根は後方に蛇腹状に折りたたまれていた。まるで動く四角いテントのよう。車はガタガタと車体を揺らしながら、馬車よりも早い速度で動いてくる。

 ヘザーが初めて見るガソリン車に目を丸くしていると、運転者の隣に座っていたノアが大きく手を振ってきた。


「ヘザー。待たせてごめん」


 彼の身振りは大胆で、その陽気な様子は酒場で見る彼と変わらない。けれど彼の姿が近くに見えてくると、ヘザーは車よりもそちらの方に視線が吸い込まれていった。

 いつもはラフに下ろしている前髪が、今日は後方へと撫でつけられているのだ。形のいい額が露わになって、表情の雰囲気すらガラリと変わってしまっている。


 彼が車を降りると、服装も普段着ではなく格式ばったものを着ているのが分かった。

 にこやかに歩いてくる彼。颯爽と歩くその姿には品格があり、彼が道を行くだけで途端に辺りに規律が訪れる佇まいだ。


「ノア。なんだか、いつもと違う」


 頭に浮かんだ感想を思わずそのまま口に出してしまう。無意識のうちにヘザーの表情が畏まる。彼女の雲を掴むような声にノアは照れくさそうに笑い、騎士団の象徴である軍服を堅苦しそうに見やった。


「今日は組織の一人としてベツィアに向かうからさ。身なりにも気を遣わないと、後で司令部に叱られるから」


 一緒に来た別の騎士たちに聞こえぬようノアは小声でヘザーに本音を囁く。

 清廉な軍服に身を包んだ見かけとは対照的な気の抜けた語調に、ヘザーは彼の同僚には内緒でくすりと微笑む。やはり、ノアはノアだ。確かな事実に鼓動が和らいでいった。


「ジェイデン。留守は頼んだぞ」

「了解。親父に言って、キャルムさんたちの手伝いが出来るように手回ししといたから」

「ありがとうジェイデン。とても助かるわ」


 ヘザーがぺこりと頭を下げると、ジェイデンは得意気に鼻を鳴らして自らの胸を叩く。


「実は、一回キャルムさんたちの手伝いがしてみたかったんだよね。だからどーんと俺に任せて、ヘザーはハドリーとの再会を楽しんできて」

「……うんっ」


 全身のこわばりが抜けふわりと笑えば、無意識に涙がこぼれそうになった。ヘザーは緩みきった涙腺の栓を急いで締め、気を引き締めるために首を軽く振る。


「いってきます」


 ここを数日空けるのはトーニグラまで両親に会いに行った時以来だ。あの時と同様、その言葉を言うことには何の不安もなかった。


「今回は騎士団の面々が帯同する。ハドリーは死亡したと発表されているが、もし、彼が生きていることが明るみになったら帝国軍が黙っていないかもしれないから。彼に会うことが危険なことには変わりない。ヘザーには重苦しいだろうが、念のためだ。許して欲しい」

「ええ。分かっているわ。大丈夫、騎士の皆さんが一緒だと、頼もしいもの」


 ノアの話は昨日も聞いていた。ヘザーは改めて頷き、彼の隣に並んで歩く。二人が乗る車には他に運転手が乗っているだけだ。その彼とは別に、もう一人の運転手と四人の騎士たちが同行することになっている。車は全部で三台。一台は騎士が運転するらしい。

 ヘザーは出発準備をしている彼らに会釈し、ノアの手を取って車に乗り込む。


「私、蒸気自動車にしか乗ったことがなくて。こういうのに乗るのは初めてなの。思ったよりも、ソファみたいで乗り心地がいいのね」


 車の座席に腰を掛けるとクッションの反発を感じる。ヘザーは驚きながらはにかんだ。


「ああ。ちょっと揺れるし、音やガソリンの匂いが気になるかもしれないけど。離れた場所にあるベツィアに行くにはちょうどいい移動手段だ」

「ふふ。なんだか、どきどきしてしまうわ」


 ハドリーに会いに行くこと自体がヘザーにしてみれば一大事なのだ。それに加え、慣れない乗り物で未知の場所へ向かうこと。周りを囲む厳かな軍服たち。どれもが彼女の心臓に刺激を与えた。おまけに、隣に座ったノアの横顔がいつもよりくっきりして見える。髪が整えられているせいもあるだろう。ヘザーはそっと彼を上目で見上げた。

