21 コインの裏側

 酒場に戻ると、先ほどまでは賑わっていた客の姿がすっかりと消え去っていた。


「……ジェイデン、皆は?」


 一人、フロアの中央付近に座っていたジェイデンに訊ねると、彼はヘザーを見て情けなさそうに笑う。


「帰った。ノアが倒れたから。今日、あんまり飲みすぎると良くないかもしれない、って言って。ノアは普段は酔う奴じゃないから、あいつが倒れたのは警告かもってさ。皆、今日は大人しく帰って寝るんだと」


 かくいうジェイデンが机に構えているのも水の入ったグラスだった。バーカウンターにいたはずのキャルムを探せば、ジェイデンがすぐに答えを教えてくれる。


「マクシーンさんとキャルムさんは裏で片づけをしてるよ。私たちも今日は早めに休もう、って言ってる」

「そうなのね。二人が休めるのはいいことだけれど。……ジェイデン、は?」

「ちょっと、頭を冷やそうと思って。アニャシアにも謝りたかったし」


 ジェイデンは冷たいグラスを掲げて申し訳なさそうに眉尻を下げる。


「私に謝ることなんか何もないわ」

「いいや。ノアを倒れさせて、騒ぎを起こしちゃったから」

「あれはノアも無理をしすぎなの」

「ははっ。そうだけど。でも発端は俺が作ったものだ」

「ふふ。ジェイデンは正直者なのね」

「誉め言葉、だよね?」


 ジェイデンは半信半疑の笑みを浮かべ、くすくすと笑った。


「ジェイデン。あなたも無理はしないで欲しいの。あんなに強いお酒を飲もうとしていたのも、十分に無茶なことだから」

「ノアが一発で倒れるくらいだもんな。ノアの様子はどう?」

「今は眠っているわ。私もあの部屋で寝るから、何か問題があればすぐに知らせる」

「ありがとうアニャシア。面倒かけたね」

「ふふ。もうその話は終わり」


 ヘザーはふんわりした語調でジェイデンの気まずさを押し留める。ヘザーが話題を変えようとしていることはジェイデンも察していた。が、話を無理矢理に終わらせたところで彼の罪悪感が解消されるわけでもないのだ。


「……俺、情けなくて」

「情けない? どうして?」


 灯りを抑えた酒場のフロアを漂ったジェイデンの声にヘザーは柔らかな眼差しを向ける。


「サンドラのこと。皆、ルルとの関係も、彼女の想いも知っていたのに。俺は知らなくて。彼女のことが好きなくせに、大事な人の大切な想いにすら気づけなかった。それがすごく恥ずかしい」

「皆、想いを見透かせるとは限らないわ。ジェイデンはサンドラのことが本当に好きだったのね。大好きで、夢中になると、意外と視野は狭くなるものだから」

「そうなのかもしれないけど」


 ジェイデンは大きな息を吐きながら両手を頭の後ろに運んで伸びをする。


「やっぱ、自分勝手だなぁって思って。結局俺は、自分のことばっかり考えてたようなものだ。フラれたことよりも何よりもそれが悲しくてさ」


 腕を体側に下ろし、椅子の背に身を委ねて脱力するジェイデンの表情は悟りを開いたかのように穏やかだった。自嘲気味に笑うことは、今の彼にとっての一番の慰めなのかもしれない。


「あーあ。これもいつか、いい教訓だったって言える日が来るのかな。それとも、消し去りたい過去のまま過ぎていくのかな」

「どちらにしても、この経験がジェイデンのことを支えてくれるはず」

「うん。だといいな」


 ヘザーに笑いかけるジェイデンの瞳は、暗雲を吹っ切ったかのごとく晴れやかだった。「必ず、そうなるわ」彼の瞳を受けたヘザーは確信を持って頷いてみせる。


「そうだ。アニャシアも何かある? 消し去りたい過去。俺、アニャシアのこともあんまり知らないんだろうなって思って。気づかないうちにアニャシアのことも傷つけてたら嫌だなぁ」

「そんなこと、ないわ。ジェイデンは私を助けてくれたのだから」


 一瞬、言葉が詰まった。

 消し去りたい過去。もちろん、自分にだってある。

 だが本当に消し去りたいのか、生涯胸に抱えたまま痛みを覚えておきたいのか、未だにはっきりとはしない。


「アニャシア、生きていて消し去りたい過去がない人間なんて希少だよ。そりゃあ大体の場合、消し去りたいくらいだから人に話したくもないと思うけど。でも、誰かに話すことで思い出を手放せることだってある。今の俺がまさにそう。アニャシアに話して、少しだけ気が楽になった」

「ふふ。どうしても知りたいの?」

「話を聞いてもらった分、俺もアニャシアの力になりたいし。あ、でも無理にとは言わないよ。えっと……」


 椅子の背に傾けていた身体を起こし、ジェイデンはズボンのポケットを探る。先ほどまで項垂れていた青年とはまったくの別人のようだ。彼はすっかり元気を取り戻している。彼自身の変化が言葉に一層の説得力を与えた。


