28 チョコレートの香り
ナサニエルに両親の居場所を聞いてからというもの、ヘザーが考え込む頻度が高くなった。朝、目が覚めてから。仕事の合間。休憩。食事中。夜、再びベッドに入り込むその瞬間まで、彼女の思考が休まることはない。
トーニグラにいる両親に会いに行くべきか。
最初、ナサニエルの口から二人の無事を聞いた直後は、すぐにでも彼らの顔を見て、謝りたい気持ちに駆られ、宿を飛び出してしまいそうだった。が、数秒後には冷静な自分がいた。会ったところで両親には迷惑なだけかもしれない。自分が偽装婚約を申し込み、両親にすら秘密を打ち明けなかったのだ。もし、彼らにだけでもハドリーとの関係を相談していれば、違う結末だってあったはず。
彼らの顔を思い出す度、ヘザーは自分の不甲斐なさに落ち込んでいた。けれど重たい心とは裏腹に、彼らの居場所を探してしまうのだ。
これまであまり気にかけてこなかったトーニグラのニュースをかき集めてみれば、ある情報が目に入った。近頃、とある夫婦が自家栽培した果物で作るジャムが人気を博していると。
トーニグラに現れた異邦人、地道な研究と絶え間ぬ努力で一躍、トーニグラの朝食の代名詞に。
そんな煽り文句までついていた。
よく調べてみると、両親がロノネア王国を亡命した時期と彼らがトーニグラに住み着いた時期が似通っている。
写真はないものの、記事に書かれた特徴は両親を言葉で言い表すにはぴったりのものばかりだ。
もしや。と、ヘザーの脳裏には何度も可能性がよぎっていった。
しかし最後の確信につく前にいつも足踏みをしてしまうのだ。
ロビーに構えた暖炉の前にあるソファに座り込んだヘザーは、寝る時間を迎えてもなお動こうとはしなかった。きりきりと胃が締め付けられていくようだ。
自身の立ち居振る舞いが至らなかったせいで、罪のない両親にまで苦労をかけてしまったことが心苦しい。いっそのこと、このまま会わずして彼らを自分という出来の悪い娘から解放してあげた方がいいのかもしれない。
思い悩むヘザーの顔が脆く歪んでいく。
いいや。けれどそれでは、アニャシアと名乗っていた頃と何も変わらない。
太ももの上に置いた彼女の両手が丸く握られていった。情けなくて、それ以上拳を握りしめる力は出てこない。
一人、ロビーで重たい空気を背負ったヘザー。そんな彼女の傾いた視界に、赤いマグカップが差し出される。
「ヘザーさん、少し、ご一緒してもいいかな? 美味しいホットチョコレートが出来たんだ。嬉しくて、誰かと分かち合いたいのだが生憎マックスはもう寝ていてね。もし、迷惑じゃなかったら。ヘザーさんにも飲んで欲しいんだ」
顔を上げればキャルムが両手にマグカップを持って微笑んでいた。室内の柔らかな灯りのせいか、彼の表情がやたら和やかに映る。
「はい。ぜひ、飲みたいです。ありがとうございます」
ヘザーはキャルムから赤いマグカップを受け取り、ほかほかのそれを両手で包み込む。あっという間に指先から温もりが全身に染みわたっていく。無意識のうちに強張っていた肩の力も同時に抜けていった。
「ジェイデンに聞いたよ。最近、よく世界地図を見ているんだってね」
キャルムはヘザーの斜め前に置かれた一人掛けのソファに腰を下ろしてホットチョコレートの湯気を揺らした。
「……はい」
ヘザーはホットチョコレートを微かに口に含む。滑らかな舌触りが味蕾に触れた瞬間、彼女の瞳が僅かに開く。キャルムの言う通り、このホットチョコレートは一人で楽しむには惜しいほど絶品だ。
「トーニグラはロノネア王国と違ってここからもそんなに遠くない。ヘザーさん、本当は、ご両親に会いたいのでしょう」
朗らかな表情のままキャルムはホットチョコレートをゆっくり飲んでいく。彼の指摘の通り、ヘザーが世界地図と睨み合うのはトーニグラの場所を確認するためだった。トーニグラはラタアウルムから隣国まで機関車で移動し、そこで別の機関車に乗り換えれば二日程度で着く場所にある。小さな国で、大きな争い事もなく平和な国だとジェイデンが教えてくれた。
