19 見え隠れ

 「ようこそ。お荷物はどうぞこちらへ」


 夕刻を迎えた宿は、宿泊客への歓迎の挨拶が絶え間なく続く。キャルムが受付をした後で、マクシーンは見るからに重そうな客の大荷物をものともせず抱えて階段を上がる。階段ですれ違ったヘザーは咄嗟に道を開けて宿泊客に頭を下げた。


「お帰りなさいませ」


 ヘザーの言葉に夫婦は微笑みを返し、マクシーンに続いて部屋を目指す。彼らは旅行客で、この宿に来るのは初めてだ。どうやら、ラタアウルムで密かに話題になっている宿だと聞きつけて宿泊先に選んでくれたらしい。

 マクシーンたちを見送り、ヘザーは急ぎ足で酒場へ向かう。キャルムとマクシーンが本来の仕事である宿の業務に付きっきりになる間、酒場を仕切るのはヘザーの役目だ。外も暗くなったばかりで酒場の客足はまだ少ない。今のうちに、雇ったばかりの厨房の新たな仲間たちに困りごとはないか確認しておかなければ。

 ロビー階に下りると、また大きな鞄を手にした新たな宿泊客が扉を開けたところだった。


「ようこそ。どうぞ、ごゆっくり」


 ぺこりと頭を下げ、柔らかな声で微笑む。

 少し前まで人の気配がなく、寂しい光景だったロビーとは大違いだ。

 暖炉の前に集う人々の賑わいを見たヘザーの胸がじわりと温かくなる。

 宿泊客らの協力もあり改装がほとんど終わった現在、宿の評判がじわじわと広がり話題を呼んだ。


 食事も美味しく、静かな街の中で自然とともにゆっくり寛げる。日常から乖離した美しい宿に、ぜひ、足を運んでみてはいかが。


 先ほどの夫婦のような旅行客だけではなく、特に旅行の計画もない近所の人間が気晴らしに泊まることも少なくない。

 キャルムとマクシーンが思い描いた通り、今や宿は憩いの場として人々の心に馴染み始めているのだ。

 とはいえ、酒場の方も相変わらず盛況なことに変わりない。むしろ宿泊客が酒場にも顔を出すようになり、以前よりも活気が増しているくらいだ。


「アニャシア、今日は御馳走様。また来るねー」


 ヘザーがスイングドアを押そうと腕を伸ばすと、反対側から二人の娘が体当たりでドアをこちら側に開けて出てきた。


「はい。いつもありがとうございます」


 出てきたのはルルとサンドラだった。早くも酔っているのか、頬はうっすら赤い。二人は身体を寄せ合って胸をくすぐるような声でヘザーに笑いかける。


「ふふふふ」


 ルルはサンドラにぴったりくっつき、身体を預けていた。ルルの肩をサンドラの手が優しく包み込む。


「バイー」


 サンドラは千鳥足のルルを支えながら、ヘザーを振り返って手を振った。ヘザーも呆気にとられたまま彼女に手を振り返す。そのまま二人は入ってきたばかりの宿泊客にドアを開けてもらい、外へ出ていく。


「……二人は、とても仲が良いのね」


 二人が揺らしたスイングドアが視界の端を行き来する。ヘザーは去って行った二人が残した余韻にぽつりと声をこぼし、どこかぼんやりしたまま酒場のフロアへ足を踏み出す。

 宿泊客の来訪が落ち着いた頃、入れ替わるように今度は酒場が一日で一番の盛り上がりを見せる。バーカウンターに戻ったキャルムも休む暇なしだ。


 マクシーンも新人教育に精を出している。一日中働き詰めの二人。休憩している姿を見せない二人を気遣いつつ、ヘザーはこれ以上二人に負担がかからぬようにてきぱき働いた。

 キャルムもマクシーンも出会った頃より生き生きして見える。実際、二人はヘザーに毎日の始まりが楽しみなのだと話してくれた。たくさんの人と触れ合い、彼らの一日を彩るきっかけとなれるのなら、宿も酒場も、どんな仕事も楽しくてしょうがないのだと。


 けれど、それぞれ身体は一つしかないのだ。ヘザーは彼らが過労で倒れてしまわないかが心配だった。しかし無理に休ませるのはかえって気を悪くさせてしまう。ならば自分が動くことで彼らの力になるのが良い。この夢の日々を少しでも長く続けるために。


