26 燃ゆる灯
世界が無音になり、耳の付け根で心音が鳴り響く。一拍打つ度に全身に渡っていく毒がつま先まで蝕んでいくようだった。
氷漬けになった眼差しは、ノアを見上げたまま動かない。
ついに来てしまったのだ。この時が。
いつまでも隠し通せるはずがないとは薄々思っていた。が、せめてもの覚悟すら待たぬまま、運命はいたずらに巡っていく。
物体はないはずなのに喉を落ちていく息は痛い。まるでハリネズミが通っていくようだ。針を纏っている感触がある。
ヘザーは拳を握りしめ、閉ざした口を静かに開く。
「私は、ロノネア王国の出身です。ヘザー・アニャシア・カスターニュ。それが、私の名前」
ノアはヘザーの告白を引き締まった瞳で受け止める。遅くなった自己紹介。ヘザーを見つめる彼の表情は凛々しい。けれどなんの感情も読み取れなかった。
「……私は、ロノネア王国から追放されました。その道中で、オークリー親子に助けていただいたんです」
もはや逃げも隠れも出来ない。いいや、逃げも隠れもしたくない。最初からこうすべきだったのだ。
ヘザーの本音とは裏腹に、彼の反応に怯える膝ががくがくと震えそうになる。ノアの視線がちらりと足元に向けられた。ヘザーは堂々と立っていられないことが恥ずかしくなり、自分の臆病さを呪った。
「まずは宿に戻ろう。キャルムさんたちに店を任せてしまっているし」
「……はい」
ノアはヘザーの肩を優しく叩く仕草をするとともに、ふらつく彼女が自らの足で立てるように軽く支える。彼の手が離れると、力を失いかけていた足がどうにか気力を取り戻した。
ヘザーとノアはそれから互いに口を開くことなく、無言のまま宿への帰路を辿った。
宿に着くと、ロビーには清掃中のマクシーンの姿があった。二人が戻ってきたことに気づき、彼女は変わらぬ快活な笑顔で二人を迎える。
が、彼女の明るい表情とは対照的に深刻な雰囲気を漂わせた二人の顔つきに、マクシーンはすぐに眉をしかめた。
「何かあったのかい? まさか、ノア、何か事件でも?」
マクシーンの問いにノアはすぐには答えられなかった。ノアの表情を濁らせる困惑の思いを、隣に立つヘザーはひしひしと感じとる。
「マクシーンさん。どうか、少しだけお時間をください」
彼に全てを任せるのは間違っている。これは自分の責任だ。
正体を偽り、出会う人々の好意にばかり甘えてきた。そんなことをして、過去を葬れるわけもないのに。
ナサニエルがこの国に来たのもきっと必然だ。彼もまた国を追われた人間。国を出た後、過酷な体験をしてきたに違いない。彼との再会は、ハドリーを置いて浅ましく生きようとする自分に対する警告なのだ。
ヘザーの力強い声にマクシーンはぽかんと目を丸くする。
「キャルムさんにも、出来ればお話を聞いて欲しいのです」
「へ? 話?」
マクシーンが間の抜けた声を洩らすと、ちょうど酒場の方からキャルムとジェイデンが歩いてきた。どうやら今日の納品が終わったようだ。
「ノアとアニャシア。そんなとこに突っ立って何してるの?」
ナサニエルのことなど何も知らないジェイデンの能天気な調子がヘザーの胸を締め付ける。彼が今、こちらに向けているその笑顔。自分は、彼らが見せる他愛もないこんなやり取りに救われ、これからもずっと見ていたいと望んでいたのだ。
けれどそれはただの自己満足の我が儘にすぎない。彼らの態度には偽りなどない。そんな素顔の仲間に入ろうと望むこと自体が、そもそも無謀なことだった。
「話を聞いて欲しいの。ジェイデン、お父様は、今、お仕事中かしら」
「今は休憩してるよ。だから代わりに俺が荷物を運んできた」
「……そうしたら、お父様も、ここに連れてきてもらいたいの」
「ここに? うん。いいけど……」
