27 故郷
ナサニエルと再会してから五日。常連客と顔を合わせたヘザーは、彼らが口々に自分の名を呼ぶことへの違和感がなかなか拭えなかった。
過去の詳細を知っているのはあの場で打ち明けた顔ぶれだけだ。が、ヘザーは自分を偽ることは止め、アニャシアはミドルネームで、本来の名前はヘザーであることを自ら店の皆にも打ち明けた。
それは彼女なりのけじめでもあった。
過去の自分と決別することを心に決めたからだ。そのためにも、向き合う前に切り捨てかけた辛い過去に目を塞ぐことはもうしないと誓った。過去の自分がいて、今の自分に至ってきたのだ。完全になかったことにして封じ込めてしまっては、また同じことを繰り返しかねない。
ヘザーはあくまでも、ロノネア王国に生まれ、愛する人の命を危険に晒す罪を犯したヘザー・アニャシア・カスターニュとしてこの先も歩んでいきたかった。
過去の罪も何もかも認め、ありのままの自分を受け入れるからこそ、前に進めるような気がしているのだ。
客の中には、名前を知ってもアニャシアと呼び続ける者もいた。だがそれもまた、ヘザーにとっては愛称みたいで心地の良い響きであることに変わりなかった。
キャルムとマクシーンも、彼女の過去を知っても変わらぬ態度で接してくれた。むしろ、ロノネア王国で貴族の一員だったヘザーの話に興味を持ち、宿でのおもてなしに活かせるものはないかと試行錯誤を楽しんでいる。
オークリー親子も特段、何かが変わったということもない。
強いて言えば、以前話した失恋の相手がハドリーであることを察したジェイデンが、慰めのように新たに仕入れた酒を差し入れしてくれたくらいだ。
これを使って、また美味しいカクテルを考案してみてよ。
そう言って、すっかり特技となったカクテル作りにヘザーが励めるように。
ヘザーもまた、胸につっかえていた大きな異物が少しずつ溶けていくのを日々実感していた。
彼らに自分の本性を話すことにずっと怯えていた。けれど今は、もうそんな惧れはない。ようやく心から、自分がこの場に立つことに胸を張っていける。ヘザーは微かな自信を胸に、今日もバーカウンターでカクテルの試作に挑んでいた。
しかし、そんな束の間の平穏もすぐに消え去る。
「ねぇ‼ こここここここ、これこれこれ‼」
昼下がりの朗らかな陽が差し込むフロアに飛び込んできたのはジェイデンだった。
新聞を片手に、スイングドアに勢いよく体当たりをした彼は、そのままつんのめりそうになりながらヘザーのいるカウンターに雪崩込む。
「どうしたのジェイデン。そんなに慌てて……」
彼の焦燥しきった表情にぎょっと目を丸め、ヘザーはカクテルを混ぜる手を止めた。ジェイデンは手に持っていた皺の寄った新聞をずいっとヘザーの顔の前に突き出す。
「これ‼ もう見た⁉」
「いいえ。まだなの。いつも夜営業前の休憩時間に読むようにしているから」
朝から宿と軽食の仕事で働き詰めのヘザーがまとまった休みを取れるのがその頃だからだ。ヘザーは首を横に振り、ジェイデンの問いに答える。
それにしても、ジェイデンに新聞を読む習慣はなかったように思うが、どういう心境の変化だろう。ヘザーはそんなことをぼんやりと考えた。
「早く読んだ方がいいよ‼ これ、ここの記事……!」
彼女の疑問をよそに、ジェイデンはカウンターに新聞の一面を広げて力強く指をさす。彼に言われるがまま、ヘザーは彼の指先が示す文字の羅列に目を落とす。
「ロノネア王国が、ライダイ帝国の侵略を受ける……?」
並んだ文字のままを読み上げた。一度読んだ時にはその意味が脳の表面を滑って内容を理解できなかった。が。
「……侵略?」
次の瞬間にはヘザーの眉が険しく歪んだ。カウンターに置かれた新聞を手に取り、顔の近くに寄せてもう一度同じ記事を読んでみる。書いてあることは、いくら瞬きをしても変わることがない。
「ロノネア王国ってヘザーの母国だよね?」
ジェイデンが緊迫した声で訊ねる。新聞で隠れてしまった彼の顔。しかし、恐らく難しい顔をしているということはその口調だけで分かる。
「…………ええ」
感情のない相槌を返すことしかできない。記事を詳しく読み始めたヘザーは、そこに書かれている情報を噛み砕くだくだけで精一杯だったからだ。