「アニャシア、お疲れ様」


 ビールを運び、バーカウンターに戻ろうとするヘザーをジェイデンの陽気な声が呼び止めた。彼の隣にはノアもいる。二人で店に来たようだ。


「ありがとう。二人が一緒にいるなんて、なんだか珍しい」


 二人の顔を見た途端、忙しなかった心がふわりと羽のように浮き上がった。


「そう? これでも俺たちは師弟だから、わりと店でも顔を合わせてた印象だけど」

「最近のジェイデンは仕事で忙しかったから、確かに二人で飲みに来るのは久しぶりだろ」

「あ、そっか。確かに、アニャシアが来てからは久しぶりかもしれないな」


 ノアの見解にジェイデンは納得したらしい。人差し指でノアの顔を指差した。


「最近はアニャシアたちも忙しそうだけど。どう? 調子は」


 ジェイデンは机に曲げた両腕を置いてヘザーの方に身を乗り出す。


「ええ。とても賑やかで、キャルムさんもマクシーンさんも喜んでいるわ。私も、すごく楽しいの。でも、二人が少し心配なの。ずっと、休んでいないように見えるから」


 ヘザーはトレイを両手で抱え、身体の前に下げた。


「お客様の憩いの場になれているのは嬉しいけれど、二人にも、もっとゆっくりして欲しいと願ってしまうの。そんなこと、実際は難しいのだけれど」


 バーカウンターで酒を混ぜ合わせながら常連客らと会話をしているキャルムをちらりと見やり、ヘザーは指先できゅっとトレイを握りしめる。


「今は大変な時だろう。でも、二人はきっと、大丈夫だ」


 ノアはキャルムを一瞥した後で頬を緩めた。穏やかな表情の中、彼の目元は逞しく引き締まっている。まるで、闇の中で光を見つけたかのような眼差しだ。


「キャルムさんとマクシーンさんは互いを支え合っている。二人の絆は強い。素直に言葉にする必要もないくらい、通じ合っているんだ。だから、互いの限界もよく知っている。本当に苦しい時は、絶対にどちらかが止めようとする。相手の了承もなしにね。ちょっと強引だけど、そのおかげか、二人が一緒にいる限りは潰れることなんかない。大事な人を失うことの方が、夢を閉じるよりもよっぽど辛いことを二人はよく分かっているから」


 ノアはグラスを傾け、一口酒を含む。


「それに、今はアニャシアもいる。君も宿の評価に、十分に貢献しているよ」

「……えっ」


 グラスを机に置いたノアの意味深な笑みに、ヘザーの鼓動がどきりと乱れた。


「ティムの件。あいつ、やっとレイニーと自然に話せるようになったんだ。それをえらく感謝してるみたいで。きっかけをくれたアニャシアは俺の女神だって、大袈裟に団員に言いふらしてるらしい」


 ノアの語調から、得意気な顔をしたティムが仲間たちに話している姿が想像できた。


「はははっ。あいつ、まさに有頂天だな」

「私、そこまでのことは……」


 話を聞いたジェイデンがけらけらと笑う。どうやら有頂天状態のティムには物事を正しく捉えることが難しいようだ。同じく居合わせたルイスのことをすっかり省いている。ヘザーはなんだか肩身が狭くなり、恥ずかしそうに呟く。


「レイニーとティム、あれから一緒に出かけたり、順調に距離を縮めてるようだ。この調子なら、あとはどちらかが仕掛けるだけだな」

「へぇ。ようやくティムの長年の想いが報われるかもしれないのか」

「ああ。こっちは待ちくたびれたけどな」


 ジェイデンの感慨深い声に、ノアは少しだけうんざりしたように笑う。


「そうそう。レイニーと言えばさ、サンドラも最近はよく店に来るの?」


 酒を喉に流し込むノアを横目に、ジェイデンはヘザーに問いかける。その名前に、数時間前に店を出ていった彼女の背中がヘザーの脳裏に浮かぶ。


「うん。よく顔を見る。モザイクアートの件から、よく話すようになったの。たまに、街の最新情報とかも教えてくれて。私もサンドラさんたちが来るのをいつも楽しみにしているの。今日も、早い時間に来てくれたわ」

「サンドラ、もう帰っちゃったんだ」

「ええ。今日は少し、酔いが回るのが早かったみたい」


 残念そうに瞬きをするジェイデン。ヘザーは特に酔っていたルルの顔を思い出し、肩をすくめる。


「なぁ、ノア。俺たちももっと早く来ればよかったのになぁ」

「……そうは言っても」


 しゅんとした瞳をジェイデンに向けられ、ノアは気まずそうに言葉を濁す。


「ねぇアニャシア。ティムとレイニーみたいにさぁ、俺もサンドラともっと親しくなれるかな」

「え、と……それは……。私は、女神ではないので」

「ええー? そんなことないよ。アニャシア」

「ジェイデン、アニャシアを困らせるな」


 酔いが回ってきたのか、ジェイデンの頬は溶けかけている。ノアはジェイデンの前にある酒の入ったグラスを自分の近くに滑らせた。


「ノアまで意地悪言うなよ。俺がサンドラを好きなこと、知ってるだろ」

「ああ、知ってる。だから諦めろって言ってるだろ。サンドラは女だ」

「当たり前のことを言うなって。で、俺は男だ」

「だから駄目なんだよ」


 ご機嫌になってきたジェイデンの表情は徐々に明るく、声のトーンも上がってきた。ノアは完全に酔いに支配された友を憐れむように大きなため息を吐く。珍しく眉間にしわが寄っている。お手上げだとでも言いたげだ。ノアの行き詰ったような表情に導かれ、ヘザーの頭に一つの疑問が湧き上がる。


