24 ひと足早く

 思い出す度、まだ手が震えている感覚に包まれる。

 ノアのアトリエで壺を叩き割ってから数日。バーカウンターに立つヘザーは、不意にあの日の衝動が脳裏に蘇りグラスを拭く手を止めた。


 きょろきょろと周囲を見回し、誰にも記憶を見られていないことを確かめてしまう。当然、アトリエでの出来事はノアと自分しか知らない。が、なんとなく。神秘な雰囲気を纏う旅人が店を訪れて、すべてを見透かし言い当ててしまうのではないか。そんなありもしない空想に誘われるのだ。


 実際に店内に目を向ければ見知った顔ばかりで、空想上の人物などいるはずがない。

 ヘザーは自分の馬鹿げた考えに苦笑し、再びグラスを拭いていく。

 やはり慣れないことをすると、思いがけないことまで考えすぎてしまうらしい。アトリエで足元に散らばる壺の破片を見た時、心の奥底に爪を立て、引っ掛かっていた錨が浮上していくようだった。もう一度壺を壊すかと問われても、あまり気の進む話ではない。出来ることなら、破壊に頼ることはしたくないのだ。けれどアトリエに行く前よりも、吸い込む酸素が軽く感じるのも紛れもない事実。


 ヘザーはピカピカに拭いたグラスをカウンターに並べ、そのきらめきを瞳に映した。

 壺を壊すことを提案してくれたのはノアだ。だから、ノアには感謝している。

 しかし、彼のことを思い出そうとすると、間近で見た彼の瞳ばかりが頭に浮かぶ。そうすると、胸が小さく高鳴り、緊張で指先が震えてしまうのだ。


 アトリエに行った日、ヘザーは掃除をした後すぐに宿に戻っていった。彼が送ってくれると申し出たが、それも断り一人でそそくさと帰路についた。

 どうしてわざとらしく彼を避けてしまったのか。

 あの日の自分は、まるで制御の利かない暴れ牛のようで、行動の訳を訊かれても正確には答えられない。むしろ、自分が教えて欲しいくらいだった。


「アニャシアちゃん、前に作ってくれた良薬をまた頼むよ」


 グラス越しに常連客の笑顔と目が合い、ヘザーは慌ててグラスから視線を上げる。


「はい。少し待っていてくださいね」


 良薬というのは、前にノアにも試飲してもらったヘザーの新作のカクテルのことだ。ヘザーがいそいそと瓶を手に取ると、髭面の常連客は連れの友人とカウンター席に腰掛けた。


「お前は昼間っから酒ばっかりだなぁ」


 今はまだ正午を回った頃。友人は呆れ半分羨望半分で髭面の男を小突く。


「これから忙しくなるからよ。午後は新人研修で予定がいっぱいだ。少しくらい栄養補給しておかないと、体力が持たないだろ?」


 常連客は髭を蓄えた口元を惜しげもなく綻ばせ、上機嫌に笑う。彼はこの街の新聞局に務めており、編集長からの信頼も厚い腕利きの記者だ。仕事にも熱心で、新人研修を任せられるのもまさに適任。ヘザーは二人の会話を聞き、変わりのない日常に目元を緩める。


「新人に迷惑かけるなよ? きちんと鍛えてやれ」

「分かってるって。だからこそ、今の俺には良薬が必要なワケ」

「ふふ。午後のお仕事の役に立てば光栄です。どうぞ、召し上がれ」


 カクテルを注いだグラスを男の前に置き、ヘザーは柔らかに微笑んだ。男は嬉しそうにグラスを手に取り、ヘザーに礼を言って待ってましたとばかりにカクテルを喉に流し込む。


「あ。そうだ。良薬といえばさ、お前のとこの犬、調子はどう?」


 友人が記者の男の喉仏が波打つところを眺めながら思いついたように訊ねる。


「調子はよくねぇよ。食欲もないみたいで、すっかり家の隅で丸まってる」


 記者の男は中身が残り僅かとなったグラスを力なくカウンターに置き、暗い調子で答えた。


「モギー、調子が悪いのですか?」


 ヘザーも男が飼っている犬のことは知っていた。捨てられていた雑種犬を拾い、そのまま飼ってもう六年になると彼が教えてくれたからだ。


「ああ。そうなんだ。風邪を引いたのか分からねぇが、三日前から大好きな餌にもまったく興味を示さない。散歩に行こうとしても嫌がるし」

「本当に風邪でも引いたんじゃないのか?」

「かもしれないが、分からねぇんだ。だが咳とかくしゃみは少ないし、風邪とは思えない。俺の知らないところで何か嫌なことでもあったのかもしれん」

「……モギー、大丈夫でしょうか?」


 記者の男の話にヘザーは不安を覚える。いつも話に聞いているモギーの様子がおかしいことが気になったのだ。言葉を話せぬ相手が何を抱えているのか、人間以上に分からない。が、ヘザー自身がペットを飼った経験はない。そのため、どうすればモギーの助けになるのか、憶測でしか物が語れないことが口惜しかった。


