33 目の前の真実
「ジェイデン……っ」
涙が落ちていきそうだった。駆け寄って、誰かとこの悲しみを分かち合いたい衝動に駆られてしまう。ヘザーの足が床を離れるその手前で、宿の鈴がリリン、としとやかな音を鳴らす。
「……カスターニュ。あんたも、新聞を見たか」
鈴を鳴らしたのはナサニエルだった。扉の向こうを覆う夜の幕の前に、彼が立っている。
「ナサニエル……」
「ヒューバートは処刑された。あんたのことを追放した張本人だ。なんで、そんな顔をしてるんだ」
ヘザーの悲哀に満ちた眼差しにナサニエルは顔をしかめた。が、決して彼女を軽蔑しているわけでも貶しているわけでもなかった。彼もまた、一言では片付けられない複雑な表情を浮かべていたからだ。
「ナサニエル。分かっているでしょう? ヒューバートは処刑された。他の王族たちも。記事はすべてを伝えていたわ。つまり……ハドリーは……っ」
ヘザーは体側に下ろした拳を力強く握りしめる。言葉にすれば、自らの声が刃となって自分を滅ぼしてしまいそうだった。
「……だから、来た」
ナサニエルの声には力がなかった。しっかりと地面に根を張って立っているように思える彼の足元も、よくよく見れば震えている。陰を落としたナサニエルの瞳に、ヘザーもぐっと息をのみ込んだ。
「二人とも、そこは寒い。まずは温まらなくっちゃ」
吹きすさぶ風は容赦なく室内の温度を奪っていく。二人がそのまま氷像になってしまいそうで、ジェイデンは慌てて口を挟む。
ジェイデンはナサニエルが開けっ放しにしていた扉を閉め、二人の手を引いて暖炉の前まで連れて行った。
「俺も、新聞は読んだよ。部外者だし、適当なことは言えないけど。でも、記事がどれもこれも正しいとは限らない。まだ、決めつけるのは早いよ」
有無を言わさず二人をソファに座らせ、ジェイデンは暖炉にもう一つ薪を放り込む。
「だが、ハドリーに関する報道はあれが初めてだ。他に、行方などあるのかよ」
ナサニエルが薪をくべるジェイデンに淡々とした息を吐く。
「……ナサニエルの言う通りよ。ジェイデン、その言葉は、とても嬉しいけれど。でも……ハドリーは、あの記事の通り、もう……」
声を出す度に毒を吸い込んでいる気分になった。ただの酸素のはずなのに。ヘザーは悔しさに目を伏せる。
ようやく、待ちわびたその名を目にしたというのに。
彼の名に続く言葉は残酷だった。
ヒューバートは息子、ハドリー・ヴァンドーフを拷問の末、毒殺した。遺体は燃やし、彼の存在すらなかったことにした。
すべては息子の罪を隠滅するため。彼自身が罪の存在だと判断したヒューバートが、自ら進んで行ったことだと。
息苦しくて堪らなかった。呼吸をしていても、上手く息を吸えていない。ハドリーの苦しみはきっとこんなものではなかった。悲鳴の代わりにヘザーの瞳には痛みが流れていく。
「私の……せい……。私のせいで、ハドリーが……っ。ハドリー、ハドリーが……っ‼」
両手で顔を覆い、ヘザーは全身を震わせた。彼の名を呼ぶことしかできない。痛みは、次から次へと溢れていく。ずっと知りたかった。いいや、知りたくなかった。どっちつかずの感情が余計に彼女の心を乱す。
「あんただけのせいじゃない。俺だって、ただ逃げただけだ。出来ることはあった。必ず。絶対に。あいつが罪だというのなら、俺がその罪まですべて引き受けるべきだったんだ。……あいつがいないのに、俺だけのうのうと生きていても、何の意味もない」
ナサニエルは幻影のように形のない声でぶつぶつ呟く。二人の悲しみに同情したのか、暖炉の火は煌々と燃え盛る。せめてもの慰めか、冷え切っていた二人の身体は徐々に体温を取り戻していった。
「二人とも、自分を責めないで。ね? やめてよ、そんなこと。君たちが愛したハドリーは、そんなこと望まないはずだろう?」
気の利いた言葉など何も思いつかない。ジェイデンは二人に声をかけるだけでも精一杯だった。それでも黙っていることができないのは、二人が背負った罪の意識がひどく悲しく、切なく見えたからだ。
二人は俯いたまま、ジェイデンの言葉に反応することすらできなかった。すると、二人の背後に静かな足音が忍び寄る。
「ああ。ジェイデンの言う通りだ。勝手に自分を責めるのは止めろ」
突如聞こえてきた優しくも厳しい声に、ヘザーはそっと顔を上げる。ナサニエルも声の発信源に目を向けた。二人の前に現れ、労うようにジェイデン彼の肩をぽんっと叩いたのはノアだ。
「ノア……?」
久しぶりに見た彼の姿。前に会ってから、遥かな時が流れたわけでもないのにえらく新鮮に見えたのは、彼の瞳が見慣れぬ雰囲気を纏っていたせいだろうか。
「久しぶり、ヘザー」