 見ていることを彼に気づかれたくはなかった。が、軍服を着た彼の意識は普段以上に研ぎ澄まされているようだ。


「大丈夫だって。彼は車の運転に精通した奴だ。安全運転で行くからさ」


 ヘザーの控えめな視線に気づいたノアは晴れやかに口角を上げ、前に座る運転手の肩を叩いてみせた。

 運転手が芝居じみた敬礼をヘザーに送ると、ヘザーもその大袈裟な仕草に気が緩んでつい笑ってしまう。

 楽しそうに笑うヘザーを横目で見たノアは、周りの仲間たちに指示を出す。そろそろ出発の時間だ。


 ノアの指示に従い、先導して一台がヘザーたちの乗っている車よりも前を走り出す。次にヘザーの乗る車が動き出し、最後にもう一台が後に続いた。

 遠くなっていく街の姿をヘザーは振り返って脳に焼き付ける。

 次にここに戻る時はハドリーと再会した後になるのだ。どんな再会が待っているにしろ、それは見えている未来のはず。だが、出発直後の今は到底信じられないことだった。




 ベツィアまでの道中、石造りや木組みの建物が視界を流れていった。

 自然豊かな景観を走り続け、途中には美しい森や川の風景が広がっていく。

 機関車で見る車窓とはまた違い、肌で空気を感じつつ、自分が景色の中に溶けていく感覚がある。半日車で移動すれば、ヘザーは車に対する不安をすっかり払拭していた。

 車内で運転手やノアと交わす会話もまた、彼女の心を解していった。


「ねぇ、ノア。車って、まだ騎士や要人といった、限られた人しか使えないのでしょう? どうして、今回ベツィアまでの移動に許可してもらえたの?」


 夜が近づき、立ち寄った町の宿に荷物を運びながらヘザーはノアに訊ねる。


「ああ。ヘザーにもちゃんと話しておくべきだよな」


 最後の荷物をロビーに運び終え、ノアはその誠実な瞳をヘザーに向ける。真摯な眼差しに、ヘザーは今回の騎士団の出動には複雑な背景があることを察した。

 今夜の宿はキャルムたちの宿屋よりもこじんまりとした建物で、山小屋のようなところだ。狭いロビーに置かれた椅子に腰を掛け、ヘザーはノアと向かい合う。


「ヒューバートが美術品や古代の宝石の収集家だったことは、ヘザーも知っているね? 特に、古美術にはかなりの関心がある人だったらしいね」

「ええ。そうよ。小さなころ、ハドリーの家へ遊びに行った時にもたくさんの美術品を見てきたわ。中には、私にはよく分からないものもあったけれど」


 ヘザーは過去を思い返し、ぼんやりとした記憶を辿る。


「熱心なのはいいことだ。夢中になれるものは貴重だから。でも彼は、その熱意の向け方が少し特殊だったのかもしれない」

「……闇取引のことね」


 前日に聞いたヒューバートとコートニーの裏の顔を思い出し、ヘザーは深刻に声を顰めた。


「ああ。前から、美術品や骨董品、珍しい伝世品の紛失が続いていることは界隈では問題になっていたんだ。特にロノネア王国とその周辺で、多くの貴重な品が失われてきた。だんだんその範囲も広がり、国際的にも問題になってきて。有識者たちはロノネア王国の人間が怪しいと踏んでいた。が、国王に訊ねてもそんな問題は起きていないの一点張りだ。証拠もなく罪に問うことも出来なくて、ずっと何もできない状態が続いてた」


 ノアの表情には過去に味わったであろう悔しさが滲んでいく。


「まだ、二つの国の名前もなかったころ。ラタアウルムは、かつてロノネア王国と同じ帝国の支配下にあった。ライダイ帝国とも違う、もっと昔にね」

「聞いたことがあるわ。だから、言語も少し似ているのね」

「過去の名残りだろうね。それから人の移動や国の盛衰を経て、今のような世界地図になったんだけど。かつての繋がりは切っても切れない。ラタアウルムにとっての遺品もロノネア王国にはたくさん残っていたんだ。だがそれも、次々に姿を消していった。だから余計に、無視することは出来なくて」


