30 一枚の写真
二度、三度、四度。反応があるまで、一定のリズムで叩いてみる。すると。
「はーい。ちょっと待ってくださいね」
扉の向こうからくぐもった女の声が聞こえてきた。その声を脳が認識した途端、ヘザーの心臓が高鳴る。ずっと聞いていなかった声でも、間違えることなどない。
「ごめんなさいねぇ! 今日の分はもう、完売──」
扉が開かれると同時に、中からは愛嬌のある笑顔が飛び出してくる。が、ヘザーを見るなり彼女の呼吸はぴたりと止まってしまう。
「お母様……」
家の中から飛び出してきた彼女は、既にヘザーの瞳の中まで入ってきていた。彼女を見れば、反射的に言葉が口を出ていく。
「……ヘザー? もしかして、あなた、ヘザー、なの……?」
彼女が知っている娘は、太陽に溶けるミルクブロンドの長い髪。しかし、今彼女の前にいるのはブルネットの見慣れない髪型をした娘。けれどその涙が溢れた瞳は、空の青よりも澄み切った色をしている。
「……ヘザー‼」
躊躇うはずがなかった。
ぽろぽろと涙が頬を走っていく娘の表情に、母の視界がぼやけていく。彼女はヘザーのことを力強く抱き寄せ、堪え切れない思いを腕に込める。抱きしめた母の束ねた髪から、甘い果物の香りがふんわりと漂ってきた。最後に会った時の花畑のような香りとは少し違う。が、それ以外は全く変わらない。彼女の腕の力も。彼女の華奢な骨格も。
「お母様……っ。会いたかった……っ。会いたかった、です……っ」
泣きながら喋るのはみっともないからやめなさいと、幼少期から何度も言われてきた。ただ、今は母もそれを叱るつもりはないようだ。娘の言葉にうんうんと絶えず頷き、彼女の頭を愛おしそうに撫でる。
「どうした。何かあったのか」
二人が泣きながら抱き合っていると、家の奥からもう一人、別の声が聞こえてきた。
「お父様‼」
母の肩から顔を上げ、ヘザーは暗がりに見えた男の姿に声を上げる。
「ヘザー……?」
信じられない。まさか、こんなことがあり得るのか。
父の顔がみるみるうちに驚きに包まれていく。
瞳に映る娘の姿が現実か幻か、未だ判断がつかないまま口が開かれていった。
「そうよ。あなた、ヘザーが戻ったのよ……‼」
目も口も丸く開けたまま固まってしまった夫に、妻が夢を語る口調で真実を伝える。彼女もヘザーを抱きしめていることが信じられないようで、その表情は涙に濡れつつも夢心地だった。
「なんと……‼ ヘザー、生きていたのか……‼」
ようやく事態を把握した父が、慌てて入り口まで駆けてくる。途中、あまりにも急ぎ過ぎたせいで転びそうになるが、彼はそんなことも気にしない。
「お父様! ごめんなさい、会いに来るのが遅くなって」
「時間など構うものか。生きていたんだ。ヘザーは生きていたんだ……‼」
ぎゅうっと抱きしめられ、ヘザーの顔が父の胸に埋もれていった。少し苦しかったが、それすらも愛おしく、ヘザーの口元は儚くも綻ぶ。
「一体どうやって……、ヘザー、ああ、本当に、なにが……ああ‼」
一度ヘザーを離し、その顔をじっと見た後で、父は再び彼女のことを抱きしめる。
「あなたが、連れてきてくれたの?」
ヘザーとの再会に歓喜する夫を横目に、浮ついていた心が少し落ち着いてきた妻が一歩下がったところに立つノアに声をかけた。ヘザーの母と目が合ったノアは、丁寧に頭を下げて愛想良く微笑んだ。
「お嬢様は旅の途中、ラタアウルムの商人に出会い、今はラタアウルムの宿屋にて暮らしております。お二人の無事を知り、急いで会いに来た次第です。突然のご無礼、どうかお許しください」
ノアが屈めていた身体をゆっくり起こすと、ヘザーの父も彼のことを観察していた。
「彼はノア。ラタアウルムの騎士なの。ここに来るまで、私のことを守ってくれたのよ」
ヘザーがノアの説明をすると、父は納得したようにほう、と声を洩らす。
「疲れたでしょう。さぁ、あなたも入って。ジャムは切れてしまったけれど、お茶ならあるわ。フルーツティーも、とても美味しいのよ」
ヘザーの母がノアに近づき、そっと手招きをする。彼女の身なりは村で見た他の住人たちと変わらぬ質素なものだったが、その佇まいは目を奪うほどに流麗なものだった。
「はい。お心遣い、感謝いたします」
ノアはもう一度頭を下げ、母に連れられ家の中へと入っていく。ヘザーと父も彼らに続き、扉を閉めた。
家の中も二人の服装と同じく簡素なもので、必要最低限の家具しか置いていない。部屋は他に二つあるようで、先ほどまで父がいた寝室の扉は開けられたままだった。
扉から覗く鏡台にはヘザーの写真が飾られている。恐らく、物を手にする暇なく国を出たのだろう。屋敷にいた頃にたくさんあった両親の私物は一枚の写真のほかに見当たらない。
四人は円形の机を囲んで椅子に座った。両親の顔を交互に見たヘザーは居ても立っても居られずに勢いよく頭を下げる。
「お父様、お母様、本当にごめんなさい。ハドリーのこと、黙っていて。恥ずかしくて、二人には言えなかったの。偽装婚約をしてまで、彼のことを離したくなかったのだなんて」
正直に謝りたかった。ヘザーは顔を上げ、しっかりと二人の目を見る。
「でも、それは間違っていたわ。まずは、誰かに相談すべきだった。彼のことを救いたいのなら、信頼できる人の知恵を得るべきだったの。お父様、お母様、私は、最高の助言者が傍にいながら、そのことを忘れていた。ナサニエルでもよかったのだと思う。正々堂々と、立ち向かえばよかっただけなのに」