記事に書かれている様子では、どうやらロノネア王国の王がある時を境により一層の規律を求め、国民への締め付けが激しくなったようだ。法は次々に増えていき、もはや国民の権利など無視をした立派な独裁国になっていたとの所感だ。
自由と権利を奪われ、息の詰まった生活を強いられた国民たちの不満は徐々に募っていき、ついには革命軍が近隣国へ助けを求めたという。
その中の一つがライダイ帝国だ。ライダイ帝国はロノネア王国付近の地域も支配する大国で、これまで侵略を受けることもなく貿易相手として良好な関係を築いていたはず。国民同士の交流も盛んで、帝王と国王との関係も悪くなかった印象だ。
「そのロノネア王国の独裁王って、ヒューバートのお兄さんだよね?」
「そう。……ほとんど、ヒューバートが仕切っていたから、影の王はヒューバートとも言えるけれど……」
「国王はただのお人形か」
「ええ……」
新聞を下げ、ヘザーは青ざめた顔でジェイデンを見やる。
「これ……。国王が横暴的になっていったという時期。ちょうど、私が追放された頃と重なるわ。もしかしたら、ハドリーを処分することになったヒューバートが、暴走してしまったのかもしれない」
「息子に手をかけることになったんだもんな。壊れてもおかしくない状況ではあるけど。そもそも、それだって自分たちが作った法のせいだけどね」
ジェイデンは少しだけ呆れた様子で顔をしかめる。
「そうだけれど、彼はそんなことになるなんて想定していなかったから……。法を緩めるばかりか、真逆の方向へ行ってしまったのだわ」
「ショックのあまりってやつかな。権力に拘る人間がやりそうなことだ」
ジェイデンはヘザーの作りかけのカクテルに手を伸ばし、一口味見した。
「……ライダイ帝国の軍力には、ロノネア王国は到底及ばないわ。いいえ。国民が望んで革命軍に国の運命を委ねたのだもの。きっと、もう、あの国は……」
「……ライダイ帝国の支配下になるだろうね」
「それを、皆は望んでいる……。ならば、仕方のないことかもしれない」
ヘザーの声は空中を低空飛行するように熱を失っていた。感情の整理が追いつかず、自分がどんな想いに辿り着くのかすら見当がつかない。
少なくとも、もうロノネア王国という名の国は消滅することになるだろう。記事によれば王族が捕らえられ、帝国による審判が行われるとのことだが。
「国の被害の方は大丈夫なのかな?」
ジェイデンが心配そうに眉をひそめた。確かに、王族たちの現状は書かれているものの、肝心の国内の被害については言及されていない。
革命軍と帝国軍による策略ならばそれほど被害がないことを祈りたいが、事実が分からない今、何を思おうとすべては願望止まりだ。
「…………家族は、大丈夫なのかしら」
捕らえられた王族の中にはきっとヒューバートもいる。彼らと親しかった両親の顔が不意に頭に浮かぶ。ヘザーの脳内で悲鳴が上がった。両親がもし、ヒューバートのことを庇ったのならば。
ぐらりと、嫌な予感に眩暈を覚える。身体の奥深くから拒否反応がこみ上げ、思わず嘔吐しそうになりヘザーは身体を屈めた。
「ヘザー! 大丈夫⁉」
突如視界の下へと消えていったヘザーの姿。ジェイデンは慌てて立ち上がり、しゃがみこんだヘザーをカウンター越しに覗き込む。
「……大丈夫」
口ではそう言えた。けれど声色を制御できるほどの余裕はない。ヘザーの強がりの返答は、ジェイデンの不安をより掻き立てるだけだった。
「ヘザー、休んだ方が……」
カウンターの裏に回り、ジェイデンはヘザーの身体を支えてロビーのソファに連れて行こうとする。すると。
「ずいぶんと過保護な連中だな」
冷涼な声がしゃがみこんだ二人の頭の上に降ってきた。見上げれば、眉間に皺を寄せたナサニエルの姿がある。ちょうど外から入ってきたばかりなのだろう。彼を纏う空気は外気そのままに冷たく、先ほど彼が発した声色が見事に溶け合っていた。
「ナサニエル……」
ジェイデンが彼の名を呟くと、彼はふぅ、と鼻先から息を軽く吐く。
「倒れる必要なんかない。あんたの両親は、とっくにロノネアから亡命してるから」
「え……?」
ジェイデンとヘザーの声が重なった。思いがけない言葉に見事な間の抜けた顔を見せた二人にナサニエルはやれやれと瞼を閉じる。