 ノアは肩をすくめ、困ったような面持ちで眉尻を垂らした。


「ラタアウルムの政府機関もこの問題は気にしていてさ。遺産を食い物にされるのは気分が良くないから。今回、ライダイ帝国がロノネアを支配下に置いたことで明るみになったヒューバートの闇取引の記録をきっかけに、本格的に調査に出ることになったんだ」


「でも、どうしてコートニーも関わっているって分かったの?」


「彼の組織は思ったよりも規模は小さかった。だから、ヒューバートが自害したことで紛失事件も収まると思っていたんだ。けど、真逆だった。ロノネアに残っていたはずの残りのラタアウルムの遺品が、ごっそり闇に消えた。まだ仲間が残っている。そう確信し、怪しい動きをしている者を調べた。そうしたら、コートニーの名に辿り着いたんだよ。彼女はライダイ帝国にも黙って、美術品たちとともに姿をくらました。彼女の本当の狙いは、自らの権威の奪還だ。自分が育ててきた“商売”の。いま、ヒューバートの周りの人間で行方知らずなのは彼女だけだ」


 ノアは不意にヘザーに笑いかけ、ピッと人差し指を真っ直ぐ立てる。


「ヘザーのご両親が言っていた、ヒューバートとコートニーの話を聞いて、もしやと思ってさ。コートニーの思惑に気づけたのは二人のおかげだよ」

「えっ。そ、そんな。ノアたちが、根気よく調べた成果よ。……嬉しい、けれど」


 思わぬ話の展開にヘザーは顔を赤らめて縮こまる。彼女の戸惑いつつも照れた反応を見たノアにまでその熱が伝播してしまいそうだった。ノアは気を取り直して姿勢を正す。


「えっと。そうそう。それで、コートニーは今もどこかで闇取引を続けている。帝国は彼女に利用されたと気づき、怒っているよ。帝国に彼女の真意を提供したことで、ラタアウルムも協力できる立場をどうにか得た。じゃないと、彼女が帝国に見つかったとき、持ち出した遺品が帝国の手にそのまま渡ってしまいそうだからね。帝国は義理堅いが、そこまで優しくもない」


 ノアはライダイ帝国にほんの少しの不満を洩らして肩を落とす。


「本来ならばヒューバートに話を聞きたいところだが、あいにく彼はもういない。肝心のコートニーの居場所はまだ分からない。そこで、頼りになるのは息子のハドリーだけだ。彼が闇取引に関わっていたとは思っていない。が、何か手掛かりを知っているかもしれない。酷な理由で、申し訳ないとは思っている。けど、もう彼しかいないんだ。司令部にかけあって、帝国に気づかれるより前に彼に会いたいと申し出た。彼の存命を知ったら、帝国軍は何をするか分からないし」


「それで、ベツィアに向かう許可も下りたのね。捜査の一環として。納得がいくわ」

「ああ。そうなんだ。……表向きはね」

「え?」

「さぁ、もう夜も遅い。明日も早い時間に出発するから、そろそろ休もう」

「あ……。ええ。そうね」


 ノアが最後に言った言葉はヘザーにまではっきりとは届かなかった。彼が独り言のように呟いたせいだ。が、ヘザーが訊き返す前に、ノアは椅子から立ち上がって部屋に向かう階段に意識を向けてしまう。


 ノアは何事もない顔をしてヘザーが立ち上がるのを待っている。彼が隠した言葉が知りたかった。けれど、彼の言う通り、旅はまだ続くのだから油断している場合でもない。

 ヘザーは頭に靄を残したまま立ち上がり、彼に続いて自分の部屋を目指した。


「おやすみ、ヘザー」


 ノアの部屋は二つ隣だ。扉が閉じるとともに消えていく彼の笑顔。ヘザーはしばらく誰もいない廊下を見つめた後で、小首を傾げながら目の前の扉を開けて中に入った。

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