23 窪みの中で

 ノアが部屋に戻ると、ヘザーの頭部にはウィッグとカチューシャが鎮座し、彼女は身なりも改めていた。

 交渉の結果を気にするヘザーの深刻な表情に対し、ノアは最初、わざとらしく悲しげな顔をして考え込む。やはり駄目だったのか。ヘザーがそう思った瞬間に、ノアは満面の笑みで指で丸を作った。


 彼の過剰な演出のせいなのか、ヘザーは自分でも驚くほどに喜んだ。ぴょこっと身体を浮かせてしまったことが、後になれば恥ずかしかった。

 キャルムとマクシーンに挨拶をし、なるべく早く戻ると告げてヘザーはノアとともに宿を出た。二人はゆっくりしてきていいよと言ってくれたが、その言葉に甘えるつもりはヘザーにない。


 宿の敷地を出ると、すでに街は目覚めていた。馬車や人々が通りを行き交い、街の平穏を裏付ける朗らかな挨拶があちこちから飛んでくる。

 建物が並ぶ通りを歩いていると、パン屋の店主が気の良い笑顔で手を振ってきた。よく見れば、彼はいつも酒場に来ている常連客の一人だ。明るい街中で見ると、見慣れたはずの人たちが別人のように見えるから不思議なものだ。


 ラタアウルムに来てからヘザーが街を歩くのはこれが初めてだった。仕事の中で、近所の人たちと挨拶を交わすくらいの機会はあったが、あくまで宿の近辺でのこと。

 木々に囲まれ、隔離されたかのような宿の立地とは違い、街は人で溢れて鳥のさえずりよりも人々の声の方が大きい。活気のある空気に心なしか浮足立ちながら、ヘザーはノアとはぐれないように彼と歩幅を合わせていった。


 流れていく街の景色にヘザーが興味を示していることは隣のノアにも伝わっているらしい。彼は彼女がしっかり街を観察できるように、歩幅を狭めてのんびり歩く。

 宿から十五分と少し歩いたところで、ノアはカフェと住居の間の路地を曲がる。路地の地面は石畳だが、歩くうちに石に混じって緑の面積も増えていく。

 地面に敷く石の間隔と隙間を埋める緑の絨毯は見事に計算されているようだ。足元を見ているだけでも、一つのアートを見ている気分になってくる。

 路地をしばらく進めば、通りから引っ込んだところに小さな家のようなものが見えてきた。


「ここだよ」


 ノアに言われ足元から顔を上げれば、隣接する両脇の建物の間に設けられた広場に背の低い建物がある。ヘザーは来た道を振り返り、大通りに見える人波と目の前にあるこじんまりとした建物を交互に見やる。

 距離としてはそこまで離れていない。が、路地を曲がる前まで歩いていた通りが遥かに遠くに見えた。ノアのアトリエは確かに街の中にある。けれど、どこか浮世離れしていて、アトリエだけが別世界の空間にあるように思えた。


「どうぞ、いらっしゃい」


 ヘザーが心地良い迷路に入り込んだ感覚に浸っていると、ノアがアトリエの入り口から手招きする。彼が立つ石造りのアトリエは、魔法使いが住んでいると言われればそのまま信じてしまいそうだ。

 ヘザーは少しだけ楽しくなり、わくわくした気持ちが表情にまで表れていく。


「わぁ……! 中は、思ったよりも広いのね」


 ノアが抑える扉をくぐり、ヘザーはアトリエを見渡して感嘆の声を出す。


「向こうの部屋に窯がある。今は」

「骨灰磁器を作っているのよね」

「そう。覚えててくれた?」

「ええ。とても興味深くて、気になってしまうもの」


 ヘザーはくすりと笑ってノアを振り返る。彼は入ってすぐ横にある棚に並べた瓶を指差し、瞳だけをヘザーに向けた。


「あれが磁器の材料だ。骨灰もあそこに詰めてある。原材料を混ぜて粘土にするのが、結構大変なんだよな」

「すべて一人でやっているのね」

「ああ。これは仕事じゃなく趣味だし。納期とか、そういう類のものもないから気楽だよ。精神統一して成形していると頭がスッキリするし、そんな時間が俺は好きなんだ。完成までに時間はかかるけど、その喜びが、また堪らなく夢中にさせる」