「よっし。俺もティムには負けてられない。サンドラに言う、言うからな」

「はいはい。お前の好きにしろ」


 ジェイデンの分の酒を口につけたノアは、再びため息を吐いて肩を脱力させた。


「ふふ。ジェイデンは少し飲み過ぎね。ノア、水を運びたいのだけど、手伝ってくれる?」

「ん? ああ、分かった」


 ジェイデンがこれ以上酒を飲まぬよう、ノアは彼の分のグラスを即座に空にしてヘザーの後に続く。残されたジェイデンは上機嫌に手を振って二人を見送った。


「悪いな、アニャシア。あいつ、そこまで酒に強くなくて」

「ううん。いいの。それより」


 厨房に入ったヘザーは、くるりと踵を返してドアをくぐったばかりのノアにそっと身体を近づける。内緒話がしたいらしい。背伸びをして出来る限り彼の耳に顔を近づけようとした。彼女の動きを察したノアは、そっと身体を屈める。


「変なことを訊くみたいでごめんなさい。ねぇ、サンドラさんのことなのだけれど、もしかして、サンドラさんとルルさんって、友だち以上の関係だったりする、の?」


 手のひらで作った壁の向こう側でノアの耳に囁かれた素朴な問い。ノアはスッと身体を真っ直ぐに戻して驚いた様子でヘザーを見つめる。

 彼女の声が切羽詰まり、ひどく緊張していたからだ。まるで大罪について話すかの如く、彼女の緊迫した瞳は禁忌の色を帯びていた。


「……そうだけど、えーっと……アニャシアも気づいた?」


 ノアは彼女の憂いに満ちた表情に瞬きを繰り返し、ひとまずの返事をする。やけにあっさりとした回答に、今度はヘザーが目を丸くする。


「え……? ほ、ほんとうに……? でも、同性の恋人なんて……そんな、堂々と……危険じゃないの?」


 どぎまぎと、安定しない脈にヘザーの鼓動はジグザグを描き始める。彼女の瞳の奥に焼き付いたハドリーの悲痛な涙が胸を搔き乱すせいだ。それまで誰かに見せたことなどない彼の涙。彼の命を脅かしたのは、彼自身が抱いた純粋な想い。同性だという理由だけで人を愛することを赦されず、悲劇は彼を逃してくれなかった。


 心臓の中心部から熱が引いていく感覚が、ヘザーの全身を強張らせる。呼吸も浅くなってきた。が、こちらを見つめる薄緑色の瞳は揺らぐこともなく、むしろ目の前の人間の方を心配しているように見えた。


「確かにサンドラとルルは恋人同士だ。レイニーも公認のね。というか、ジェイデン以外は大体みんな知ってることだ。はっきり教えてあげたいけど、なんか、あいつの真っ直ぐな目を見てたら言い難くて。友だち失格かな」


 ノアは瞬きも忘れたヘザーに向かって不甲斐なさそうな笑みを浮かべる。まだ、ヘザーの唇は強く結ばれていた。彼女の指先は微かに震えている。何かに怯えていることは明らかだ。


「ラタアウルムでは、人の想いを制限する決まりなどないよ」


 紫色が滲む彼女の爪先を一見したノアは、彼女を安心させようと柔らかく口角を上げて微笑む。彼の頼もしい眼差しに、ヘザーの瞳からようやく力が抜けていく。


「サンドラとルルを邪魔する者もいない。だから、安心していい」

「そう……なのね」


 緊張が引き、狭まっていた血管にどっと血が流れていく感覚だった。ヘザーは冷たくなっていた指先を丸め、ゆっくりと呼吸を広げていく。


「まぁ、ジェイデンがどう出るかは分からないけどさ」


 ノアは冗談めいてそう呟き、参ったように頭を掻く。


「きっと、ジェイデンも彼女の気持ちを尊重するはず」


 彼の冗談にふっと声を吐き出せば、人間味を失いかけていたヘザーの瞳に温度が戻る。


「俺もそう思う。が、落ち込まないわけがない。その時は励ましてやらないとな」


 ノアの覚悟にヘザーも同意する。


「あっ。ジェイデンに、この水を」

「ありがと。もう少ししたら、あいつを家に送ってくよ」

「うん。ありがとう、ノア」


 厨房に戻った目的を思い出し、ヘザーは急いでグラスに水を注ぐ。グラスを手に爽やかに厨房を後にしたノア。彼の足音が遠のくと、柔らかだったヘザーの表情が次第に凍てつく。


 迂闊だった。

 サンドラとルルの関係をハドリーとナサニエルに重ね、つい、過去の自分が出てきてしまった。

 自分の反応はノアにとっては過剰に見えるはず。彼は違和感を覚えただろうか。

 閉ざしきれない過去の呪縛。ヘザーの胸中に吹いた冷たい隙間風は、あまつさえ竜巻を引き起こしかねなかった。

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