「旅の途中で情報を得たんだ。ロノネアの国内の状況が良くないことも、国民の反発が抑えきれないところまで来ていることも。だがそれよりもずっと前に。俺が国を出てすぐの頃だ。ある村で出会った老婆に言われた。最近のロノネア王国は生き辛いのか、って。どうやら、俺の他にもロノネア王国から逃げた人の話を聞いたらしい。よく聞けば、それはあんたの両親のことだった。娘を奪われ、相当頭に来たようだ、とな」
ナサニエルはカウンター席に腰を掛け、飲みかけのカクテルをちらりと見やる。ヘザーとジェインデンが立ち上がる間、彼はカウンターに置かれた瓶をそのまま近くにあった空のグラスに注いだ。
「あんたの両親たちは革命にも巻き込まれていないし、安全な場所で静かに暮らしてるだろうよ」
「……どうして」
「あ?」
「どうして、そんなことを教えてくれるの? ナサニエル。だって、私は、貴方のことを……」
ヘザーはバクバクと騒ぐ心臓を隠そうと胸の前で手を握りしめ訊ねる。彼の愛する人を、自分は加害してしまったのに。コートニーはもとより、彼自身も自分のことを恨んでいるはずだ。ヘザーはそれを自覚し、彼の親切な態度に違和を覚えた。
神妙な顔をするヘザーと目を合わせたナサニエルは、注いだ酒を一気に飲み干してため息をつく。
「ああ。確かに俺は、あんたのことが好きじゃない。俺は、ハドリーのことを守れなかったことを後悔している。どんなに後悔したか分かるか? 自分を責め続けることしかできない。ああすればよかった。こうすれば、もしかしたら、って。だが、俺は結局保身に走ってたんだ。彼を危険に晒すことが怖くて動けないと自分に言い聞かせてた。裏を返せば、それは自分を守ってただけだ。ハドリーの立場は複雑だ。彼の安全を優先すると言いながら、何も出来ない自分を正当化してただけなんだよ。……あの国で、ハドリーを守れたのはあんただけだ。だからあんたが憎くてたまらなかった。唯一、ハドリーを守れる人間だったはずなのに。憎くて憎くて、たまらなかった。でもそれも、あんたに八つ当たりしてるだけだ」
ナサニエルはグラスをカウンターに置き、ぎりぎりと握りしめた。グラスを握りしめる彼の眼差しは嫌悪に満ちていた。グラスにぼんやりと映る自分の瞳を睨みつけている。グラスが軋み、割れてしまいそうだった。
ナサニエルはふっと手の力を弱め、一息置いた後でヘザーに視線を向ける。
「本当は、俺もあんたの家族がどこにいるかなんて、親切に教えるつもりなんかない。ハドリーを裏切ろうとした女だ。けど、あんたを恨み続けるのはあいつの望みとも違う。あいつを裏切ることは、もうしたくないから」
トンッとグラスをもう一度カウンターに置き直し、ナサニエルは先刻自分で注いだ酒の瓶を手に取り立ち上がる。
「あんたの両親は、トーニグラにいる。のどかで小さな国だ。ここからそんなに遠くもない」
それだけを告げると、ナサニエルは瓶を手に持ったまま、反対の手を上げてひらひらと振りながらフロアを後にする。
「…………酒、持ってっちゃった」
背を向けた彼がスイングドアの向こうに消えると、ジェイデンが呆気にとられた様子でぽつりと呟いた。
「トーニグラ……」
ナサニエルの余韻を目で追っていたジェイデンは、隣から聞こえた小さな声にゆっくり目を向ける。
「ヘザー、大丈夫?」
「ええ。大丈夫よ。ありがとう、ジェイデン」
ヘザーは自分の顔色を窺うジェイデンを安心させようと柔らかく微笑んだ。彼女の笑顔を見たジェイデンはほっとしたようで、カウンターを回って彼女の正面へと戻っていく。
「父と母に、会いに行くべきかしら……」
ジェイデンには聞こえない声で、ヘザーは独り言をこぼす。会いたいという気持ちはある。けれど、一体どういう顔をして会いに行けばいいのだろう。両親が亡命することになったのも、間違いなく自分が影響しているのだから。
ハドリーとの婚約が偽装だったことに、彼らは何を思っているのか。
ヘザーが悶々とした想いをぐるぐる脳内で回転させる中、席に座り直したジェイデンが嬉しそうに笑いながら新聞を畳み始めた。
ほんわかとした口調で、ジェイデンはしみじみと自分に語りかける。
「いやぁ。親父にもっと勉強しろって言われて新聞を読み始めたけど。早速役に立った、かな? 情報って、すごいな」
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