32 紙面は語る
「ヘザーさん。今回の新作も美味いよ。このチーズとよく合う」
常連客のパン屋の店主が、グラスを掲げて皿を回収しに来たヘザーを褒め称える。ヘザーは嬉しさを誤魔化すこともなく笑みを広げた。
「ありがとうございます。ふふ。昨日、母に送ってもらったジャムをほんの少し入れてみたのです。そうしたら、いい具合に甘味が増して」
「おう。そうだったのか。ははは! そりゃ美味いはずだ!」
パン屋の店主はグラスをほんのり染める透き通ったイエローに目を細め、興味深そうに見つめる。
「ご両親の調子はどうだい?」
「おかげさまで問題なく、調子も良さそうです」
重ねた皿を両手で抱え、ヘザーはぺこりと膝を軽く曲げて彼の気遣いに感謝した。
「それはいいことだ。……ところで、最近ノアの姿を見ないが、ヘザーさんは知らないか?」
パン屋の店主はフロアを見回しながらヘザーに訊ねる。
「いいえ。知らないの。最近、店にも来ないものだから。ねぇ、ジェイデン、ノアのことを知っている?」
ヘザーは首を横に振り、隣の机で飲んでいたジェイデンに話を振った。するとジェイデンは飲みかけていた酒を吹き出しかける。寸でのところでどうにか堪え、反対に気管に圧がかかって盛大な咳をする。
「いいやっ。俺も、知らないんだ……ッ」
咳の中に声を織り交ぜ、ジェイデンは口元を手で押さえながらヘザーに背を向けた。彼の肩は呼吸を整えるために大きく上下し、見ているだけで苦しそうだ。
「そう……? ごめんなさいジェイデン。突然話しかけてしまって」
未だ咳が止まらないジェイデンに対し、ヘザーの眉尻は元気なくしなだれる。きっと気管に酒が入ってしまったのだ。申し訳なくなり、ヘザーは彼の背中をさする。
「いいのいいの。大丈夫だから」
ジェイデンは片手で顔を押さえながら反対の手をぶんぶんと振る。彼の方もまた罪悪感の滲んだ横顔をしていた。彼は特に何もしていないのに。どことない違和感にヘザーは小首を傾げる。何故、彼はこんなにも気まずそうな目をしているのか。
「もしかしたら、体調を崩しているのかしら。ノア、前も怪我をしたのでしょう?」
「あー……それはない。大丈夫。あいつは元気だよ」
ようやく普段の息遣いを取り戻したジェイデンは、遠い目をしてあっさりした声色でヘザーの懸念を蹴散らす。
「……そうなの?」
「ああ。ちょっとアトリエにこもって、趣味に没頭してるだけだろ」
ジェイデンはぎこちない笑顔をヘザーに向け、心配するな、と親指を立てる。
「ところでさ。どうしてナサニエルがここにいるんだ?」
話題を変えようと、ジェイデンは自分の視線の先にいるナサニエルの後ろ姿を見やった。彼は暖炉の前の机を街の者たちとともに囲んでいる。その中の一人はモギーの飼い主だ。ヘザーもナサニエルに視線を送り、柔く口角を緩めた。
「モギーを助けてくれたお礼がしたいって、彼がナサニエルを呼んだそうなの。この街には獣医がいなかったでしょう? だから、皆、彼に感謝しているみたい。ナサニエルたちは旅医者だけれど、ずっとここにいて欲しいって、懇願されているところを見かけたわ」
記者たちと酒を酌み交わすナサニエルの落ち着いた様子は変わらない。浮かれることもなく、愛想がないわけでもなく。すんなり街の仲間として打ち解けている。
「へぇ。そうなのか。まぁ、医者ってのは、傍にいると安心するものだよな」
ジェイデンはナサニエルを見つめたまま酒飲みを再開する。
「彼の、元気そうな顔を見れるのは……私としても、とても嬉しいことだわ」
ヘザーはぼうっとナサニエルに視線を向けたまま、うわ言のような輪郭のない声をこぼす。ジェイデンがヘザーを横目で見れば、彼女の瞳もまた、どこか上の空だった。
