20 酒は良薬…?

 サンドラに想いを告げると宣言したジェイデン。その場に居合わせたヘザーもノアも、酔った勢いに呑まれて口走ったのだとあまり本気にはしていなかった。


 特にノアは、彼がティムと同じく色恋においては慎重な性格であることを熟知していたからだ。ティムとジェイデン、どちらが先に動き出すか。この根比べは、騎士団の仲間たちの間でも賭け事でよく使われていた定番の題材だ。


 ノアは賭けに参加したことはないが、見たところ、僅差でジェイデンが劣勢だった。つまりはジェイデンがサンドラに告白するなど、誰もがあり得ないだろうと口を揃える出来事だということだ。実際、ヘザーの力添えもあり、ティムはジェイデンよりも先にレイニーとの距離を縮めた。それも、彼らをよく知る周囲の人間たちにとっては予想通りの展開だったと言える。


 が、ある意味で絶大なる信頼を寄せていたジェイデンが唐突に皆の期待を裏切った。幻日が浮かび上がる空の下、彼はサンドラに真摯な愛を伝えたのだ。


 レイニーの店で偶然出くわした二人はそのまま一緒にランチを食べ、街をぶらぶらと散歩した。別れ際、幻想的な空の輝きに胸を駆られ、気づけば彼女に好きだと告げていた。振り返れば、衝動のままに口走ってしまっただけかもしれない。けれどこれまでの日々に募らせた想いを抑え込むには、もう限界が来ていたのだろう。


 あっけなく。本人すら思いがけないほど突然に。

 ジェイデンの恋は、夕暮れとともに地平線の遥か彼方へ沈んでしまった。


「……ジェイデン、大丈夫かしら」


 酒場の隅で一人、小瓶を片手に項垂れるジェイデンを一瞥し、ヘザーはカウンターでカクテルの試飲をしているノアにそっと訊ねる。


「大丈夫、じゃないかもしれないな」


 身体を半分回し、ジェイデンの方面を振り返ったノアは苦々しく笑う。


「サンドラははっきり言ったんだってさ。自分の恋人はルルだと。サンドラも、周りの多数が二人の仲を知っているから、ジェイデンが知らなかったとは思わなかったと言っていた。彼女も驚いて、結構気まずい空気が流れたらしい」


 ノアの声はジェイデンを気遣っているのか優しかった。ノアもジェイデンを励まそうと声をかけたが、彼は一人になりたいのだとふらふら遠のいていったと言う。


「サンドラとはこの店で出会ったんだ。彼女の兄が騎士団にいて、俺とはもともと知り合いだった。で、当時のジェイデンは俺のことを師匠とか呼んでたからさ。サンドラが面白がって彼に声をかけたんだ。意気投合して、サンドラにとっては気の合う友だちのつもりだったんだろう」

「サンドラもジェイデンも、誰も悪くはない。想いが必ず実るとは限らないもの。相手が誰だろうと、それは誰にでも起こり得る出来事だもの」

「ああ。そうだな。だから、今は見守るしかない」

「……傷を癒すのには時間がかかるものだものね」


 ヘザーは新たなカクテルを注いだグラスをコトンとノアの前に置く。


「おっ。新作のペースが速いな。アニャシア」

「ふふ。手を動かしていないと気が済まなくって。マクシーンさんたちの影響かしら」

「気持ちは分からなくはないな」


 ノアはくすくす笑ってグラスを手に取る。


「良薬に着目して配合してみたの。良薬は口に苦し、って言うでしょう? だから、少し渋い味をしていると思う」

「確かに、まったく甘味はない。これが本当に良薬で、ジェイデンの心にも効いてくれるといいんだけどな」


 既に何杯も試飲に協力してくれているノアだが、依然彼の顔色は健やかなまま。このまま堅苦しい式典に出ても問題がないくらい、彼の身体を支える芯はびくりともせず真っ直ぐだった。彼が酔うことなどあるのだろうか。酔ったノアの姿が想像できず、ヘザーはクスリと微笑む。

 新作を口にしたノアは、グラスを唇につけたまま再びジェイデンの様子を窺おうと振り返る。すると。


「──っと、あれはマズいな」


 ジェイデンを見た途端、ノアは急いでグラスをカウンターに戻す。


「どうかしたの?」


 ヘザーが訊ねる間にもノアはジェイデンが一人占拠している机へ駆けて行った。何事かと、ちらりと視界を掠ったノアの慌てた表情が気になったヘザーも彼の後を追う。


「ジェイデン、それは没収させてもらう」


 ジェイデンの前に立ったノアは彼が口に運ぼうとしていた小瓶を強引に奪い取った。ノアに追いついたヘザーは首を傾げ、ノアの手に収まった小瓶を見つめる。


「いいだろぉー、ノアぁ。今は意識を飛ばしたい気分なんだよ。飲まずにやってられるかよ」

「ならアニャシアの試作品の味見に協力しろ。たくさん飲めるぞ」

「俺は今、それが飲みたいんだよぉ」


 ヘザーが見ていた限り、今日のジェイデンはまだ酒場では一滴も酒を飲んでいないはずだ。にもかかわらず、奪われた小瓶に向かって手を伸ばすジェイデンの力のない動きは、もうとっくに酔い潰れてしまった人間のそれに似ている。