意味ありげなヘザーの語調にジェイデンは首を傾げながら了承する。マクシーンはキャルムに目配せをし、どうやら緊急事態が起きているらしいことを伝えた。するとキャルムはすぐに酒場に戻り、しばらく店を空けることを店内にいる客数名に宣言した。
「うん。これでしばらくは大丈夫だろう。……で、アニャシアさん、話とは?」
キャルムがロビーのソファに腰を掛けながら、皆の視線を浴びるヘザーに改めて訊く。ジェイデンが連れてきたオークリー氏も、暖炉の傍に息子と椅子を並べてヘザーを見やる。
ヘザーは一人掛けのソファに座り、こちらを向く十の瞳、一人一人と目を合わせた。最初は立ったまま話すつもりだったが、マクシーンにこちらに座るようにと促されたのだ。
二人掛けのソファで肩を並べて座るキャルムとマクシーン。その横に、ソファのひじ掛けに簡易的に腰を下ろしたノアがいる。最後に彼と目を合わせ、ヘザーはきゅっと唇を噛みしめた。
「皆さんに、ずっと、話していなかったことがあります」
淡々と、感情を込めることもなく、ただありのまま起きた出来事を語っていく。
自分がロノネア王国の伯爵家に生まれたこと。自分の本当の名はヘザーであること。幼馴染のハドリーを愛していたこと。そんな、想いが叶わぬ相手と偽装婚約をしたこと。ヒューバートに秘密が洩れ、国外に追放されたこと。その道中で盗賊に出くわし、行き先を失ったこと。絶望の中、一台の幌馬車が自分を救ってくれたこと。
命を守るために国を出たナサニエルがラタアウルムに訪れていることも加え、すべてを包み隠さず、ヘザーは真実のままを皆に伝えた。
ヘザーの話を聞く皆の顔は冷静だった。途中、マクシーンとジェイデンが悲痛な情を抑えきれずに顔を歪めたが、ほかは変わりなくヘザーの話を真剣に聞き入れていた。
「……私は、愛する人を、殺してしまったかもしれないのです。彼を守るためだと自分を正当化して、余計なことをしてしまった。もし、私が偽装婚約なんてもちかけなければ、彼は、別の道を歩めたかもしれない。その可能性を、潰してしまったんです。彼にはナサニエルという素晴らしい恋人がいて、彼なら、きっとハドリーのことを違う方法で守れたのに……」
ヘザーの声がぐらりと揺らいだ。ナサニエルの怒りと悔しさの滲む表情が脳裏に蘇り、思わず涙がこぼれそうになり鼻をすすった。
「過去を隠していた私のこと、信じてくださいとは言いません。でも、私は、確かに彼を愛していました。だから、彼を脅すことも、彼の父に秘密を話すことも、一切していません。しようとも思わなかった」
ナサニエルの話によれば、ハドリーの元婚約者であるコートニーはそうは思わなかったようだが。ヘザーはその部分が少しだけ引っ掛かっていた。
彼女とハドリーの縁談を壊してしまったのも自分だ。
いくら責められようと構わない。が、ハドリーのことを裏切ろうとした、という歪んだ話だけは断固否定したかった。秘密を洩らせばヒューバートがハドリーとナサニエルにどんな仕打ちをするか。
当時も今も、想像するだけでも身の毛がよだつ。そんな恐ろしい立場に二人を向かわせるわけがない。
二人の関係に嫉妬しかけたのは本当だ。けれど、だからといって彼らの不幸を望みはしない。愛する人なのだ。彼を失うくらいなら、自分の身を切った方がずっとマシなのだと考えてきたのだから。
ハドリーは依然、消息不明のまま。ラタアウルムに来てから新聞には欠かさず目を通しているが、特に不穏な記事を見かけたこともない。
彼は本当に、ひっそりと処刑されてしまったのかもしれない。
ヘザーの指先に、ぴりっと鈍痛が走っていく。
ヘザーは忘れかけていた最悪の結末を想像し、そっと口を閉ざす。
彼女の話をじっと聞いていたキャルムとマクシーンは、俯いた彼女を見た後で互いに顔を見合わせた。二人の表情には彼女に対する思いやりが滲んでいる。何と声をかけるべきか、まだうまくは言葉にできないようだ。