「一度、専門家の方に診てもらえるといいのですが……」

「俺もそう思う。が、この街には獣医師がいねぇ。隣町にもいないから、少し遠出をしなくちゃいけない。なかなかまとまった時間が取れなくてな……」


 男は悔しそうに眉間に皺を寄せた。すると、隣に座る彼の友人が突然手を叩く。


「諦めることはないぞ! 今朝、ルルと会った時に聞いたんだ。昨日の夜遅くに、古い家に住民が越してきたと。ほら、あの大通りから外れたところにある古い小屋だよ。前は画家が療養として使ってたっていう家の」

「あのボロ家か? ついに買い手がついたのか?」

「ルルは一時的に貸してるだけだと言っていた。ルルの親、不動産業をしてるからさ」


 ヘザーがぽかんとしていることに気づいたのか、友人は彼女に笑いかけて補足した。


「夜中に引っ越しってまたどうしてだよ」


 ヘザーが腑に落ちた顔をすると、記者の男が話の続きを催促する。


「何か事情があるんだろ。どうも外国から来た家族らしい。ルルも案内を手伝って、寝不足だとかなんだとか愚痴ってたよ。で、その家族がさ」


 友人はここからが本題だと言わんばかりに得意気に頬を吊り上げた。


「どうも獣医をしてるらしいんだ。この街には獣医がいないから、きっとありがたい人はいるでしょうね、ってルルが」


 そこまで聞くと、記者の男は友人の胸ぐらをつかむ勢いで前のめりになる。


「なんでそれを早く言わねぇんだよ‼」

「いや、お前、敏腕記者だから知ってるかなって。それに、さっき思い出して……」

「そんなこっそり越してきた家族のことなんてまだ知るかっての」


 記者の男は急いでカクテルを飲み干すと、ばたばたと酒代を懐から取り出して椅子を降りる。


「モギーを医者のところに連れて行かないと」

「待て。落ち着けって。お前、これから新人研修なんだろ?」

「だが……!」


 一瞬にして研修のことが頭から抜け落ちていたのか、記者の男はアッと口を開けてもだもだと足踏みした。彼のもどかしさは顔面に広がり、カクテルの余韻もすっかり吹き飛んでしまっている。まさに板挟みの表情だ。


「大丈夫です。私がモギーを獣医のもとへ連れて行きます」


 ヘザーは咄嗟に手を挙げて名乗り出る。記者の男はヘザーの発言に瞬きもせず、乾いた瞳で縋るように彼女の顔を見やった。


「いいのか? アニャシアちゃん」

「もちろんです。お店は今、落ち着いているので。キャルムさんに事情を説明して参りますね」

「アニャシアちゃん……‼」


 男の感激する声を背に、ヘザーは厨房にいるキャルムのもとへ向かう。事情を話せば、キャルムも快く了承してくれた。ヘザーはフロアへ戻り、彼らにすぐにでも出発できることを伝えようと口を開く。が。


「ノア……?」


 いつの間にかバーカウンターの前に立つ男が三人に増えていて、そのうちの一人と目が合った。


「アニャシア」


 ノアも彼女が裏から飛び出してきたことに驚いたのか、ぱちくりと瞬きをする。


「ノア、ちょうどいいところに来てくれたな。今からアニャシアちゃんがモギーを獣医のところに連れて行ってくれるんだ。ノア、お前案内してくれないか?」

「え? 獣医? そんなのいたっけ……?」

「今朝越してきたんだよ。なんだよ。皆情報に疎いなぁ」


 記者の友人は、一人だけ最新情報を知り得ていることに優越感を感じたのか、鼻高々に笑いだす。


「あの画家のボロ家にいるらしい。ノアなら道案内できるよな?」

「道は確かに分かるけど」


 記者の男に促され、ノアはヘザーの様子を窺うように再び彼女と目を合わせる。今度の彼には落ち着きが見えた。ついさっき、刹那に見えた彼の無防備な表情とは違い、いつもの飄々とした明るさを纏っている。


「ノア、道案内をお願いできる?」


 だからだろうか。ヘザーの指先にも平穏が広がっていく。ヘザーは小首を傾げてノアに改めてお願いをする。モギーの一刻を争うかもしれないのだ。道に迷っている余裕などない。


「分かった。じゃあまず、モギーを迎えに行こう」

「うん」


 彼が頷くと、心なしか胸に温もりが滲んでいくような気がした。想いのままに、ヘザーは穏やかに微笑み返す。

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