25 熱烈な歓迎
記者の男に言われた通り、二人は大家に鍵を開けてもらい彼の家を訪ねた。モギーは二人が来たことに気づきはしたが、元気なく座り込んだまますぐに二人から目を逸らす。
ノアがモギーを抱き上げると、モギーは一切嫌がるそぶりも見せずに彼の腕に収まった。
「少し、呼吸が苦しそうだな」
モギーの様子を観察するノアが真面目な声で呟いた。
「急いだほうが良さそう」
ヘザーの言葉にノアも同意し、二人は急いで獣医がいるという家に向かった。
大通りから外れた場所にある家は、ノアのアトリエよりもずっと先に行ったところにあるらしい。街に出る機会がほとんどないヘザーは、ノアが道案内役を引き受けてくれたことをすぐに感謝することになる。一人で飛び出していたら確実に道に迷っていたはずだからだ。
ノアのおかげで余計な道を通ることもなく、二人は記者の家を出て三十分後には目的の場所に辿り着くことができた。
かつて画家が住んでいたらしい古い家は、ノアのアトリエよりもこじんまりした印象を抱く。とんがり屋根が特徴的で、雰囲気だけで言えば宿にも似ている。規模は違えど、恐らく建てられた時代が近いのだろう。
「にしても、獣医が来るなんて話、聞いてないけどな……」
開けっ放しになっていた小さな門扉を抜け、ノアは腕に抱えた小さな温もりを撫でながら家に近づいていく。
彼の神妙な声にヘザーが意識を向けていると、突如として目の前の家の扉が開いた。叩こうとしていた扉が思いがけず開かれ、ノアとヘザーは二人して肩をびくりと跳ね上げる。
「……嘘だろ」
扉から出てきたのは一人の青年だった。ヘザーたちと変わらない歳であろう彼は、扉の前に立っていた二人を見るなり眉を顰める。驚きというよりも、どちらかといえば険しく、不快を示した表情だった。
「……………………うそ」
彼の視界を独占していたのはヘザーだった。ノアには目もくれず、彼の意識はすべてヘザーに集中していた。ヘザーもまた、彼を見たまま固まってしまう。
嘘。
出てきた言葉は、紛れもなく今の心情そのままだった。ヘザーの穏やかだった鼓動が、思いがけぬ嵐に見舞われ凶器の如く暴れ出す。
「お前……‼」
勢いよく扉を閉めた彼は、つかつかとヘザーに詰め寄っていく。あまりにも扉を投げつけるように閉めたせいか、古い家が身震いを起こす。
「お前、ハドリーに何をした⁉ お前が俺たちの関係をヒューバートにバラそうとしたんだろ‼ お前の色仕掛けが効かなかったからって、人の命を何だと思ってるんだ⁉」
ミルクブラウンの髪は短髪で、無造作に整えられている。雄々しい瞳は刃物よりも鋭くヘザーを睨みつける。
「脅してなんて……!」
「言い訳するな‼ そんなにハドリーのことが憎かったのか。あいつが何をしたんだよ。責めるなら俺を責めろよ‼」
「ちが……ッ」
視線で切り裂くばかりか、今にも牙をむき出しにして食って掛かりそうな彼の勢いにヘザーの声はかき消されてしまう。恐ろしいほどに真っ直ぐに耳に飛び込んでくる言葉。聞くのは久しいはずの懐かしい言語だというのに、意味の認識に衰えはなく、むしろ鮮明だ。
必死に声を張り上げようにも、喉が塞がり、ヘザーはうまく声が出せなかった。怒涛の言葉の波に襲われた彼女の顔色が次第に薄くなっていく。
眩暈を覚え、歪み始めたヘザーの視界に、不意に大きな手が割り込む。
「おい。君が誰だか知らないが、一方的に話すのは違うんじゃないか?」
見上げれば、ノアの姿が近くにある。青年とヘザーの間に入り、ノアは青年に冷静な声をかける。青年は分かりやすく不機嫌な舌打ちをした。
「お前こそ誰だよ。俺は今、カスターニュと話してるんだ。邪魔をするな」
「カスターニュ……?」
「なんだ。カスターニュ、もしかしてお前、正体を偽ってるのか? どこにいても卑怯者は卑怯者のままか」
ノアの反応に青年はフンッと鼻を鳴らして笑う。青年は丁寧にもノアに話すときはラタアウルムの言葉を使った。思えば、似たような言葉とはいえ、さっきの青年の怒号をノアはどこまで理解したのだろう。
ヘザーの心臓は彼の単純な嫌味に簡単に潰されていく。
「教えてやるよ。俺はナサニエル。そいつのせいで国を追われた人間だ」
「……獣医がいると聞いたが」
「俺も獣医の端くれだ。父の方が優秀だがな。故郷を追われ、家族でこの国に来た」
ナサニエルは黙ったまま白い顔をしているヘザーを見下ろし、恨めし気に眉を歪ませる。
「カスターニュ。お前もまさか、この国にいるとはな。とっくに死んだかと思ってた」
恐る恐るナサニエルに目を向ければ、彼は苦悩を滲ませた瞳を揺るがせた。
ナサニエル・グリーン。彼の姿を忘れるはずがない。
彼は、ハドリーの最愛を受ける唯一の人間だった。彼とハドリーは、まさに相思相愛の恋人だったのだから。