本心を言っているのは分かる。けれど、その言葉は他の誰かにも向けられているようにも取れた。ジェイデンの胸が、蛇に締め付けられたかの如く痛みを覚える。
記者に誘われたナサニエルが酒場に顔を出して以来、彼は個人的にも酒場に足を運ぶようになっていた。
マクシーンとキャルムが作る飯が上手いから。
そう理由を言っていたが、彼はヘザーの作るカクテルにも必ず口をつけていた。
言葉にはしないが、来店の理由の一つにそれが絡んでいることはあながち間違いでもないのだろう。
今日もナサニエルは店に来るのだろうか。
ノアの姿を見なくなってから、ヘザーはそんなことを考えて気を紛らわせていた。
一緒にトーニグラに行った数日後、彼の姿をめっきり見なくなったのだ。自分が無関係とも思えず、でも、深く考えることが怖くて。
ヘザーはジェイデンが彼の動向を知らないと答えてからは、誰かにノアの近況を訊くこともなくなっていた。
昼の営業が終わり、宿の来客も落ち着いた頃。ヘザーは新聞を読むために自室で今日の紙面を広げた。
新聞を読むことはもはやヘザーの日課になっていた。この時間であれば、午後に起きた出来事についても情報が入ってくる。まとめて情報を知れること。それはヘザーにとっても都合がいい。
すっかり脳に刻み込まれた習慣ではあったが、毎回、新聞に目を通す時は緊張する。何故か。緊張の根源は分かっている。
今日もまた、神経が張り詰める感覚の中でヘザーは一面に目を落とした。
が、その瞬間。彼女の心臓は一度大きく跳ねた後で鉤爪に引っ掛かれたかのように切り裂かれていく。
思わず新聞から手を離し、座っていたベッドに放り投げてしまう。
震えた彼女の両手が頬を覆い、ヘザーの顔からは血色が抜けていった。
「そんな…………!」
小さな悲鳴が上がる。
わなわなと震える心臓が恐れに支配されていく。温度が失われていく指先が冷たい。ヘザーは両手を下ろし、慎重に新聞を手繰り寄せる。
もう一度、紙面に書かれた文字を頭にインプットしてみた。
ロノネア王国の王族、処刑執行。裏の国王、ヒューバート・ヴァンドーフ、処刑台に倒れる。
正しく息を吸い込む余裕すらなかった。
本当に、あのヒューバート・ヴァンドーフが処刑されたのか。
紙面に描かれた速報だけでは実感が沸かない。ヘザーは瞳孔の開いた瞳で今度は記事をしっかりと読み込む。
まず、執り行われたのは現国王の処刑だった。その次に処刑されるはずだったヒューバート・ヴァンドーフは、処刑台に立ったところで自ら隠し持った銃で自身の喉を打ち抜いたという。
野蛮な人間に殺されるくらいならば、自らで命を絶った方が幾分かマシだ。
執行人に悪態をつき、その生涯を終えたらしい。
彼らしいと言えば彼らしい最期だった。ヘザーは幼い頃から見てきた幼馴染の親が壮絶な結末を迎えたことが信じられなかった。
彼らの横暴ぶりは、あまりに非道で、反感を買うのは当然だ。けれど、近くで見てきた彼らの姿は、そこまで極悪人でもなかったはず。
一体どこで、道を違えてしまったのか。
ぐしゃりと、握りしめた紙面に無数の皺が寄った。最後に見た彼の冷酷な眼差しが脳裏に蘇る。
母の言っていた通り、処刑は免れなかった。頭では理解していたはず。だが、実際にその時を迎えると、どうしても現実味はないものだ。
新聞を丁寧に折り畳み、ヘザーは音もなく部屋を後にした。自分の足音すら、やたら静かで音のないように思える。
「ヘザー‼」
ロビーに下りれば、同じく新聞を読んだジェイデンが待っていた。自分を見てソファから立ち上がったジェイデンの切羽詰まった表情に、ヘザーはゆらりと瞳を揺るがせる。
本当なのだ。
あの記事に書かれていることは、きっと、すべてが真実なのだ。
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