「ヘザー。もういいんだ。最初、ヒューバートから偽装婚約だと聞いた時は耳を疑った。だが、事情を聞いていくと、どうしてそうなったのか、なんとなく分かったような気もした。だから、彼がヘザーばかりを責めて、糾弾することが許せなかった。私たちが何も出来ぬまま、娘のことを追放するだなんて」
ヘザーの誠意のこもった眼差しに、父が悲しそうに表情を歪めた。彼もまた、あの日の出来事を長く引きずっていたらしい。
「そうよ。確かに、相談してくれなかったことは悲しいわ。けれど、あなたはそれが最善だと思ってやったのだから。私たちに謝る必要はない。処罰を受けた多くの人を思えば、ハドリーの秘密を守ろうとするのは当然よ」
母もヘザーに理解を示し、彼女の手をそっと握りしめる。
「ヒューバートに訊いても、コートニーに訊け、としか返ってこない。怒り心頭で、息子が男色に走ったのはお前の娘が不埒なせいだ、なんて言いがかりばかり。まるでハドリーが病気を患ったかのように、息子の言い分を聞こうともしなかった」
「ハドリーがどうなったか、お父様たちは知っている?」
ヘザーは咄嗟に訊ねた。しかし、彼女の純粋な問いに両親は感傷を隠さず顔を歪める。
「息子は狂ったんだ、と。根性を叩き直すと息を巻いて、ヒューバートはハドリーを幽閉し、拷問にかけた。……私たちは、そこまでしか知らないんだ。ヘザーの話も聞かずに追放したことを問い詰めていたら、今度は私たちのことまで処罰すると脅し始めた。はじめは、昔馴染みだからか躊躇っていたようだが。段々、彼は本気になった。それで、これ以上は国にいられないと、亡命したんだ。だから、ハドリーのその後は知らない。とにかくヒューバートが狂ってしまったことしか分からない。ヘザー、すまないな」
「いいえ。お父様たちが謝ることではないの。お父様もお母様も、何も悪くないのだから」
「でも、娘を守れなかった。本当なら、処罰されるべきだったのかもしれないな」
父は額を手で覆い、自らを嘲るように渇いた笑みを浮かべる。苦悩に満ちたその表情を見たヘザーが首を横に振った。
「何を言うの、お父様。決して自分を責めないで欲しいの。悪いのは私なのだから。コートニーとハドリーの婚約を葬るようなことをして、彼女のことも傷つけてしまったのだから」
「コートニー、か」
すると、その名を聞いた父が何やら考え込む。含みのある彼の口調にヘザーが首を傾げると、母が代わりに口を開く。
「彼女がハドリーの秘密をヒューバートに告げたことはもう知っているわよね? 私たちは、彼女にも事の真相を訊きに行ったの。そうすると、彼女は婚約を破棄されたことが不満で、ヘザーとハドリーを恨んでいたと言うの。ヒューバートには適当な理由をつけてヘザーを追放させた、と。二人を罰するため、邪魔者になりそうなナサニエルにまで手を回して。随分と恨んでいたみたい。なんとかしてハドリーの弱点を見つけて、復讐したかったようね。でも、彼女は恨む相手を見誤っていた。責めるなら婚約を承諾した私たちの方よ」
「お母様……」
母の自責の念にヘザーの息が苦しくなった。やはり、コートニーを追い詰めたのは自分なのだ。
「だけど、彼女、どこか奇妙だったのよ。復讐を果たしたのに、なんだか、怒っているようにも焦っているようにも見えた。私たちは、もう彼女とも距離を置くようにしていたのだけれどね。でも、彼女とヒューバートが、どんどん険悪になっていった様子なの。離れていても伝わってきたわ。ほら、二人、趣味が同じで仲が良かったじゃない?」
「……古美術のこと?」
「そう。よくパーティーでも話していることろを見ていたから」
「へぇ。ヒューバート氏は、古美術にも造詣が?」
突如、黙って家族の会話を聞いていたノアが口を挟む。ちょっとした興味で出てしまった問いに、ヘザーの両親がきょとんとする。
「ノアは、考古学とか、歴史のものが好きなのよ。ね?」
「はい。突然、失礼しました」
ヘザーの助け舟を得たノアは、照れた様子で控えめに笑う。
「あら。そうなのね。なら、ヒューバートはあなたを気に入ったでしょうね。……きっと、彼はもう処刑されてしまうけれど」
母はノアに感心の目を向けた後で、声色を暗くして肩を落とす。
「やはり、そうですか」
「ええ。ヒューバートは王を操っていた張本人よ。迷わず、処刑されるでしょう」
母は確信めいて答えた。暗い話で気が重くなったのか、彼女はため息をついた後で立ち上がり、フルーツティーの準備を進める。
「二人とも、ゆっくりしていくといい。えっと……ノア、だったか。娘を連れてきてくれてありがとう。君にも、感謝しているよ」
父はノアに微笑みかけ、四人分のカップを出すために席を立つ。
「……ヘザー」
両親が机から離れると、隣の席のノアがちょいちょい、とヘザーのことを手招いて呼ぶ。ヘザーが彼に少し身を寄せると、ノアの声が更に近づく。
「ご両親、とてもいい人たちだね」
そっと囁かれた彼の何気のない感想にヘザーの胸が小さく飛び跳ねた。
「ふふ。でしょう?」
ヘザーはつい、得意気な笑顔を浮かべてしまう。
何よりも、大好きな両親のことを褒められたことが嬉しかったのだ。
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