29 去り行く景色

 トーニグラへの出発は出来るだけ早い方がいいと、マクシーンもキャルムの意見に同意した。ロノネア王国の情勢も不安定の今、また別の問題が起きる前に動いた方がいいとの判断だった。

 ヘザーは一週間の休暇を貰い、荷物を詰めた鞄を手に二人に向かってお辞儀する。


「では、行ってまいります。少しの間、宿を空けること、快く了承いただきましてありがとうございます」


 ヘザーの心のこもった丁寧な感謝の言葉に、マクシーンは彼女の肩を叩いて身体を起こさせる。


「いいんだよ。お礼なんてよそよそしい。とにかく、無事に行って、お父様とお母様に元気な顔を見せておやりよ」

「はい……‼」


 マクシーンの笑顔はヘザーにとっての栄養剤のようなものだった。見ていると、根拠がなくとも心が前向きになってくる。ヘザーは嬉しそうな笑みを返し、身体をくるりと回した後でもう一度二人を振り返って元気に手を振った。


「ヘザー。もう出発できる?」

「うん。ありがとうノア、付き添ってくれて」

「構わない。俺は休職中の身で、誰よりも暇だし」


 駅まで向かう馬車にヘザーの荷物を乗せ、ノアは自身をからかうように笑う。


「ジェイデンが少し悔しがってたけどな。隣国に行くなら俺もついでに行くのに! って」


 馬車に乗るためにステップに足を乗せたヘザーの手を支えながら、ノアがジェイデンの家の方を見やる。生憎、今日も彼は仕事に出ていた。


「ふふ。隣国はジェイデンのお母様がいる国ですものね」

「ああ。観光案内なら任せろって得意気に言っていたし」

「まぁ、素敵。今度、機会があったらお願いしてみたい」

「ははっ。そうだな。あいつ、喜ぶよ。張り切りすぎるくらいかも。ずっと喋ってると思うけど、その覚悟はある?」

「もちろん。賑やかで楽しそう」


 ヘザーが馬車に乗り込んだのを確認し、ノアは御者に行き先を告げて彼女の後に続く。

 ノアが隣に座ると、やけに彼の体温が近くに感じた。腕と腕がくっついてしまいそうな距離感に、ヘザーは咄嗟に肩をすぼめて小さくなる。ノアは彼女が委縮したことに気づいていないようだ。扉を閉め、キャルムとマクシーンに呑気に手を振っていた。


 馬車が動き出すと、思ったよりもガタガタ揺れる。ヘザーは懸命に体幹を働かせて身体の軸を一直線に保った。こうしていれば、不意に彼に寄りかかってしまう心配もない。既に心臓の動きが早い気がしているのに、もっと傍に寄ってしまったらどうなるのか。ヘザーは久しぶりの機関車よりもそちらの方を心配していた。


「国を出るのは久しぶりだ。なんか、変な気分だなぁ」


 ノアは通り過ぎていく街の光景を眺めながら感慨深そうに呟く。自分とは違い、彼にはずっと余裕がある。ヘザーは横目でノアを見やり、恨めし気に口内を噛んだ。彼にしてみれば自分はただの護衛対象者にすぎない。そんなの、当たり前のはずなのに。

 キャルムがノアに付き添いを提案した時、一緒にいたジェイデンの言った言葉がヘザーの脳裏に蘇る。


 それは適任だ! ノア、お前は休職中でも騎士だろ? ヘザーを任せた!