「だめだ。前に飲んだ時、大変なことになっただろ」

「いい。それでいいんだ。気分が悪いくらいが今の俺にはちょうどいい」

「んなわけあるか」


 ノアは冷静な声で言葉を挟むと、手に持った小瓶を自分の口元へと近づけていく。


「あっ! ズルいぞノア!」


 ジェイデンの縋るような声も虚しく、酒を口内に流し込んでいくノアの勢いは止まることがなかった。見る見るうちに小瓶から液体が減っていき、あっという間に空になる。


「もうこれで、お前は飲めないな」


 トンッと空になった小瓶を机に置き、ノアは得意満面な笑みを浮かべた。


「ああああ。ノア、ひどいよ」


 ジェイデンの悲痛な声が机に崩れていく。悲しそうに顔を伏せたジェイデンの背中を眺め、ノアはふぅ、と息を一拍吐いた。


「ノア、それは何のお酒なの?」


 わんわん泣くふりをするジェイデンの前に置かれた小瓶にヘザーは顔を近づけてみた。


「ああ、それは──」


 ヘザーの疑問に答えようと、ノアのしっかりとした声が返ってきたかと思えば、すぐにその声は途切れてしまう。


「ノア……?」


 不自然に切れた彼の声にヘザーが顔を上げると、ノアの瞼が重たく落ち、目を閉じたのと同時に彼の身体も床に向かって崩れていく。


「ノア‼」


 頭を打ってしまいそうで、ヘザーは慌てて彼の上半身を受け止めようとする。が、鍛えられた肉体のせいか、見た目よりも彼の身体は重かった。贅肉のない均整の取れた身体つきが災いし、ヘザーも彼の体重に引っ張られて床に倒れかける。


「アニャシアちゃん、大丈夫かい?」


 幸い、傍の机で一人飲みをしていた常連客が手助けしてくれ、二人して床にひっくり返ってしまう事態は避けられた。


「ありがとうございます。ノアが、突然倒れてしまって……」


 ノアの頭を腕に抱え、ヘザーは彼がちゃんと呼吸しているかを確かめる。耳をすませば平坦な呼吸音が聞こえてきた。手首に触れてみても脈は正常に動いている。顔の血色も残っていて、一見すれば眠りに落ちているだけに見えた。

 机に突っ伏していたジェイデンもノアの隣にしゃがみ込み、彼のシャツのボタンを外して胸元を開く。


「あの酒、前に外国で仕入れたんだけど、すごく強い酒でさ」

「ノアは酒に強いが、流石に一気飲みは無謀だろう」

「ほんと。無茶苦茶だよ」


 常連客が苦笑してもっともなことを言うと、ジェイデンは複雑そうに頬を歪めた。


「アニャシア、ノアをどこかに寝かせたいんだけど、場所、あるかな?」

「はいっ。えっと……」


 ジェイデンと目が合い、ヘザーは今日の宿の客入りを素早く計算する。宿が話題になったおかげか連日多くの宿泊客が訪れていた。中には満室になる日も出てくるほどだ。確か、今日は。


「……わ、私の部屋へ運んでください」


 ヘザーはジェイデンと常連客に今日の空室を告げる。そうだ。今日も満室で、空室など存在しない。けれど自分が借りている部屋ならば使える。まずは倒れたノアを介抱することを優先しなければ。ヘザーは迷いなく結論を出した。


「分かった。おっちゃん、手伝ってくれる?」

「おう、任せな」


 ジェイデンと常連客は息を合わせて立ち上がり、ノアを無理矢理立たせる。


「……んん」


 完全に意識を失ったわけではないらしい。身体が縦になったノアは寝言のように呻き声を出す。


「こちらですっ」


 ヘザーは二人の行く道を開けるために先導し、酒場に集まった人々に頭を下げながらロビーに出た。人を抱えて三階まで階段を上るのは根気がいる。それでも常連客とジェイデンは文句の一つも言うことなく着々と足を上げ、ヘザーの部屋までノアを運んだ。


 ベッドにノアを寝かせると、ヘザーはジェイデンと常連客には先に酒場に戻ってもらった。やはり、友人とはいえお客様の手を煩わせるのは気が引けるのだ。

 ヘザーは水を多めに用意して再び階段を上がった。ノアの身体が僅かに熱い。水を含ませた布をノアの額に乗せると、彼の口から息とも声とも取れる音が出ていく。


「……ノア?」

「ん…………」


 呼びかけには応じられるようだ。ヘザーはノアの身体を横向きにさせ、汗をかいた首筋に布を当てた。汗を拭きとっているうちに、彼の鼻先にささやかな息が通っていく。

 布を離し、そっと顔を近づけてみるとノアが安定した呼吸を繰り返していることが分かる。どうやら本当に眠ってしまったらしい。


 衣服をジェイデンが緩めてくれたおかげで呼吸も楽そうだ。ヘザーはノアの身体から熱が引いてきたことを確認し、ふんわりと毛布をかけた。

 まだ酒場は営業している。下の様子も見に行かなければ。彼の目覚めに備え、ヘザーはサイドテーブルに水を詰めた瓶を置く。


「また、すぐに戻ってくるからね」


 すうすうと、穏やかな寝息だけが返事をする。こうなると、起こしてしまうことが申し訳なくなる。ヘザーは足音を忍ばせ、静かに部屋の扉を閉めた。

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