「ふふ。楽しそう。これも、ノアの作品?」


 ヘザーは部屋の隅の棚に置かれているいくつかの上品な磁器に視線を送る。


「そう。あれはほぼ完成していて、状態を確認後に知り合いのカフェに贈る予定なんだ。俺が磁器作りをしていることを知っていて、いくつか作って欲しいと頼まれたから」

「まぁ。それでも仕事ではないのね」

「あくまで趣味だ。喜んでもらえるのなら、こっちも作り甲斐があるしさ」

「なんだか羨ましい。酒場にも作ってもらいたいものね。ああ、でも、あまり合わないかしら。ふふ、少し残念ね」

「昼の時間なら、まだ使えるかもしれないけど」


 ヘザーが寂しそうに肩をすくめると、ノアは彼女に同情するように目元を緩ませた。


「あ。それで、見せたいものって何かしら? どれも素敵な作品だけれど」


 今日は彼の肩の力が抜けた柔らかな表情ばかりを見ている。ヘザーは喉の奥に僅かな痒みを覚え、彼の眼差しから抜けようと瞳をちらちらと部屋の中に散らす。

 これ以上彼の陽日を真正面から浴びていると、どうにも気が落ち着かない。知らずうちに鼓動が早くなってしまいそうなのだ。


「うん。用意するよ。アニャシアはここで少し待ってて。好きに見てていいから」


 ノアの言葉にヘザーはこくりと頷く。ノアは隣の部屋に移動し、真っ白な扉を閉めた。残されたヘザーはノアが次に作ろうとしている磁器のデザイン画に目を通す。

 モザイクアートを依頼した時、彼が容易にデザインを考案してくれたのも頷ける。

 彼は普段、ここでたくさんの時間を過ごし、多くのアイディアを形にしているのだから。


「お待たせ、アニャシア」


 何枚かデザイン画をめくっていると、いつの間にかノアが部屋に戻ってきていた。


「それは何かしら」


 部屋に来たのは彼だけではなく、彼の傍らには土を固めて作られたような壺の形をしたものがある。数は三つ。どれも質素だが、表面には模様が施されている。ノアはその壺たちの下に大きなクロスを敷き、壺の周りの空間を何やら入念に空けていた。


「これは前に発掘された土器を真似して作ったものだ。当時の人がどんな気持ちでこの模様をつけたのか同じ目線に立ってみたくて。でも、もう役目は終わった。だから」


 ノアは手に持っていた太い木の棒をヘザーに差し出す。


「アニャシアに壊して欲しい。これは紛い物だし、残す必要もない。むしろ壊すべきなんだ」

「え……でも……」


 ヘザーが戸惑って手を引っ込めると、ノアは爽やかに笑ってみせる。今日見た中では一番凛々しさを滲ませている笑みだ。


「いいんだ。アニャシア、君も、思い切って気持ちを発散した方がいい。俺も休養を克服するとき、脳がぐちゃぐちゃになって戸惑っていた。で、ぼうっとして、偶然グラスを手から滑らせて割ってしまった。その瞬間、何かが吹っ切れたんだ。そこで思い立って、作りかけだった像をがむしゃらに壊してみた。ぼろぼろになった像を見て、初めて鬱憤や葛藤を溜め込みすぎていたんだって気づけた。あのまま溜め込んでいたら、俺はきっと取り返しがつかなくなってたと思う」 


 ノアはヘザーの右手を取り、その手のひらに木の棒を乗せる。


「時に、大胆なことをした方がかえってスッキリする。暴力的で、抵抗はあると思うけど。俺以外は誰も見てない。ただ、自分を抑圧する枷を壊すつもりでいればいい。ここで今からすることは、誰も咎めないから」