「ヘザー」

「はいっ」


 突然ノアに呼ばれ、つい先日の酒場での出来事に思いを馳せていたヘザーはびくっと肩を上げる。やけに姿勢がいい。


「……緊張してる? はははっ。大丈夫だよ、ご両親が、君に会いたくないわけがない。ナサニエルが言ってたんだろ? 彼らはヒューバートに反発して国を出たんだって」


 ヘザーの威勢のいい返事と硬い表情がおかしかったのか、ノアは表情を崩して飄々と笑う。彼の小気味いい笑い声がヘザーの心音と共鳴した。自然と、こちらまで笑みが伝播してしまう。


「でも、ナサニエルも人づてに聞いたことだから……」

「心配ない。ナサニエルとは会って間もないけど、あいつは嘘はつかないって印象だし」

「ふふ。どうして?」

「なんとなく。ただの勘」

「ふふふっ。その勘に、頼ってもいいのかしら?」

「おっと。それは聞き捨てならないなぁ。俺だけだと、頼りない?」

「……いいえ。とても、頼もしいわ」


 ヘザーがくすくすと笑うと、ノアは気恥ずかしそうにわざとらしい笑みを浮かべた。笑い合ったせいか、少しだけ彼との肩の距離が近づいている。けれど、ヘザーは彼から離れることなく、その距離を保とうと再び体幹に気合いを入れる。


 彼は知らないのだ。

 馬車に乗る前、両親に会いに行く緊張で硬直して五感のすべてが鈍っていたことも。

 彼の存在が傍にあると感じるだけで、心が伸びやかになって不思議と安心できてしまうということも。




 久しぶりに乗った機関車は、以前乗った時に抱いた印象とは異なり、明るく、活気のあるものだった。

 席も八割近く埋まっていて、そこかしこで賑やかな会話が繰り広げられている。中には景色に夢中になっている者や、食事や読書といった慣れ親しんだ習慣に熱中している者もいた。


 前に乗った時は乗客も少なく、本当に無事に目的地に着くのか、降りて地面を踏むまで心配で落ち着かなかった。もちろん、車内で何かをする余裕もなければ景色を見るのも恐ろしかった。

 が、今回は打って変わって和やかな空間。ヘザーも他の乗客と同じように、気づけば移りゆく新鮮な車窓に魅入ってしまっていた。


 隣国までは数時間で辿り着く。ジェイデンの母がいるという国に降り立った二人は、ゆっくりする間もなくすぐに乗り換えの汽車に乗り込んだ。

 隣国を去るヘザーの胸には、今度はジェイデンも含めて皆でこの国へ観光に来たい。そんな希望が密かに宿っていた。

 次の汽車には一日半乗ることになっている。ノアは自分用に四人部屋の寝台を取り、ヘザーには個室を用意してくれていた。


 自分も相部屋でも構わなかったのに。ヘザーが申し訳なさからそう言うと、ノアは厳しい顔をして首を横に振った。

 ヘザーを絶対に無事に両親のもとへ送り届けるのが俺の役目なんだ。

 彼の言葉の節々には、騎士としての威厳が滲んでいるようだった。


 トーニグラに着いたのは、ラタアウルムを出てちょうど二日経った頃だった。

 追放された時の長旅に比べれば随分と楽に目的地に着いた印象だ。

 ヘザーはそこまでの疲労は見せず、絶えず涼しくも明朗な調子のノアとともに今回の本当の目的を果たすために馬車に乗り込む。


 行き先は近頃トーニグラで脚光を浴びているというジャム屋だ。果実園も運営しているらしく、その場所は面積の狭いトーニグラの中でも少し奥まった場所にある。

 一面緑に囲まれたのどかな平地が続き、しばらくして小さな村が見えてきた。どの家もとんがり帽子を思わせる同じような形をしていて、小人の国を連想する可愛らしい光景だった。


 馬車を降り、二人は地元の人にジャム屋がどこにあるか訊ねてみる。ラタアウルムともロノネア王国とも言語は違ったが、ノアの大胆な身振り手振りで難なく意図は伝わったようだ。地元の人に案内してもらい、二人は話題のジャム屋に辿り着く。

 どうやら今日の分の販売は終了しているらしい。看板を掲げた扉は閉じられていた。ノアがこちらを見ていることに気づいたヘザーは、こくりと頷く。


 もう、覚悟はできている。

 ヘザーの凛々しい瞳を見たノアは、彼女を肯定するかの如く首を縦に振る。

 一歩前に踏み出たヘザーは、力を緩めたこぶしで扉を叩いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る