「けれど、私には両親に会う資格がないような気がしているのです。私のせいで、二人は亡命することになった。二人は豊かな暮らししか知らない。きっと、国を出ることになり、大変な思いもしているはずですから……」
ヘザーはマグカップに回す指にぐっと力を込めた。貴族として扱われる生活を生まれた時から続けてきた両親のことだ。自分がそうであったように、彼らも戸惑うことばかりだったはず。もしかしたら、人に恵まれた自分よりも苦労が多いかもしれないくらいに。
「両親は賢い人たちですが、それは、あの国でしか通用しないことかもしれませんし」
ヘザーがぽつりと憂慮に満ちた呟きをこぼす。二人には感謝をしているし、尊敬もしている。けれど世界は広い。自分たちの知らないことだらけだ。余裕のあるふりなどしていられない。
「ヘザー。私たちには子どもがいない。だから、親と子の関係について、どちらの立場も分かっているようなことは言えない。だけど」
俯くヘザーに、キャルムはそっと目を細めて微笑む。
「誰もが人の子だ。たくさんの色模様があるから一概には言えないかもしれない。けれど、これは親と子ではなく、人と人との縁なのだと考えてみれば、何も難しく考えることもない」
ヘザーの瞳がキャルムに向けられる。彼女の想いは、ちゃんとその中に込められていた。彼女の本心を見たキャルムは、ふふ、と柔く口元を綻ばせる。
「君がここに来た夜。きっと、複雑な事情があるのだろうと思った。戻るところもなく、行く場所も分からない。まさに、迷い人だ。けれどかつて、何の心配もすることなく、素直に帰れる場所があった人なのだと。そう感じたんだ。一緒に生活していく中で、それは確信に変わった。私もマックスも、君のことを家族の一員だと思っている。だけど、彼女には、他にもそう思う人がいる、と」
キャルムの顔の前で揺れていた湯気が消えていく。彼がマグカップを自身の膝の上に乗せたからだ。
「ヘザーさん、君には笑顔が似合う。皆、君の笑顔が大好きだ。心から笑えるよう、けじめをつけていらっしゃい。君はここの住人、家族だ。もう、帰り道に迷うことはない。帰り道を決めるのはヘザーさんだ。だから、何も怖がらなくていい。心のままに、足を向ければいいんだ」
キャルムはもう一度マグカップを顔の前に持ち上げ、少しだけ恥ずかしそうにくすりと笑いながらホットチョコレートを堪能する。
ヘザーは何も言わずにじっとキャルムを見つめたまま。
慣れないことを言い、照れた様子のキャルムの笑みが珍しかった。次第に、先ほど飲んだホットチョコレートの熱が胸の底まで広がっていく。
気づけば、ヘザーの頬は柔らかに綻んでいた。キャルムと互いの笑みを見ていると、気恥ずかしさが楽しい気持ちへと変化していくようだった。すっかり、心は軽い。
「キャルムさん」
「はい、ヘザーさん」
「私、トーニグラへ行ってみます。両親に、ちゃんと事情を話して謝らないと。もし、誤解しているのなら。それは、とても悲しいから」
ヘザーはナサニエルが言っていたコートニーの不穏な話を思い、苦い顔をして笑う。両親の耳にも同様の話が入っているのならば、せめてもの訂正をさせて欲しいのだ。
「ええ。気を付けていってらっしゃい」
キャルムは彼女の意志を察してか、優しく眉尻を垂らした。ヘザーがホットチョコレートを再び飲み始めると、キャルムは何かを思い出したように少し難しい表情をする。
「汽車での移動とはいえ、一人で行かせるのはやはり心配だ。お供が一人くらい、必要かもしれないねぇ」
「そうでしょうか……?」
機関車に乗った経験自体、ヘザーは少なかった。ほとんど国内の決められた範囲でしか過ごしてこなかったのだ。移動手段の多くは馬車で、機関車などは試しに一度乗ったくらいの記憶しかない。とはいえ、ただ便利な乗り物に乗って移動すればいいだけだ。そこまで守ってもらう必要があるのかヘザーには疑問だった。
ヘザーの不思議そうな反応を見たキャルムは、暖炉の向こうに広がるモザイクアートを見やり、意味ありげに微笑んだ。
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