「これ、コイントスで決めよう。裏か表。当てた方が勝ち」

「あら。賭け事? 私、こういうのは初めて」

「何をするにも初めては貴重な体験だ。なんか、緊張しちゃうな」


 ジェイデンは朗らかに笑って唇で綺麗な弧を描く。


「アニャシアからどうぞ」

「……じゃあ、裏」

「俺は表か。よし」


 彼の生き生きとした調子に吞まれたのか、ヘザーは流れるように裏を選ぶ。落ち着いた声とは裏腹に内心はハラハラしていた。もし、コインが表を向いたら。

 ヘザーはごくりと息をのみ込み、楽しそうに笑っているジェイデンの横顔を見つめる。


「それっ」


 慣れた手つきでジェイデンはコインを親指で弾く。すると、コインは空中をクルクルと優雅に回転しながら真っ直ぐに机に着地した。緊張の一瞬。体温の上昇を感じながら、ヘザーはジェイデンとともにコインを覗き込む。


「…………表」


 ぽつりと声をこぼす。トクン、と、鼓動が胸に静かな波紋を広げた。


「表か、俺の勝ちだね」


 ジェイデンは頬を綻ばせてコインを回収する。さて、とヘザーを見ると、彼女は机からなくなったコインの残像を見つめたまま深刻な表情をしていた。


「あ。もう遅いし、ノアの様子も見た方がいいよね。アニャシア、次の賭けはきっと君が勝つよ」


 ヘザーの並々ならぬ雰囲気にジェイデンが気づいていないはずがなかった。無理に話させるつもりもない。今夜の賭け事は忘れ、ジェイデンは立ち上がろうと机に手をつく。が、彼が完全に立ち上がる前に、ヘザーの静かな声が彼を引き留める。


「待って。ジェイデン。私、初めての賭け事なの。ちゃんと、最後まで役目を果たさせて」

「でも、アニャシア」


 彼女の頬の半分はまだ強張っている。ジェイデンはヘザーに目線を合わせ、机の上に置かれた彼女の手をそっと包み込む。


「賭け事は楽しくやらなくちゃ。アニャシアの言うように、俺も君には無理させたくないんだ」

「ううん。無理ではないの。ただ、逃げているだけなの。過去の過ちから」


 ヘザーは真っ直ぐにジェイデンの優しく垂れた瞳を見つめる。


「私。私ね、過去に、大好きな人を不幸にさせてしまったの。彼が私のことを好きになることはないのに、婚約まで申し出てしまった。けれど、それは彼の意思に反する願いだったの。彼の想いがこちらに向くことは決してない。でも、彼を失いたくなくて……。彼のためだと言って、自分のために彼を縛り付けようとしていたの。彼のことを、反対に苦しめていたの。私が、誰よりも彼の気持ちを無視していたのに、そんなことにも気づかずに」


 ジェイデンの手の下で、ヘザーの手のひらが丸まっていく。声を出す度に、自らの心臓にナイフを切りつけている気分だった。今まで言葉にせずに目を逸らしてきた自責の念が一気に押し寄せた。一度口に出せば、洪水のように後悔が溢れてくる。


「彼を救おうとしていたのは、本当は自分のためだけだった。私の身勝手な思いつきのせいで、彼は、未来を奪われてしまった。苦しい。とても苦しいの。過去を思うだけで、彼を想うだけで、息が詰まって、身体が、ぼろぼろに壊れていきそうなの」


 涙は出てこなかった。代わりに、ぎりぎりと机の木目を爪が引っかく。恨めしい。自分が恨めしくて、憎かった。胸が悲痛な音に軋み、砕けてしまいそうだった。


「アニャシア。君は今、そうやって彼のことを思いやっているだろう? 過去の自分に囚われるな。君はこの国に来て、宿の客や酒場の客。キャルムさんやマクシーンさんの幸せに尽力しているじゃないか。過去の君とは違う。これ以上、過去の自分を償おうと責めなくていい」


 ジェイデンはヘザーの怒りに震える拳を力強く握りしめる。過去を眺めていたヘザーの瞳がゆっくりと彼の姿を捉えていく。


「アニャシア。自分を責めたくなったら、俺たちに話してよ。マクシーンさんでも、キャルムさんでもノアでもいい、俺の親父でもいいよ。とにかく、一人で抱え込まないでくれ。君が音もなく傷ついていくのは、とても耐えられないから」

「……ジェイデン」

「俺も辛い時は君に話す。なんだって話すよ。だから、アニャシアもそうするって約束して欲しい。じゃなきゃ、またあの酒を持ってくるよ?」

「それは…………できれば、避けたいものね」

「だろ?」


 ヘザーの拳がほどけていくのが分かり、ジェイデンは彼女がまた自分を傷つけてしまわぬようにその手をぎゅっと握りしめる。彼の砕けた笑い声が張り詰めた糸を緩めていった。ヘザーの唇は、自然と彼の表情を真似ていく。


「それにしても。アニャシアが振り向かせられない男って一体なんだ? そんな奴、いるものなの?」

「もちろんいるわ。友人として共に歩くことは出来ても、それ以上は決して寄り添えない。サンドラだって、ジェイデンはとても素敵な人だと思っているはず。でも、その先に踏み出すことはなかった。それと同じなの。……ふふ、そもそも、私にはジェイデンほどの魅力もないのだけれど」


 ジェイデンの好意的な表現に遅れて気づき、ヘザーは話すうちに恥ずかしくなって耳を赤く染めた。


「……なるほど、そういうことか」


 ジェイデンを例に出すことは気が咎めたが、そのおかげか、彼は直球に言わずとも意味を理解したらしい。


「俺たち、案外同じなのかも」

「ええ。ふふふ、それは、なんだか心強い発見ね」


 ヘザーが肩を揺らして微笑むと、ジェイデンは照れくさそうにはにかんだ。


「こちらこそ、光栄だな」

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