ノアはヘザーだけを一見し、先ほどよりも柔和な声でいたずらに笑う。彼の笑みを見れば、輪郭まで伝っていた涙がふとその動きを止める。
「……どういうことだ?」
ナサニエルは少し棘のある声でノアに訊ねる。勝手なことを言っているのはそっちだ。彼の眼差しは口ほどに物を言っていた。
ノアはナサニエルとも目を合わせ、引き締まった瞳を僅かに緩める。
「ハドリーは死んでいない。あの記事に書かれたハドリーのことは間違いだ。彼も王族の一人だろ。だから彼の処分についてだけ触れないわけにはいかなかった。彼を捕らえられなかったコートニーが、失態を隠すために彼を探そうとする帝国軍にそう報告したんだよ」
「どういうこと?」
今度はジェイデンがきょとんと瞬きをして首を傾げた。
「コートニーの本当の目的はヒューバートを消すことだ。二人は結託して闇取引に手を出していた。価値のある骨董品や伝世品を闇市場に売り捌いて利益を得ていたんだよ。だが、ある時からヒューバートが主導権を握るようになり、コートニーは不満が溜まっていた。だから、ちょうど恨みのあったヘザーとハドリーをきっかけに、彼の盤石な基盤を崩そうと画策したらしい。が、二人を処分することができても肝心のヒューバートをどうにかすることはできなかった。そこで、ヒューバートの狂気に不満が溜まってきた国民の感情を利用して、革命軍と手を組み、帝国を誘い込むことで国を滅ぼすことにしたようだ。これで闇取引のすべては彼女に託された。誰も、彼女の邪魔はしない」
ノアは静かに自分の話を聞いているナサニエルとヘザーの顔を交互に見やる。
「結果、ヒューバートは処刑。自害ではあるが、コートニーの本来の目的も果たされた」
冷めた表情でノアはため息を吐いた。コートニーの策略に嫌悪を抱いているようだ。
「で。何故、ハドリーは無事だと分かる?」
ナサニエルが肝心なことを訊き直す。ノアは冷めきっていた瞳に熱を取り戻し、にこりと豊かに笑ってみせた。
「彼は国が混乱してきた初期の騒動に乗じて牢から脱走した。反乱を治めるために警備が手薄になってたんだろうな。帝国軍が攻めてきた時にはもう彼はロノネアにはいなかった。コートニーが彼を死んだことにしたのは、かえって幸いなことだったのかもしれないな」
ノアは放心状態のヘザーを見やり、そっと彼女の前に片膝をついて視線を合わせた。麗らかな薄緑が彼女の瞳にじわりと広がり、鼓動がゆっくりと動き始める。悪夢から目覚めたような感覚だった。
「ハドリーはベツィアにいる。今朝、彼の居場所を見つけたよ」
「え……?」
「ノア、本当に見つけたのか‼」
ヘザーの声をかき消して、興奮したジェイデンの声が部屋中に響き渡る。自分でも騒ぎ過ぎたと気づいたのか、ジェイデンは「あ」と口を押さえた。
「……ジェイデン、知っていたの?」
案の定、ヘザーの問いが降ってくる。ジェイデンはしくじったことを省みながら頭を掻く。
「ああー……えっと。ごめん。ノアに言うなって言われてて」
「ノア、どういうこと?」
ヘザーは縋るようにノアを見つめた。ナサニエルは三人のやり取りを視線だけで冷静に追う。
「騎士団に、復帰したんだ。そうすればより多くの情報に接触できる」
「でも」
「大丈夫。俺も、もう怖くない」
自分を見失うことを恐れていた彼を思い出し、ヘザーが切なく瞳を揺らせば、ノアは表情筋を緩めてたおやかに笑った。
「司令部から、彼に会いに行く許可も出た。明日、出発する予定だ」
ノアの瞳が凛々しく艶めいていった。改めてヘザーを見つめ、彼は訊ねる。
「ヘザーも、一緒に来て欲しい」
「えっ」
想定外のお誘いだった。ヘザーは見るからに慌てふためき、咄嗟に隣のナサニエルに視線を向けた。が、ナサニエルはフイっと顔を逸らしてしまう。
お前が決めろ。無言の返事は彼なりの気遣いだったのかもしれない。
ジェイデンを見ても、彼は鼻歌を歌って暖炉の世話をするふりをする。
「ヘザー」
再び呼ばれ、ヘザーはノアに意識を戻す。騎士団に戻ったという話を聞いたからか、彼の眼差しがいつもよりも荘厳な印象を与えてくる。が、その奥深くにいるのは以前と変わらぬノアだった。
どんな時も、彼の傍にいると、自分らしくいることに自信が持てる。怖くない。彼が見ていてくれるなら、何も恐れることなどないからだ。
「……うん」
ほのかな熱に頬を綻ばせ、ヘザーはゆっくり頷いた。
彼の手が膝に置いたヘザーの手を暖かく包み込む。握り返せば、さざめいていた心に平穏が訪れ、明日に立ち向かうための勇気すら宿る。
「ありがとう、ヘザー」
それは、紛れもなくこちらの台詞なのだ。
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