「生きてて清々した。文句の一つも言えずにいるほうが拷問だ」
ナサニエルの表情には悲しみが染みついているようだ。口は悪くとも悲壮感が漂う。
ナサニエルを見たヘザーは、ちらりとノアの横顔に目を向ける。ノアはモギーを抱えたまま、何が起きているのかよく分からない様子で眉を寄せていた。彼は自分のことを何も知らない。知ってほしくはなかった。けれど。
「……ナサニエル。久しぶりね。あなたこそ、無事でいて何よりよ。国を追われたのは残念だけれど」
ヘザーは断腸の思いで息を吸い込み、かつての口調を再現する。母国にいた頃、貴族という限られた身分に身を置き、優雅さと気品を忘れないようにと教育された話し方だ。久しぶりに、母国の言葉を口にした。
ノアの視線がこちらを向いた気配がする。が、ヘザーは恐怖に負けぬようにと口内を噛みしめる。
「同情するふりはいらない。お前がハドリーと俺の関係をヒューバートに言うと警告しに来たコートニーが、今、国を出れば罪には問わないと言ってきた。それも俺だけでなく、家族全員に。家族には申し訳なかったが、理解のある人たちで幸いだった。国を出てからは旅医師として点々としてきた。ここにも、その一環で来たんだ」
「コートニーに?」
「そうだ。カスターニュが秘密を揺さぶってハドリーを脅していると言いに来たんだ。もともとコートニーとハドリーの婚約を破棄させたのもカスターニュだ。コートニーは、自分がハドリーと結婚すれば、二人の関係を影ながら認めたのに、と嘆いていたよ。一方のカスターニュは富と権力に執着し、ハドリーのことも踏み台の一つとしか考えていないと。が、そのうちにハドリーに惚れて、俺とハドリーの関係に嫉妬し、狂ったのだと。ハドリーを裏切り、ヒューバートに告げ口する。そうすれば秘密を守らせるために要求をなんでも聞いてもらえるから、と」
「コートニーは、他に何か言っていた?」
「カスターニュが動く前に、彼女がハドリーを脅していたことも含めてすべてを話すと言っていた。そうすれば、故意に秘密を隠し、利用していたカスターニュを処刑することは出来るからと。その前に、あなたは先には逃げて欲しいと言われた。国を出れば、二人はともに暮らせるはずだから、と。彼に会いたいと言ったが、コートニーに急かされてハドリーに会う時間もなかった。翌日にでも衛兵が家を訪れそうで、躊躇っている暇なんかなく、俺は国を出ることになったんだよ。ちょうど、式の日の前日だ」
ナサニエルは腕を組んで何度も確認するなと言わんばかりに顔をしかめる。
「……そう」
「だが、俺も馬鹿だった。コートニーの言葉を信じるなんて。あいつはハドリーのことは守ると約束した。後で彼にあなたを追いかけさせるから、と。が、実際、そんなことはなかった」
「ハドリーは……どうしているの?」
ナサニエルの重い語調にヘザーの気道が狭くなる。強気なはずのナサニエルの目元が今にも儚く崩れていきそうだったからだ。
「行方不明だ。俺も一応追われる身だ。そこまで詳しくはない。どうにか情報を探しているが、なかなか難しい」
ナサニエルは組んでいた腕を解き、ノアの腕の中で眠るモギーに手を伸ばす。
「この子、診た方が良さそうだ。連れてきてくれたんだろ? 治療はちゃんとする」
「ああ。頼む」
ノアはモギーをナサニエルに渡し、目を覚ましたモギーの頭を撫でた。モギーが弱弱しい声で鳴く。
「代理で連れてきたんだ。後で飼い主にここに寄るように伝えておく」
「分かった。ほら、もう大丈夫だからな」
ナサニエルは自分を見上げてくるモギーに優しく声をかける。先ほどまでの張りつめた調子とは真逆の、とても穏やかな声色だった。
モギーに向ける穏やかな眼差しの奥に潜む彼の医師としての篤実な顔に、ヘザーは真剣に医学を学んでいたハドリーの姿を思い出す。
彼はきっと、ナサニエルのそういうところに尊敬の念を抱き、愛したのだろう。
ナサニエルはヘザーを一瞥し、何も言わずに背を向けて家の中へと戻って行った。彼の姿が扉に隠れてもまだ、ヘザーは狐につままれたような感覚が抜けない。
「アニャシア」
びくりと、隣から聞こえる声に胸を震わせた。
ずっと、この瞬間に怯えていたのだ。悪夢を見るほど苦しかった。が、残酷な現実には、目が覚めていても変わりなく魘されるのだ。
「彼はロノネア王国の人間だろ」
母国の名をノアが口にすれば、ヘザーの目が伏せられていく。彼の呼吸音に顔を上げた時、彼の瞳が見たことのない色に覆われていくように錯覚した。
彼は続ける。視界を遮るヴェールを探り行くかのごとく。
「君は、誰なんだ……?」
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