17 噂の名物さま
時間が経つにつれ、手が空いた近所の人たちも手伝いに来てくれるようになった。
人数が増え、作業は格段に調子を上げて進んでいく。
もう壁画はほとんど完成に近づいてきた。作業範囲が狭まり、手を動かす必要人数も減っていく。ロビーに座り込み、休憩を取る者も増えてきた。
キャルムは助っ人たちへの労いに温かなお茶を配り、和やかな談笑に場は包まれていく。店は閉めているのに、まるで酒場のフロアにいる気分になる。
最後の仕上げを施すためにヘザーは壁画の全体のバランスを確認した。ノアが描いたデザインとは大きく離れてもいないが、まったくその通りでもない。しかしその予定調和でないところがモザイクアートの魅力を引き上げていた。
「うん。すごくいい出来だ」
「あともう少しですね」
皆が集えば場所を問わず心地の良い時間が訪れる。きっと、彼らが醸し出す雰囲気が作品を更に鮮やかに色付けるのだ。ヘザーはノアの評価に朗らかに頷いた。
「おぉおぉ。石を貼り付けてるときは何をしてるのか実感が湧かなかったけどよ、こうしてみると立派な絵になってるものなんだな」
ソファで休んでいる助っ人の一人が鼻をほんのり赤らめて豪快に笑う。彼の手を見れば、恐らく酒が注がれているであろうグラスを持っていた。どうやらキャルムはお茶だけでなく、彼らの大好物である酒もサービスしているらしい。
「なぁ。キャルム、マックス、これは宿の新しい象徴になるぞ。なにせ、騎士団長の作品だと知れたらそりゃ一目見たいって話題になる」
「違いねぇ。確実に人寄せの効果は見込めるぞ」
鼻の赤い男の傍に座っていた別の常連客達も口々に壁画を絶賛した。
「そうなれば嬉しいことですねぇ」
キャルムは彼らの自信たっぷりの宣言にクスリと笑い、ノアに目を向ける。
「ノア。今回のことは恩に着る。次に酒場に来た時は、お代はいらないよ。せめてもの礼をさせて欲しい」
彼の声は拓けていた。明らかに表情に出ているわけではないものの、宿に新たな見どころが作られたことに心を躍らせているようだ。
仕上げのための準備をしているマクシーンもニヤリと笑い、満更でもない態度を見せる。しかしヘザーは二人のように素直には喜べなかった。この壁画が宿に客を呼ぶならそれは良いことだ。が、まず喜ぶ前に、常連客達の発言が引っ掛かる。
「……騎士団長? って、どなた、ですか」
ヘザーは隣のマクシーンにこっそりと訊ねる。ヘザーは小声で訊いたつもりだったが、常連客達には彼女の声がばっちり聞こえていたようで。
「アニャシアちゃん、何を言ってるんだ。ラタアウルム国の天下無双の騎士団長と言えば、ノア・レオーネだろ」
「えっ?」
「あれ? 本当に知らなかったのかい? ノアは国立騎士団の長の一人だ。少し前に怪我をして、今は療養中だけど」
ヘザーのポカンとした反応を見たマクシーンが驚いた顔をして補足する。
「ノア、そうなの? あなたは、騎士団に所属しているの?」
マクシーンも常連客もふざけた様子は一切ない。冗談を言っているわけではなさそうで、ヘザーは張本人であるノアに答えを求める。
「長って言っても、地域ごとに何人もいるものだけどね」
目を丸めたままのヘザーにノアはバツが悪そうに答える。
「まぁ、話題作りに貢献できるならそれにこしたことはないけど。皆そこまで俺に興味ないだろ」
妙な期待に気まずくなったのか、ノアはヘラヘラ笑って誤魔化す。
「ノア、そりゃねぇぜ。騎士団の中でも抜きんでた実力だって有名じゃねぇか。見栄えも悪くねぇ。むしろ上出来だ。謙遜は印象が悪いぜ」
「そうだそうだ。いっつも俺たちのことを気にかけてくれて感謝してるんだから」
「頼りになる団長様だよ」
常連客達はノアの簡素な自己評価に次々に茶々を入れる。
「でもそんなノアがまさか転んで怪我するなんて、気の抜けたところもあるもんだ」
「あれは身投げしようとした男を助けようとしただけだろ。ありゃしょうがない。むしろノアじゃなかったら助からなかったかもしれないしな」
「ああ。やっぱりノアは、俺たちの英雄だ」
彼らは勝手なことを言い合って乾杯を始めた。もはや酒場が開店したかのような砕けっぷりだ。
「そう言うわりに、俺のことを適当に扱うくせにさ。まったく、自由な奴らだよな」
ノアは背後から聞こえる声を雑音の如く振り払い、自分を見上げたまま固まってしまったヘザーに笑いかける。まだ彼女の頭の中は混乱しているようだ。二人の目は合っているようでどこか上擦っている。
「ノアー。これ、倉庫に残ってたよ。この色があれば完成するだろ?」
欠けていた部分を埋めるための材料を取りに倉庫へ行っていたジェイデンが戻り、ヘザーは藁にも縋るように俊敏に彼に訊ねる。
「ジェイデン。ノアが騎士団長って、知っていた?」
知らないはずがないだろう。分かってはいた。が、驚きの共感が欲しかったのか、少し変な問いになってしまった。
「うん。そうだよ。そういえば前に話を止めちゃってたね。ノアは俺の師匠でもあるし。本当に強いんだよね、こいつ」