「……抑圧する、枷」


 ヘザーは手に乗せられた木の棒をじっと見つめた。ノアに指を丸め込まれ、握りしめた木の棒はヘザーの力だけで支えられている。ノアは一歩ずつ後退し、部屋の隅に寄った。


「俺はいないものとして考えて。ただ、怪我すると危ないから、もしもの時のためにここにいるけど」


 ノアは両手を上げてひらひらと揺らす。まるで、自分は透明人間です、と主張しているようだった。

 ヘザーは自分の前に三つ並んだ壺を見下ろし、数分間無言で眺め続けた。

 壺を破壊していいと言われても、やはり抵抗感は否めない。そんな野蛮な行為、これまでの人生で一瞬たりとも思いつくことがなかった。


 握りしめた木の棒は下を向いたまま。ノアの助言を信じてみたい気持ちと、それを抑える理性がぶつかり合う。

 駄目だ。駄目だ。駄目。でも。

 埒が明かない問答はいずれ脳内で靄となり、迷宮へ吸い込まれていく。

 靄が濃厚になるにつれ、自分が何を考えているのかも分からなくなる。

 嫌だ。もう嫌だ。何も考えたくはないのに。イヤだ。

 悶々と、何も出来ないままに立ちすくむ自分に嫌気がさしてきた。


 瞼をぎゅっと閉じ、ヘザーは複雑に絡んでしまった思考を一度リセットする。


 すぅ。


 一息。僅かな量で充分だった。空気を吸い込んだヘザーは思考をすべて捨てて木の棒を大きく振りかぶる。


 ガシャッ‼


 壺の悲鳴が部屋中に響く。無機質な喚き声がヘザーの迷いを吹き飛ばした。

 木の棒を両手で掴み、ヘザーは何度も上から振り下ろす。その度に、壺はひび割れ、欠片となって飛び散っていく。

 腕力に自信のないヘザー。だが一度では難しくとも、何度か叩けば壺は姿を変えていった。次第に、もう壺とは呼べない何かになっていく。


 壺を壊していくヘザーの脳裏には、ぼんやりとした輪郭が浮かんでは消えていった。

 結婚式当日、控室に飛び込んできたヒューバートの険しい顔。晒し首の如く掲げられた自分を悍ましい目で見る来客たちの着飾った服。牢獄で見た冷淡な衛兵の眼差し。卑しく笑う老婆の声。麻袋に身体を押し付けてきた、ざらついた肌の感触。


 一つ一つの記憶が蘇るたび、ヘザーの勢いも激しくなっていく。

 無意識のうちにヘザーは叫びにも似た声を発していた。何と言っていいのか分からない。彼らを罵倒したいわけでもない。が、声を出していないと、身体が過去の恐怖に耐えられないのだ。

 最後の一撃で、壺は木っ端微塵に砕け散った。


「アニャシア」


 息を荒くして壺の残骸を見つめるヘザーにノアが近づいてくる。

 ヘザーは自分が何をしたのか飲み込みきれていなかった。肩を大きく上下させ、放心状態でノアを見上げる。何者かに操られていたように、さっきの自分はまるで自分ではない感覚だ。木の棒から手を離すと、身体の奥底に焦げ付いた怒りが剥がれて崩れていく。


「ありがとう。これで紛い物の歴史は消滅した」


 ノアはニヤリと笑い、ヘザーに向かって親指を立てた。ヘザーの呼吸はまだ荒い。足元に散らばった破片を靴先で集めるノアの動きを見つめることしかできなかった。


「……ノア」


 破片の多くが一箇所に集まってきたところで、ようやくヘザーが口を開く。身体を屈めて床の掃除をするノアの口元は、まだ微笑みを浮かべたままだ。


「ありがとう……」


 ヘザーの瞳は力が抜け、重圧から逃れたかのように穏やかだった。


「うん。なかなか大胆な壊しっぷりだったな」


 くすくす笑うノアは笑ってはいけないと思ったのか、口元に指を運んで笑みを抑えようと試みる。が、ヘザーは彼が笑っていることではなく、そのこめかみについた土埃に目を向けた。


「ノア。ごめんなさい。破片が飛んでしまったのね。怪我、してないかしら」


 ヘザーは慌ててノアの左のこめかみを指で拭う。埃を払い、視界の邪魔をする彼の短い髪を搔き上げる。顔を近づけて確認すれば、特に傷の形跡は見えなかった。


「……よかった」


 彼が怪我していないことに安堵し、ヘザーはほっと胸を撫でおろす。


「はは。大丈夫だってアニャシア。ちゃんと離れてたからさ」

「あ」


 彼の笑い声がえらく近くで聞こえると思えば、すぐ傍に彼の瞳があることに気づき、ヘザーの動きがぴたりと止まる。

 怪我をしていないか確認するため、随分と顔を近づけてしまっていたみたいだ。昨夜とは違い、彼の瞳の中に自分が入り込んでいた。


 ヘザーが息を止めたので、ノアは不思議に思って瞬きをする。ほんの少し。僅か数秒だった。けれど、時計の針が時を刻むのよりもずっと長い時間に感じた。

 間近で薄緑色の瞳と目を合わせ、時も居場所も忘れてしまったのだ。


「そう。そうよね。ふふ。あ。私も、片付けを、手伝う」


 どこか気まずさを感じ、ヘザーはぱっとノアから離れる。彼女の居心地の悪さを感じ取ったのか、ノアもぎこちなく相槌を打つ。


「ああ、悪い。あっちに、箒があるから」

「はいっ! 取って参ります!」


 妙にはきはきと喋ってしまう。カチコチした動きでノアに言われた場所に向かうヘザー。左右の両手足が噛み合わない。

 咄嗟に背を向けた彼女をノアは横目で見やり、すぐに手元に視線を戻す。こちらもまた、朝から絶えず纏っていた余裕を失いかけているようだ。

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