ぱち、ぱち、と、暖炉の中で薪が燃える音だけがロビーに息吹を与えていた。しんと静まり返った時の中、飾り気のない素直な声が静寂をかき分ける。
「信じるよ」
彼の言葉に、ヘザーの重く下がった頭が持ち上がる。一直線に前を見やれば、ソファのひじ掛けに腰を下ろしたままのノアの唇が緩やかな弧を描く。
「ずっと、自分を隠すことは苦しく、辛かっただろう。ヘザー」
心地の良い穏やかな語調だった。ヘザーの胸に、きらりとした雫が落ちていく。きっと彼が呼ぶ名が新鮮に聞こえたせい。そうに違いない。
ノアはソファの背もたれに手をついて、しっかりと床に足をつけて立ち上がる。
「話してくれてありがとう。君は、ただハドリーを懸命に守ろうとしただけだ。ナサニエルもああ言っていたけど、そんなこと、彼も本当は分かっているよ」
ノアがナサニエルのことを思いやるように笑うと、暖炉の熱がふんわりとロビー中に広がっていった。空気が少し和らいだことを察したのか、ジェイデンが驚きとともに口を開く。
「同性愛が禁止なんて、王の鶴の一声でそんなに簡単に法律が出来てしまうことがびっくりだ」
「ラタアウルムは君主制じゃないからな。随分昔に王族は王位を返上して、貴族も皆、爵位を捨てた。文化が違うから、戸惑うよな」
ジェイデンの正直な感想にノアは同意するように微かに眉尻を下げる。
「ジェイデン、もう少し仕事以外の勉強もするといい。……ヘザー、私はあの時、君と出会えたことに感謝しているよ。ひどく傷ついていたから、最初は心配だったが。こうやって、キャルムたちとともに立派に宿を営んでいる。君の作るカクテルも、とても美味だ。君に出会えたおかげで、友人たちの生き生きとした姿も毎日見られるしねぇ」
オークリー氏はジェイデンを横目で一見した後でヘザーに微笑みかける。友人、と呼ばれたキャルムとマクシーンが気恥ずかしそうにくすくす笑う。
「そうだよ。大変なことが続いて、気持ちも落ち着かなかっただろう。自分が何者かなんて、そんなことは気にしなくていいのに」
「ああ。マックスの言う通りだ。ここは誰もが自由になれる宿だよ。ここに来る者の中には、自分から少し離れたい人や、別人の顔をしていたい人も大勢いる。訪れる人が、自分が何者になるのかを決められるんだ。だから、私たちに後ろめたさなど抱えなくてもいい。それが当然なのだから」
マクシーンとキャルムはヘザーの方を同時に向き、それぞれ朗らかな笑顔を浮かべた。
「……ありがとう、ございます」
皆にかけられる言葉に、ヘザーは深々と頭を下げる。膝に添えた両手は震えていた。恐怖や絶望ではない。感激と、感謝でただただ胸はいっぱいだった。
「あ。でもさぁ」
張りつめていた空間がすっかり和やかな雰囲気に移り変わったところで、ジェイデンがふと思いついたように考え込む。
「アニャシ……ヘザーがハドリーの秘密をバラす気なんてなかったなら、コートニーって人はどうしてわざわざヒューバートに告げ口をしたのかな? ナサニエルに事前に警告をして。彼女も、一応貴族の身なんだろ? そんなことして、彼女の評判にキズがつかないのかな。というか、彼女自身がヒューバートを脅すことにはならない?」
「コートニーは男爵家の令嬢で、とても素敵な人なの。きっと、本来ならそんなことはしないと思うわ。誰よりも良識をわきまえているから。けれど」
ヘザーの声が重苦しく落ちていく。
「私が、婚約の邪魔をしてしまったから……。恨みを買うのも、おかしな話では全くないわ」
ヘザーとコートニーは友人でもなく、社交場で顔を合わせるくらいの関係しかなかった。が、彼女と親しくなくとも、彼女の話はよく耳にしてきた。美しくて賢く、性格も芯のある強いところもあるが、それでいて穏やかな女性だと聞いている。