「し、師匠? って、もっと年上の方かと思っていたわ。じゃあ、前にお墨付きをもらったって言っていたのも……」
「そうそう。ノアに貰った。お手合わせしてもらって、十分強くなった、って言ってくれたんだ」
「それがお墨付きになるのか?」
「えっ。ならない?」
ジェイデンが意気揚々と話すので、ノアが間髪入れずに疑問を挟む。ジェイデンはノアの不思議そうな表情に少し焦った様子を見せる。
「黙っていて悪かった。自己紹介の機会をすっかり逃しちゃって……」
青ざめたジェイデンをよそに、ノアは申し訳なさそうな声でヘザーに向き合う。
「いいえ。私こそ、勝手に勘違いをしていたから……」
身分を明かさなかったのは自分も同じだ。ヘザーは静かに首を横に振った。彼の素性を知った今、自らのことを隠したままの状況に気まずさを覚える。
別に、問いただされてるわけではない。けれど本来ならば、こちらの身の上を話す展開だ。誰にも責められてはいなくとも、ヘザーは自身を責め、自らで針の筵に向かっているような感覚に陥る。
彼は騎士団長であることを故意に隠していたわけではない。謝ることなど何もないのだ。ヘザーの胸がチクチクと痛みはじめ、体内の熱がマグマの如くゆっくりと煮えていく。いつの日か彼らに過去を語ることなどできるのだろうか。想像することも恐ろしく、ヘザーの表情が微かに歪む。
すると、宿屋の入り口の扉が開く音がロビーまで聞こえてきた。つい昨日、マクシーンが扉に取り付けた鈴の音だ。
「こんにちはっ。あれっ? もしかしてもう終わっちゃった?」
ヘザーたちが新たな助っ人に目を向ければ、はきはきとした声の娘がロビーを見渡して首を傾げる。
「サンドラ! 来てくれたの?」
癖のない真っ直ぐな髪の彼女に一番に反応したのはジェイデンだった。ジェイデンの表情はサンドラを見るなりぱぁっと華やぐ。心なしか瞳には光が取り込まれ、人懐っこい笑顔を彩っていく。
「用事が終わったから、もしかしたらまだやってるかなって思って。でも、皆思うことは同じだったのかしら。こんなに集まっちゃって」
サンドラはソファで寛ぐ助っ人たちの顔を順に見ながらくすっと笑う。
「マクシーンさんたちにはいつもお世話になってるから、何かお手伝いがしたかったんだけど」
「サンドラ、ありがとう。まだ終わってはいないから、この新たな宿の象徴の完成を見届けておくれよ」
マクシーンはサンドラを手招きし、あと少しだけ残した小石を彼女に渡す。
「あらまぁ、これがノアがデザインしたっていう模様ね? ふふ。思ったよりも素敵じゃない。趣味に没頭している間に芸術の才能に目覚めたのかしら?」
「あいにく、君の嫌味には乗らない主義で」
「まぁ、言ってくれるじゃない。騎士団への復帰を先延ばしにしているのは誰?」
ノアをからかうサンドラは、くすくすと肩を揺らしてマクシーンの言われた通りに石を並べる。
痛いところを突かれたのか、ノアは特に何も言うこともなく笑うだけだった。君には降参だ。ノアの苦い表情は正直に負けを認めていた。
「サンドラ。服が汚れるかもしれないから、これを使って」
「ありがとうジェイデン。相変わらず気が利くね」
作業に取り掛かるサンドラにジェイデンがエプロンを渡せば、彼女はジェイデンの腕をとんとん、と叩いてお礼を言う。エプロンをつけたサンドラは再び壁に目を向けるが、ジェイデンはそんな彼女の横顔からまだ目を離そうとはしなかった。彼女の真剣な表情に瞳が吸い込まれてしまったらしい。
「アニャシア、俺たちもあっち側の仕上げをしよう」
「うん」
サンドラに魅入るジェイデンを尻目に、ノアは近くの空白を指差す。
移動する彼の足元に少しだけ注目してみると、以前のようにもう足を引きずってはいなかった。いつからかは定かでないが、怪我はすっかり治っているようだ。
「アニャシア?」
彼の動きを見ていたヘザーはハッと顔を上げ、小走りで彼の傍に寄る。
騎士団への復帰を先延ばしにしているのは誰?
ついさっきサンドラが言った言葉の通りに受け取れば、もうノアは復職できる状態にあるが、自らの意志で復帰をしていないということを示すのだろうか。
「あとここに、あのガラス片を埋め込んで──」
凛然とした瞳で壁画を追う彼の横顔を眺め、ヘザーはぼんやりと考える。
隣にいる彼も、何か人には言いづらい感情を抱えているのかもしれない。
「アニャシア? どうかした?」
「えっ。ううん。なんでもないっ」
じーっと彼を見つめていたせいか、急にこちらを向いた薄緑色の瞳にヘザーの心臓が跳ね上がる。どれだけの間、彼のことを見ていたのだろう。
「そう?」
「うんっ。早く終わらせて、皆でお祝いでもしましょう」
「ははっ。それはいいな」
動揺を隠すヘザーに対し、ノアは軽やかに笑い声を上げる。
繭に包まれるような彼の朗笑に、ヘザーの瞳は再び彼を映すのだった。
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