ナサニエルが彼女を信用し、国を出たのもコートニーの評判の良さを振り返れば違和感もないことだ。
親同士が決めた婚約のこと。彼女がハドリーのことを心から愛していたのかまではヘザーも分からない。けれど逆の立場であれば、理由も曖昧なまま婚約を破棄されて気分がいいわけがない。
「じゃあ、彼女なりの二人への復讐、ってこと?」
「……そうかもしれないわ」
復讐したい相手が決まっているのならば、ナサニエルに事前に警告するのも不思議なことではない。彼は婚約破棄に直接関わってはいないが、彼もまた、秘密が洩れれば処刑される対象になってしまうのだから。
式の当日、ヒューバートに秘密が洩れたのがどうしてか、その理由がずっと気になっていた。コートニーが如何にしてナサニエルとハドリーの関係を突き止めたのかまでは定かではない。けれど、自分でも気づけたのだ。不可能な話ではない。
秘密をバラしたのがコートニーだと判明した今、ヘザーの心はまた靄に包まれていく。
ヘザーは膝に置いた手を見つめ、きゅっと口内を噛む。
いずれにせよ、自らの行為が愚かな結果をもたらしたことに変わりはないのだ。認めなければ。
ヘザーとは対照的に、ジェイデンはコートニーの動機が腑に落ちない様子だ。唸り声をあげてうんうんと思考の迷路に入り込んでいく。
「ヒューバートにとっては葬りたい秘密だろ? じゃあ、隠していたヘザーを追放したとして、秘密を知ったままのコートニーはどうなるんだ? それに、婚約破棄が恨みの原因なら、ハドリーの本当の恋人のナサニエルを庇うようなことするかな。二人の関係が破棄とは関係なくても、浮気と何が違う?」
ノアが探偵気取りのジェイデンに声をかけようとすると同時に、宿の入り口から元気な鈴の音が鳴る。
お客様かとヘザーが顔を向ければ、扉の向こうから現れたのはナサニエルだった。
「……どうして」
思わずヘザーが呟くと、ノアの視線も彼の方へ向かう。
「ここにいると街の人に聞いた。アニャシアと、名乗っていたんだな」
ナサニエルは暖炉の前に集結している五人を横目で流し、ヘザーに近づいていく。その足取りは落ち着いていて、先ほどのような剣幕はない。
「さっきの犬。今は父が面倒を見ているから、とりあえず様子を伝えようと思って。気にしているかと」
「わざわざ悪いな」
いつの間にか、ヘザーの後ろにはノアが立っていた。彼のにこやかな表情には僅かな警戒心が宿っている。ナサニエルはノアをじっと観察し、吊り上がっていた眉をなだらかに下げた。
「さっきは悪かった。みっともないところを見せたな」
ナサニエルはため息混じりにノアにそう告げると、居心地が悪そうにヘザーを見やる。まだ、彼女を見る瞳は冷たかった。
「あの犬は誤飲した異物が腸に詰まって閉塞している。手術が必要だから、しばらく家で預かることにする。後で飼い主にもそう伝えるが、もしこっちに先に来たら同じことを伝えてやってくれ。命に別状はない。必ず元気な姿で帰るから大丈夫だと」
「ああ。確かに言付かった。面倒をかける」
「いい。それが仕事だ」
ノアの返事にナサニエルはロビーを見回しながら軽く答える。
「……じゃ、俺はこれで失礼する」
ぐるりとロビーを一周見渡したナサニエルは、さっと踵を返してスタスタと宿を出ていった。
「あれが、ナサニエル、って奴?」
彼が去ると、ジェイデンが興味津々にヘザーに問う。
「ええ。そうよ」
「へぇ。なんか、しっかりしてそうな奴だな」
心なしかジェイデンの声が浮ついているような気がした。話に聞いていた人物の登場に興奮しているのか。彼の能天気な笑みが、ヘザーの視界の端で揺れていた。
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